大植英次さん&大阪フィルによる演奏会(≪悲愴≫他によるオール・チャイコフスキー・プロ)を聴いて

今日は、大植英次さん&大阪フィルによる演奏会を聴いてきました。
プログラムは、下記の通り、チャイコフスキーの作品を3つ並べたものでありました。

幻想序曲≪ロメオとジュリエット≫
≪ロココ風の主題による変奏曲≫(チェロ独奏:近藤浩志さん)
交響曲第6番 ≪悲愴≫

表現意欲の旺盛な大植さん。その、手練手管の限りが尽くされた演奏ぶりに付いて行けないこともしばしばで、胡散臭さが感じられたり、思わず苦笑してしまったりするのですが、ちょうど半年前に大阪フィル指揮して演奏したR=コルサコフの≪シェエラザード≫では、第3楽章において、恍惚とした音楽が奏で上げられていった。それは、演奏が示す色合いがそうであったのみならず、大植さんの顔の表情も、鬼気迫るようにしながら恍惚としていたのでした。その顔の表情を見ていると、懸命になって自らが志向する音楽を鳴り響かせてゆこうといった姿勢が窺えて、心打たれた次第。その結果、何と言いましょうか、かなりケッタイなことを随所で繰り広げているのですが、それはイタズラ心でやっているのではなく、精魂込めてやっておられるのだな、と思えたのでした。そして、決して苦笑するべきではないな、とも思えた。
そうした体験から、大植さんの演奏を虚心坦懐に聴いてみよう。そんな思いを抱いていたところに、オール・チャイコフスキー・プロという、本日の演奏会の情報が入ってきました。チャイコフスキーの作品であれば、大植さんの音楽づくりを受け入れてくれる可能性が高いのではないだろうか。そんなことも想像された。
(と言いつつも、昨年の3月に大阪フィルと演奏したチャイコフスキーの交響曲第4番では、よくぞまぁ、ここまで作品を捏ねくり回すことができるものだと、聴いていて辟易してしまったのですが。)
本日の演奏を、どのように受け止めることになるのだろうか。期待と不安が入り混じった心境で、会場に向かったものでした。
なお、≪ロココ風≫でのチェロ独奏の近藤さんは、大阪フィルの首席奏者。どのようソロを聞かせてくれるのか、こちらも注目でありました。

