大植英次さん&大阪フィルが阪田知樹さんをソリストに迎えての宇治演奏会(オール・チャイコフスキー・プロ)を聴いて
昨日(2/21)は、大植英次さん&大阪フィルによる宇治演奏会を聴いてきました。会場は、宇治市文化センター。このホールに来たのは初めてのことになります。
演目は、下記の2曲でありました。
●チャイコフスキー ピアノ協奏曲第1番(独奏:阪田知樹さん)
●チャイコフスキー 交響曲第4番
最近の大植さんによる演奏会は、昨年の9月に「大阪クラシック」という音楽祭で、大植さんがピアノを弾きながらのピアノ3台による≪展覧会の絵≫などが披露されたものに足を運んでいますが、そこでの演奏はと言いますと、あまりに表現意欲が旺盛に過ぎていて、なおかつ、恣意的な演奏ぶりが目立って、幻滅してしまったものでした。
この日の宇治公演は、本職である指揮者としての演奏会。オール・チャイコフスキー・プログラムで、どのような演奏を繰り広げてくれるのだろうかと、楽しみでありました。と言いつつも、期待と不安の入り混じった心境だったのですが。
また、阪田知樹さんのピアノを聴くのは初めてでありました。どのような演奏を繰り広げてくれるのだろうかと、こちらも楽しみでありました。
それでは、この日の演奏をどのように聴いたのかについて、書いてゆくことに致しましょう。
まずは、前半のピアノ協奏曲から。
いやはや、なんとも素晴らしい演奏でありました。阪田さんのピアノにも、大植さんの指揮にも、大いに感心させられ、なおかつ、この作品の魅力を存分に味わうことができた。
まずもって、阪田さんのピアノが頗る魅力的でありました。この曲を、力でねじ伏せよう、といった意図が全く感じられなかった。それは、あの、あまりに有名な冒頭部分からして、そうだった。
それでいて、力感に不足していた、といったことはない。力み返るようなことは殆どなく、ゆとりを持って楽器を、そして音楽を鳴らしているのですが、十分に強靭でもあった。と言いましょうか、宏壮な音楽が奏で上げられていました。決して扇情的になるようなことはないものの、スリリングでもあった。それがまた、この作品には誠に相応しい。
何よりも、こけおどしな表現が一切みられずに、丹念にして、精妙な音楽を奏で上げてくれていたのが、なんとも尊かったと言いたい。宏壮でありながらも、ナイーブであり、清冽でもあった。この作品の至る所に散りばめられている、センチメンタルな表情も、これ見よがしな形ではなく、誠実に描き出されてゆく、といったピアノ演奏だったとも思えた。全編を通じて、無機質に音楽が響くようなことは皆無で、音楽が豊かに息づいていて、かつ、しなやかに奏で上げられていた。
そのような中で、最終楽章のコーダに入る直前の箇所、243小節目でPoco piu mossoと指示されて、3オクターヴにわたるユニゾンが16分音符で叩きつけられるかのようにして掻き鳴らされる箇所では、それまでに溜め込んでいたエネルギーを一気に放出するかのように、強靭なタッチを繰り出しながら、音楽をまくし立ててくれていた。それはもう、轟音を立てながら音楽が驀進する、といった感でありました。頗る鮮烈であり、鬼気迫るような凄みが感じられもした。目にも止まらぬ打鍵が繰り出されていて、このピアニストのテクニックの見事さが如実に現れていたとも言えそう。
似たようなことが、第1楽章の251小節目からの動きにも感じられました。ここも同様に、3オクターヴにわたるユニゾンで奏でられる、印象的な箇所。ここで阪田さんは、それまでとは一線を画した強靭な打鍵を繰り出しておられました。とは言え、壮絶さで言えば、最終楽章のコーダの直前のほうに軍配を上げるべきでしょうか。
この2ヶ所は、ともにffの表記が為されています。この曲は、豪壮な雰囲気を湛えた箇所が多いのですが、スコアを見なおしてみますと、思いのほかffの表記は少ない。それだけに、ffの持つ意味や、そこに込められたチャイコフスキーの思いや、といったものを強く受け止めるべきなのでしょう。全編を俯瞰した結果、このような演奏に至ったのだ。そんなふうに思えてなりません。
