アクセルロッド&京響の演奏会を聴いて

今日は、アクセルロッド&京響の演奏会を聴いてきました。演目は、マーラーの≪復活≫。独唱は、山下牧子さん(MS)と、テオドラ・ゲオルギュー(S)。

このコンビによる演奏会は、昨年の11/27(土)の定期演奏会以来で2回目。アクセルロッドは、2010年1月にN響で聴いたのが最初で、これが3回目になります。
そのN響との演奏会で、前プロとして演奏されたチャイコフスキーの≪スラヴ行進曲≫での、キリっとしていつつも、推進力に満ちた逞しい演奏に大いに惹きつけられてからというもの、アクセルロッドは、とても気になる指揮者となっています。
そして、ようやく、2回目の実演体験となった昨秋の≪英雄の生涯≫もまた、実に素晴らしい演奏でありました。その≪英雄の生涯≫については、フェイスブックのTLに、次のように綴っています。

2010年1月の、アクセルロッド&N響の演奏会のプログラム

なんとも見事な演奏でありました。それはもう、こんなにも素晴らしい≪英雄の生涯≫の実演には、滅多に巡り会えるものではないだろうと思えるほどに。
アクセルロッドによる音楽づくりは、折り目正しくて、どこにもハッタリがない。テンポの伸縮は必要最小限で、音楽が粘るようなことはなく、キビキビとしていて、かつ、毅然としている。
冒頭部分からして、私の心を鷲掴みにしてくれた。速めのテンポを貫きながら脇目も振らずに一直線に進んでいった冒頭部分は、それはそれは颯爽としたものとなっていました。聴き方によってはサラッとし過ぎているのではないだろうかと思えるものだったかもしれませんが、そこには純然とした音楽美が宿っていて、決然とした、そして、確固とした意志が刻み込まれている演奏となっていた。そして、2曲目の「英雄の敵」以降では、次第にロマンティックな感興が加えられていった。
全編を通じて、音楽が粘るようなことは決してないのだが、サラッとしている訳でもなく、作品が欲している「うねり」を充分に備えていて、雄大かつ雄渾な音楽世界が広がっていた。オケは思う存分に鳴らされていて、音楽の大伽藍が聳え立つような演奏となってもいた。
更に言えば、「英雄の敵」では、管楽器の音の粒立ちが実に鮮やかで、リズミカルでもあって、明晰な演奏ぶりが引き立っていた。
清潔で、端正で、克明で、しかも、力強さや生命力の豊かさを備えている演奏。その結果として、作品の素晴らしさや偉大さが、ありのままの姿で現れ出ていた。そんなふうに言いたい演奏でありました。

アクセルロッドは、2020年から京響の首席客演指揮者に就いています。今、京響の指揮者団のなかで、私が最も注目しているのが、このアクセルロッド。そんなアクセルロッドの実演に、約1年ぶりに接することができるということで、大いなる期待を寄せながら、会場に向かったものでした。

さて、本日の≪復活≫を聴いて感じたことであります。
期待に違わぬ、素晴らしい演奏でありました。全体的な印象は、昨年の≪英雄の生涯≫での演奏と重なります。すなわち、あまり粘らずにキビキビと音楽を進めながら、素っ気なくサラサラと流れることはなく、逞しくて感興の豊かな音楽が響き渡っていた。音楽づくりが克明で、全編を通じて、音楽がキリっとした佇まいを示していた。そして、力強さや生命力の豊かさを備えていた。その結果として、作品の素晴らしさや偉大さが、ありのままの姿で現出していた。
総じて、明朗なマーラー演奏であったと言えましょう。なるほど、当初は≪葬礼≫というタイトルのもと作曲された第1楽章は、悲痛であり、切迫感に駆られた音楽であります。それでいて、そのようなものに対抗する強い意志が込められてもいて、決して絶望的な音楽ではない。本日のアクセルロッドによる演奏では、その辺りの性格が、明快に描かれていたように思えるのであります。それはもう、あとくされない形で、とも言えるほどに。そのようなこともあって、演奏全体が、とても壮健でありました。
しかも、全編を通じて、表情が実に生き生きとしていた。エネルギッシュで、ドラマティックでもあった。と言いつつも、スリリングというようなことはなく、やや速めのテンポが貫かれている中で、ジックリと腰の据わっている音楽が掻き鳴らされていた。そのために、音楽全体が、雄大であり、かつ雄渾でもあった。最後の盛り上がりも見事。コロナ対策のため、Bravoを叫ぶことは控えるように案内されていつつも、聴衆からBravoが掛かったのも、大いに頷けます。
それにしましても、≪復活≫の昂揚感は、凄まじいものがありますよね。その、感興の昂まりを、ケレン味なく築き上げたアクセルロッド。終演後の喝采の際に、アクセルロッドは客席に向かってスコアを差し出しながら、聴衆に対して、スコアに拍手をするように促していたのが印象的でありました。