尾高忠明さん&大阪フィルの西宮公演を聴いて
今日は、西宮の兵庫県立芸術文化センターで、尾高忠明さん&大阪フィルの演奏会を聴いてきました。演目は、下記の2曲。
●シベリウス 交響曲第1番
●ブラームス 交響曲第1番
シベリウスとブラームスの交響曲第1番を並べた、このコンビの演奏ぶりを真正面から確認できるようなプログラム。どのような演奏に出会うことができるのだろうかと、胸を躍らせながら会場に向かったものでした。
それにしましても、重厚感のあるプログラムであります。
このプログラミングについては、終演後にマイクを持ってステージに出てこられて、聴衆に挨拶をされた尾高さんが次のように説明をされました。「ここのホールでの公演は初めてなので、西宮のお客さんに喜んでもらおうと、このようなプログラムを組みました。」と。そして、「疲れました!!」と、言葉を続けられたのでした。
その「疲れた」という言葉が、途轍もなく真実味をもって響いたほどの、熱い思いの込められた演奏が繰り広げられた演奏会でありました。2曲ともに。
それでは、どのような演奏だったと感じたのかについて触れていきたいと思います。まずは、前半のシベリウスから。
尾高さんの演奏ぶりは、冒頭から(正確に言えば、クラリネットのソロが終わってから)実に熱かった。気魄が籠ってもいた。そして、重心を低く採りながら、逞しい演奏を繰り広げてくれていました。恰幅が良くて、気宇の大きな演奏でもあった。
と言いましても、テンポは遅くない。通常のテンポか、やや速めといったところでしょうか。そのうえで、細やかなテンポの揺れを伴いながら、演奏は進められてゆく。そのために、作品が持っている「呼吸感」が、シッカリと出ている演奏となっていた。更には、その結果としてのロマンティックな感興も充分であった。
そのような中でも、白眉は第4楽章であったと言えましょう。この楽章は、構造が入り組んでいて、ダイナミックな性格から、甘美な表情まで、表現の幅が頗る広い。そのような音楽を、放漫なものとせずに、集中度が高くて、生命力の豊かな音楽として奏で上げてゆく。そう、疾走感があって、かつ、連綿とした歌に満ちた音楽を奏で上げてくれていたのでありました。起伏に富んだこの楽章を、見事に描き上げていた演奏でありました。
ちょっと残念だったのが第3楽章。4分の3拍子で書かれているこの楽章は、旋律が3拍目から始まることが多い。しかも、その始まり方は、まるで1拍目であるかのような拍節感を持っている。そのため、もともとがアンサンブルの難しい楽章であると思うのですが、本日の演奏では、アンサンブルが若干乱れていた。或いは、音楽が破綻しないように、恐る恐る3拍目の音を出していたようにも感じられ、音の粒立ちの鮮やかさが乏しかった。
第3楽章に、やや不満は残ったものの、トータルとしては、充実の熱演でありました。尾高さんは、BBCウェールズ響のシェフを務めた経験を持っている等、イギリスの楽壇との結びつきが深く、そのこともあって、イギリス物と北欧物に、深い愛着を持っておられるように思えます。本日のシベリウスの1番は、そのような尾高さんの、シベリウスへの熱くて深い愛情が迸り出ていた演奏であったと言えましょう。
なお、大フィルのコクのあるまろやかな響きは、シベリウスの演奏でも健在でありました。
これは、メインのブラームスも大いに期待できるだろう、との思いで、休憩に入ったのでした。
後半のブラームスも、充実の演奏でありました。
序奏部は、やや速めのテンポで、粘らずに、かつ、力8分といった感じでのリラックスした演奏ぶり。それでも、響きは充実していた。そのうえで、清々しさもあった。そう、決して「これから熱演が展開されるのだ」といった雰囲気を醸し出すよう演奏ぶりではなかったのであります。
そのスタンスは、全曲を通じて貫かれていました。余裕を持って、そして、見通し良く、音楽を掻き鳴らしていった。そんなふうに言える演奏だったと思います。
とは言え、要所要所では、情熱的になる。過剰な力を入れるようなことはないものの、逞しくて、力感にも不足はなかった。それはまさに、王道を行くような演奏が展開されていたのでありました。(やや、予定調和的に過ぎる、という感じでもあったのですが。)
尾高さんの円熟ぶりが示されていたブラームス。その尾高さんの意図を汲みながら、シッカリと応えていた大フィルも、見事。尾高さんが大フィルのシェフに就任したのが2017年4月ですので、5年半、その座に就いていることになります。このコンビの成熟ぶりが窺えた演奏でありました。