ちなみに、第1楽章の冒頭もffとなっています。しかしながら、そのffでは、強靭な力を追い求めるというよりも、拡がりを持った音楽世界を描き出そうといった方向で、阪田さんは(そして、大植さんも)受け止めていたのではないでしょうか。
そんなこんなも含めて、豊かな音楽センスを裏付けとしたピアノ演奏に触れることができた、という思いでいっぱいでありました。
大植さんの指揮もまた、堂に入ったものでした。恣意的な表現が殆ど見られなかったところも、嬉しい限り。また、音をジックリと保持するケースが多く、丁寧な音楽づくりが為されていました。
そんなこんなによって充実感の備わっている音楽が鳴り響くこととなっていました。更には、阪田さんが描き上げようとしていた宏壮な音楽世界をガッチリと支えていた演奏ぶりだったと言いたい。
なお、オーケストラが休みとなって、ピアノのみが演奏する箇所では、阪田さんをガン見するように見守っていたのが、とても印象的でもありました。
(その様は、あまりにあからさまで、そんなに見詰められたら、阪田さん、弾きにくいのでは、と思えるほどでありました。)
また、時おり、ピアノパートに対してもアインザッツを出したり、ピアノの動きに対して力こぶを作ったり、といったことをしていたように見受けられた。
大植さんもピアノをよくするようですので、この協奏曲を弾いたことがあるのかもしれません。自身もピアノを弾いている、といった心境で、一緒に舞台に立っていたのでしょうか。
アンコールは、ラフマニノフの小品を阪田さんが編曲したもの。
可憐に、かつ、端正に奏で上げてくれていて、素敵な演奏となっていました。こちらでも、音楽センスの豊かさが滲み出ていたと言いたい。
さて、ここからはメインの交響曲第4番についてであります。前半のピアノ協奏曲での大植さんの演奏ぶりからすると、大いに期待が持てるだろう、といった思いで演奏を待っていました。
ところが。
大植節が炸裂していた演奏だったと言えましょう。まぁ、よくぞ、ここまで作品を捏ねくり回すことができるものだと、聴いていて辟易してきました。
テンポの操作と言い、ダイナミクスの変化と言い、時に幽霊が出てきそうなほどにおどろおどろしい表情を付けるなどといった奇態を見せることと言い、あちこちで恣意的な表現が現れてくる。
しかも、至る所で強調が行われたりもする。次から次と「ここ、重要」「ここも、重要」と主張してゆくのですが、それがあまりに頻繁に現れるため、全く重要性が伝わってこない。
大植さんの、表現意欲の旺盛さが噴出していた演奏。大植節、ここに極まれリ、と言いたい。
しかも、そういった個性的な表情に、必然性が感じられない。わざとらしくもあった。そのために、私には、独りよがりな演奏だと思えてならなかった。
或いは、ご自身のアイディアの豊富さをひけらかすために、このような演奏を繰り広げているのではないだろうか、という思いも湧いてきた。もしくは、自身を表現するための道具として作品を引っ張り出してきたのではないだろうか、とも思えた。
チャイコフスキー不在の演奏。
ひょっとすると、「他の指揮者と違うことをやることによって、そこに個性が宿り、意義のある演奏となるのだ」といったような信念を持っておられるのかもしれません。このことは、昨年の9月に聴いた、3台のピアノによる演奏からも感じられたのですが。
このような音楽づくり、私は全く賛同できません。
幾つか、具体例を挙げてゆくことにしたいと思います。
帰宅して、スコアのページをめくりながら、この日の演奏を反芻してみました。しかしながら、どこでどのような個性的な表現が施されていたのか、よく思い出せないことが多い。それは、なんの脈絡もなく、かつ、突拍子もない形で特殊な表情が与えられてゆき、大半において、そこに必然性を見出すことが困難だったためだとも思えます。