それでは、本日の演奏会をどのように聴いたのかについて、書いてゆくことに致します。

まずは前半の2曲について触れますが、その前に2点、書いておきたいことがあります。
全3曲とも、対向配置が採られていたのには、驚かされました。大植さんが対向配置を採っているのを見るのは、初めてなのではないでしょうか。どういった心境の変化なのだろうか、などと思ったのですが、その理由は、メインの≪悲愴≫に隠されていたように思えたものでした。また、全3曲ともに、目の前にスコアを置かずに、暗譜で指揮をされていました。一般には、あまり演奏頻度が高くないと言えそうな≪ロココ風≫も暗譜で指揮をした大植さん。3曲とも、完全に手の内に収め切っている作品だ、ということなのでありましょう。
さて、それでは前プロの≪ロメオとジュリエット≫について。
序奏部は、テンポの変化があまりに激しく、落ち着かない。また、その理由も理解できなかった。それと同時に、「またか」と思えた。「いつもの大植さんの、悪い癖だ」とも思えた。
速めのテンポで滑らかさを引き立てながら開始されたかと思えば、数小節ですぐにテンポをガクンと落とす。その、なんと恣意的だったことでしょう。同じようなことが、序奏部の間じゅう、せわしなく繰り返される。
なるほど、序奏部において、この悲恋物語を情念的に開始させ、かつ、表情タップリな音楽に仕立てよう、或いは、焦燥感を搔き立ててゆこう、といった意図があってのことだったのでしょう。しかしながら、その頻繁なテンポの変化が煩わしく思えてなりませんでした。何よりも、必然性が感じられずに、ただただ作品を捻じ曲げてゆくだけ、といった思いを抱かずにはおれず、腹立たしくさえ思えたものでした。
しかしながら、主部に入ると、率直にしてドラマティックな音楽が奏で上げられることとなった。猛然と突き進んでゆき、推進力に富んだ音楽となってもいた。そして、オケを思いっ切り鳴らしてもいた。その、オケの鳴りっぷりたるや、痛快なものだったと言いたい。更には、オケの響きがまろやかで艶やかでもあった。例えば、ヴィオラとコール・アングレによる第2主題などは、マイルドにして芳醇な響きがしていて、うっとりとさせられた。
なおかつ、音楽の流れがスムーズでもあった。目鼻立ちがクッキリとしてもいた。そして、音楽が逞しく息づいていた。そのような音楽づくりが、演奏に充実感をもたらしてくれていたのであります。また、ホルンによる個性的な動きを強調するなどして、彫琢の深い音楽を鳴り響かせよう、といった思いがヒシヒシと伝わってきた。そのうえで、音楽が存分にうねっていた。
それはもう、胸がすくほどに見事な主部でありました。
しかしながら、終結部でテンポをModerato assaiに落とすと、再度、恣意的な演奏ぶりが目立つこととなった。
また、最後の4小節間は、音量をffに増して、ときに音を叩きつけるようにして壮絶に終わらせるのではなく、静寂の内に終わらせるという(しかも、そこに並んでいる音符は、原曲とは全く異なるもの)形に改変されていた。なぜ、このように楽譜を変更させたのだろうかと、不思議でならなかった。ひょっとすると、ここの部分のみ、異稿を採用したのかもしれません。音楽を、悲嘆にくれた形で結びたい、といった意図もあったのかもしれません。とは言うものの、締まりのない終わり方だった、というのが率直なところでありました。
かくのごとく、共感できる箇所と、できない箇所とが交錯する、なんとも奇妙な演奏でありました。
続きましては、中プロの≪ロココ風≫について。
近藤さんによるソロは、繊細にして、情感豊かなものでありました。弱音によって、切々と歌い上げてゆく(場合によっては、歌うというよりも、語りかけてゆく、と言ったほうが適切だと思えるような、内向的にしてデリケート演奏ぶりとなっていた)様は、ジッと心に沁み入ってくるような音楽となっていた。多感な演奏ぶりだったとも言いたい。
しかも、冒頭の主題を提示する場面などは、艶やかで、滑らかで、朗々とした音楽を紡ぎ上げてもいた。
そのような美質がシッカリと窺える演奏ではあったのですが、速くて細かなパッセージを前にすると、技巧面での自信の無さが垣間見えるようになり、場合によっては、恐る恐ると目の前のパッセージに対処してゆく、といったような演奏ぶりとなっていたのが、誠に残念でありました。そのために、音楽がしっかと屹立する、いったものに至ることはなかった。
近藤さん、音楽性の豊かな演奏家であることは、よく理解できました。しかしながら、ソリストとしての資質を持っているかと言えば、そうとは言い切れないだろう。そんなふうに思わざるを得ないような独奏でありました。
なお、大植さんは、ほぼ全曲を通じて、近藤さんをガン見しながらのサポートぶりでありました。それとは対照的に、近藤さんは、大植さんを見ることは殆どなかった。全く、大植さんの方に目を遣ることが無かった訳ではなかったのですが、必要最小限と称するよりも更に少ない頻度でしか、大植さんの方へ目を遣ることはなかった。
思うに、あそこまでガン見されると、ソリストとしては演奏しづらかったのではないでしょうか。何から何までを監視されている、といった心境にもなったかもしれません。更に言えば、オケへの表情付けの素振りが、ややもすると、ソリストにも向けられたものとなっていたようにも思われた。或いは、テンポの変化や、次のフレーズへの入りのタイミングやも、近藤さんがイニシアティブを握っているというよりも、大植さんによる決断に依って演奏が進められている、といった場面が散見されもした(それは、常にそうだった、という訳ではなかったのですが)。
そのような対応を採るほどに、大植さんは、この作品を愛しておられるのでありましょう。そのことが理解できるほどに、細やかにして、濃やかな演奏ぶりになっていたとも言いたい。
とは言うものの、やはり、あのような形でのソリストへの対応は、考えものでありました。それは、ソリストの近藤さんが、普段は、自身の手兵のような存在である大阪フィルの首席奏者だったから、ということでもあったのでしょうが。それはまるで、近藤さんによるソロを、自らが紡ぎ上げてゆく音楽を形成するパーツの1つとして看做していたかのようでもありました。
さて、ソリストアンコールは、サン=サーンスの≪動物の謝肉祭≫から「白鳥」でありました。あのナンバーを、無伴奏で、チェロ1本で弾いていた。
その演奏はと言えば、≪ロココ風≫でも聞かせていた、弱音を主体にしながらの、内向的にしてデリケートなものとなっていました。無伴奏だということもあって、音楽の歩みを周囲に束縛されることはなく、テンポ感は極めて自由なものとなってもいた。
≪ロココ風≫での演奏の延長線上にある演奏ぶりだったということもあり、プログラム本編との一体感のようなものも醸成されることとなったアンコールとなりました。

