ムラヴィンスキー&レニングラード・フィルによるショスタコーヴィチの交響曲第15番を聴いて
ムラヴィンスキー&レニングラード・フィルによるショスタコーヴィチの交響曲第15番(1976年 ライヴ)を聴いてみました。
これは、ショスタコーヴィチ(1906-1975)が1971年に書き上げた、最後の交響曲となります。
冴え冴えとした演奏が繰り広げられています。そして、緊張感が高くって、背筋が凍るような恐ろしさも持った演奏だとも言えそう。それはもう、戦慄ものの演奏となっている。
この交響曲は、茶目っ気があって、随所でおどけた表情を見せていて、洒脱な性格を持っている作品だという印象が非常に強い。更には、あちこちに風刺を散りばめている作品となっています。ある種、邪気の感じられるような、愛嬌のある音楽だとも言えそう。そのような側面を強調するかのように、第1楽章では≪ウィリアム・テル≫の行進曲がパロディ風に引用され、第4楽章の冒頭には≪神々の黄昏≫の「ジークフリートの葬送行進曲」がハッキリと引用されたり、≪トリスタンとイゾルデ≫を彷彿とさせる動きが出てきたりする。
しかしながら、ムラヴィンスキーのアプローチは、あくまでも純音楽としてのもの。もちろん、この作品は元来が交響曲であって劇音楽などではないのですが、ムラヴィンスキーにかかると、「純音楽」としての要素が極めて色濃く感じられるのであります。
そのうえで、頗るシビアな音楽が奏で上げられてゆく。邪気や愛嬌など、どこを探しても見つけ出すことのできない音楽となっている。
しかも、全編にわたって切実な音楽が鳴り響いている。第2楽章などは、まさに、深い哀悼の意が籠められた音楽となっている。諧謔性の強い第3楽章は、真実味を帯びたシニカルな音楽が掻き鳴らされている。そして、最終楽章では、凄惨な音楽世界が広がることとなっている。
いやはや、なんとも凄まじい演奏であります。これはもう、神業だとも言いたくなる。
こんなにも凄絶な、そして、聴き手の胸にグサリと突き刺さってくるようなショスタコーヴィチの15番は、そうそう聴けるものではない。そう断言したくなります。