まずは、出だしから度肝を抜かれました。楽譜にはAndante sosutenutoと記されているにも拘らず、その指示を無視して、えらい速く奏で上げられてゆく。重々しさのかけらもない。また、テンポが速いがために、タイで繋がれている音の後に鳴らされる16分音符による3連符が、音の粒が立ってこない。なぜ、このようなテンポを採る必要があったのか。聴き手を驚かせるためなのか。その意図が、計りかねました。
しかしながら、聴き進んでゆくと、ハッと気づかされました。それは、主題提示部が終わり、展開部に入ることを告げる場面で、このファンファーレが鳴らされるのですが、そこでのテンポが、この日の大植さんによる演奏の冒頭部分とほぼ一致することとなっていた。この両者を関連付けるために、冒頭部分を速くしたのだろうか。
何となく謎解きができたようにも思えたのですが、それにしても、あの冒頭のテンポは違和感があり過ぎました。また、楽譜を読む限りは、チャイコフスキーは、冒頭部分と、展開部への入りの部分とを、同じテンポで奏で上げるということを意図していた訳でもありません。何だか、「こんなアイディア、思いついちゃった」といったノリで、このような措置を採ったのではないだろうか。そんなふうに思えてならないのであります。
ちなみに、最終楽章の199小節目でも、このファンファーレが戻ってきます。コーダに入る、少し手前の箇所。ここでの速度記号はAndanteとなっています。そこでも大植さんは、出だしと同様の速いテンポを採用していました。徹底されていると言えばその通りであり、ある程度想定もできたのですが、作曲家の指示をこうもないがしろにして、我が道を行く(しかもそれは、私には邪道に思える)必要があるのだろうかと、呆気にとられた次第であります。
第1楽章での違和感について、もう2点ほど挙げたいと思います。
116小節目からのクラリネットによって吹かれる第2主題でありますが、そのアウフタクトでの付点のリズムによる上昇音型を、ためらうように間延びさせていました。先に、「時に幽霊が出てきそうなほどにおどろおどろしい表情」と書きましたが、その一つの例がここになります。
ひょっとすると、気だるさを出したかったのかもしれません。ここでの音楽は、確かに気だるさを帯びています。しかしそれは既に、十分に察知できるもの。それを強調すると、鼻につく音楽になってしまう。端正な音楽づくりの中に、気だるさを押し出してゆく、といった態度を取った方が、私にはスマートに思えます。
なお、その後、楽器を変えながら何度も繰り返される付点のリズムを伴った上昇音型は、間延びさせていませんでした。
更に言えば、再現部では、今度はファゴットによって最初に第2主題が提示されますが、そこでのアウフタクト(295小節目に入るためのアウフタクト)のみ間延びをさせていて、それ以降の楽器を変えながらの上昇音型は、提示部と同様に間延びさせていませんでした。
第1楽章からは、もう1ヶ所。確か、237小節からだったと記憶しているのですが、あからさまにテンポを落としていました。なるほど、ここは後ろ髪を引かれるようなニュアンスが必要になると思われます。しかしながら、インテンポを保ったままに(或いは、ほんの僅かにテンポを落とす程度に留めて)後ろ髪を引かれるニュアンスを出して欲しかった。
今、この段階で反芻していますと、本当にこの箇所で大きくテンポを落としたかどうか、疑わしいところではあるのですが、これに類似したような箇所で、かなり強調された表現が採られていて、それがなんともわざとらしかったのであります。
ここからは、第2楽章について。
この楽章の真ん中、126小節目からのPiu mossoでは、ちょっとやり過ぎなのではないだろうかと思えるほどにテンポを上げていました。しかしながら、ここでのオーバーとも思えた急速なテンポ設定を、作品はシッカリと受け止めてくれていたように思えました。特に、150小節目あたりからは、真実味を帯びた切迫感が漂っていて、グッと惹きつけられた。ここは、この日のチャイコフスキーの4番の演奏で、私にとってはほぼ唯一と言って良いほどに、共感できた箇所となりました。