ここからは、後半のプログラムについて触れることにしましょう。
メインの≪悲愴≫は、おしなべて共感できる演奏が展開されました。と言いましても、ところどころで、やらずもがなと言いたくなる恣意的な表情付けがなされていたのですが。
どうして大植さんは、あんなふうに、要らないことをするのでしょう。アイディアが次から次と湧いてくるのでしょうが、それがワザとらしくて閉口してしまいます。≪ロメオ≫のところでも書きましたように、腹立たしく思えてくることも、しばしば。それはもう、悪癖だと言いたい。そんな癖が抜けたら、もっと素晴らしい指揮者になる(それは、私の物差しでの話ですが)のでしょうに。と言いつつ、それが大植さんの個性であり、本人も、そのことについて自負を抱いておられるのかもしれません。また、大植さんのファンにとっては、その個性的な演奏ぶりが堪らないのかもしれません。
なお、≪ロメオ≫の主部においても感じられたと同様に、オケが存分に鳴り切っていました。≪ロメオ≫と≪悲愴≫では、弦楽器のプルトの数は7-6-5-4-3となっていて(≪ロココ風≫は、6-5-4-3-1.5と、若干プルトを刈り込んでいた)、小さいとは言わなくとも、巨大とは言い切れない編成ではありましたが、その規模以上に豊麗な音がしていたように感じられたものでした。
また、大植さんの音楽づくり、音楽の「揺らぎ」を大事にされているように思われます。そして、そのことが、音楽に生き生きとした表情を与えるのに繋がることが多かった。このことは、前半の2曲においても感じられたものでした。≪ロココ風≫の第5変奏辺りだったでしょうか、木管楽器の動きを思いっ切り揺らめかせ、その演奏ぶりに納得した大植さんが、木管楽器群に「OKサイン」を送っていたのが、印象的でもあった。そう、大植さんは、音楽に「揺らぎ」を求める際に手をヒラヒラさせながら指揮をするのであります。しかも、その素振りは、かなり頻繁に現れる。
と、かなりの各論から入りましたが、もう少し各論を。
既に触れましたように、本日の演奏会では対向配置が採られていました。その効果が最大限に発揮されていたのは、最終楽章の冒頭だったのではないでしょうか。と言うよりも、ここの箇所のために、本日は対向配置を採用したのではないだろうか、とも思えたほど。そう、第1・第2ヴァイオリンが1音ずつ交互に旋律を担当し合いながら、ハーモニーを奏でていく、といった特殊な作曲法による効果が、鮮やかに浮かび上がっていたのであります。「なるほどな」と思えた次第。
各論はこのくらいにしまして、ここからは、もう少し大局的に書いてゆくことにしましょう。
第1楽章の主部は、もともとがテンポの変化の激しいものとなっています。随所でテンポを速めたり、遅くしたりと、アゴーギクの変化が夥しい。そのような作られ方をしている主部を、大植さんは、そのテンポの変化による「切迫感」や、「たゆたい」や、といった息遣いを、巧みに表現していった。そう、大植さんによる音楽的な嗜好と作品とが、見事なまで一致した演奏が展開されていたのであります。それ故に、作品が持っている妙味が、余すところなく描き上げられていった。
また、展開部は、怒涛の勢いで押し切っていく。展開部に入ってすぐで、バス・トロンボーンを強調するなど、腰の強さが備わっている音楽づくりでもあった。そのバス・トロンボーンの強調のみならず、ほんの些細なコントラバスのピチカートを重要だと判断すれば、そのピチカートを思いっ切り強調する。そんな、この作品に隠されている「仕掛け」を、随所で明らかにしようと息巻いていたかのような大植さん。その多くは、とても効果的だったと言いたい。あまり、恣意的だと思えるようなこともなかった。
また、第1楽章のエンディングで、テンポを緩めることなく、インテンポを貫いていたことにも感心させられました。後ろ髪を引かれるようにして終わるのではなく、毅然として楽章を閉じていた。そのような対処、私は大好きであります。
と、第1楽章は、かなり納得のいく演奏ぶりでした。作品と一体化した演奏だったとも言いたい。但し、第2楽章以降は、時折、珍妙な個性が顔を覗かせる。