テンポ・プリモと記された199小節目以降は、この楽章の冒頭のテンポに戻って、ヴァイオリンが主旋律を奏で、そのうえで、木管楽器群が32分音符で下降したり上昇したりという装飾が施されています。ここでの主旋律は、意図的に無表情に奏でられていました。また、木管楽器群による装飾は、陽炎(かげろう)が立ち昇るかのように儚げであり、無重力状態での音楽、といった趣きをしていました。その様は、やはり、お化けが出るかのようだった。なるほど、無表情に奏でるほど、聴き手の胸に迫りくるような表情豊かな音楽はない、というのは真理だと思えるのですが、ここでの大植さんによる演奏ぶりは、抜け殻のような音楽になっていて、なおかつ、空々しいものに聞こえてならなかった。
続きましては、一気に最終楽章に飛びたいと思います。
60小節目からオーボエとファゴットによって「白樺」の旋律が示される箇所では、テンポをガクンと落として、頗る儚げに奏で上げられていた。なるほど、ここの箇所は、もともとが愁いを帯びた音楽ではありますが、大植さんが描き上げていた音楽は、ここでも幽霊が出そうなほどに不気味なものとなっていて、不自然極まりなかった。それは、149小節目で、ヴァイオリンによって「白樺」のテーマが演奏される箇所も同じ。
その一方で、コーダの始まる223小節目は、テンポ・プリモと書かれているために、この楽章の冒頭のテンポが採られるべきなのですが、それよりもかなり速いテンポで突っ走ってゆくこととなっていた。ここは4分の4拍子でありますが、大植さんは2つで振っていて、スポーツカーのようなスピードで走り抜けてゆこうとしたのであります。
なお、これは余談と言っても良いようなことなのですが、このコーダでは、シンバルとバスドラが、とても印象的な働きをしていて、この楽章を大いに盛り上げてくれるために、いつも注目しています。特に、275小節目からはシンバルは裏拍を叩くこととなる難所であり、そこをどう対処してくれるのかが、とても気になります。
そこへゆくと、この日のシンバル奏者は、あまりのハイスピードだったために、万が一ズレたとしても周囲に迷惑が掛からないように、という意図があってのことなのでしょう、音量を抑えて叩いていました。実際にはテンポに乗り遅れることなく、音楽の流れから外れることなくシッカリと裏拍を掴んでいたのですが、もう少し音量を上げていると、腕の振り幅が大きくなってテンポに乗れなかったのかもしれません。あれだけのハイスピードだと、やむを得ない対処法だと思え、大健闘していたと思うのですが、それでも、もう少し音量が欲しかった。ちょっと寂しくもあった。まぁ、シンバルのことを考えると、大植さんのテンポ設定に無理があったのですが。
今触れましたシンバル奏者も含めて、この日の大阪フィルの団員たちは、よくぞ大植さんの音楽づくりに耐えてこられたものだと、感心させられました。はたして、彼らは、この日のチャイコフスキーの4番を、本意だと思いながら演奏していたのでしょうか。とても気になるところであります。
これもまた余談になるのですが、この日の大植さんは、音がヒラヒラと舞い上がるような効果を意図したジェスチャーを随所に見せていたのですが、実際に、そのような音が得られていたとは思えず、見かけに捉われたものだったように感じられました。このことがまた、大阪フィルの団員の大植さんへの傾倒ぶりがどうだったのだろうか、という疑念に繋がってゆくのであります。
アンコールは≪くるみ割り人形≫から「行進曲」。
こちらは、作為を施さずに、案外とまともな音楽づくりになっていたように思えます。しかしながら、丹念に仕上げていったという演奏からは遠く、野放図な演奏になっていたと思えてなりませんでした。
後半は、かなり辛口になりました。色々と不満の多い、そして、不可解なところの多いチャイコフスキーの4番でありました。
しかしながら、前半は素晴らしかった。阪田さんという、私にとって未知だったピアニストを知ることができたのは、大きな喜びでもありました。演奏会に足を運ぶ醍醐味であります。
大植さんについては、どうも相性がよくないと言いましょうか、私の感性とは相容れないところがありますが、少なくともあともう何度かは、実演に触れてみたいと思っております。