第2楽章は、速めのテンポで開始され、滑らかさが前面に出ていた。それに対して、中間部では、テンポをやや落としたうえで、ソット・ヴォーチェ(そっと呟くように、音楽を奏ででゆく様子)で語りかけてゆくといった素振りを見せていて、音楽に翳を与えていた。ここまでは、理解できる音楽づくりでありました。問題は、この楽章の最後の最後。いきなりテンポをガクンと落とす。かと思えば、それに応えるようにして、第1ヴァイオリンがこの楽章のテーマを断片的に回想させる箇所では、テンポを速めてスルスルと軽快に弾かせる。そのような措置を採った意図が、全く解らない。聴いていて、腹立たしくなってもきた。本日の≪悲愴≫で、最も納得がいかなかったのが、ここでありました。
第3楽章は、やや遅めのテンポで、重戦車が行くかのような重量感のある演奏が展開されていった。指揮棒を真っすぐと前に突き出しながらの指揮ぶりを見せることもしばしばで、その姿は進軍の合図を出している指揮官そのもの、といった風でもありました。
しかも、ここでもオケの鳴らし方が半端でない。シンバルなどは、手加減なく打ち鳴らされる、といった感じ。
もっとも、本気でシンバルを打ち鳴らせば、本日の演奏で聞かせたものの比ではないほどの大音量になりましょう。ということは、文字通り、手加減なく打ち鳴らされていた訳ではありません。とは言いながら、誠に衝撃的かつ効果的なシンバルとなっていて、その様は、「手加減なく」と書きたくなるほどでありました。
そんなこんなによって、ある種、壮絶な音楽が掻き鳴らされていった。この楽章を結ぶための最後の小節などは、途轍もないほどに圧力のかかった音によって、苛烈に鳴らされていた。一昔前は、第3楽章が終わると客席から拍手が沸き起こっていたものですが、本日の演奏などは、この現代であっても、ひょっとすると拍手が起きるのではないだろうか、と思わせるほどに強烈なインパクトを持った、熱狂的な音楽となっていた。
ところで、シンバルが打ち鳴らされる2つ目の箇所で、不自然な間を作っていました。いったい何が起きたのだ、というほどに、それは、唐突にしてケッタイなものだった。大植さん、また要らぬアイディアを思いついたものだ、という印象を持ったものでありました。
第3楽章から最終楽章へはアタッカで入るのかな、とも想像したのですが、シッカリと間合いを空けた上で移っていきました。
その、最終楽章は、遅めのテンポによって、情念たっぷりに開始されました。但し、若干、まどろっこしいな、とも思えた。何と言いましょうか、空々しい音楽になっていた、といった印象を受けたのであります。
しかしながら、ホルンが3連符によるシンコペーションのリズムを刻んでゆく上で、切々たる旋律が奏でられ始めると、音楽は律動的になり、前に進み始めた。このような足取りによる音楽が、私には好ましい。ムラヴィンスキーによる演奏が、まさにそうであるように。
ここからは、テンポの変化が自在になり、ディナーミクの起伏も大きく付けられながらの演奏が展開されていった。73小節目からの、Piu mossoからstringendoを経て、vivaceに至る高揚も、見事でありました。また、その直後の、82小節目からのAndanteでの弦楽器を中心とした切迫感を伴った押し出しの強い音楽も、大阪フィルの弦楽器群の優秀さも含めて、聞きものでありました。特に、2つ目の塊り(85小節目のアウフタクトから)でのアウフタクトを、コンマスが突っ込み気味に、音の頭に強烈なアタックを付けて奏でていた気魄は、鳥肌ものでありました。
かように、出だしこそ、私の趣味とは異なる最終楽章ではありましたが、なかなかに聴き応えのある演奏ぶりだったと言いたい。それだけに、最後の音が鳴り止んだ後の長い長い静寂の時間がまた、胸に沁み入るものとなったのであります。

本日の演奏会を聴きに行くにあたって、大植さんを虚心坦懐に聴いてみよう、といったことを念頭に置いていたのですが、やはり、虚心坦懐に、というよりは、先入観を持ちながら聴いてしまった、というのが正直なところであります。とは言うものの、私にはケッタイなアイディアだとしか思えないことも、イタズラ心でやっているのではなく、精魂込めてやっておられるのだ、ということは再認識させられました。ところどころで、腹立たしさを覚えながらも。そして、≪悲愴≫が、大植さんの肌に合う作品なのだ、ということにも気付かされたものでした。
そんなこんなの思いが一緒くたになった奇妙な心境で、会場を後にしたものでした。