沖澤のどかさん&京都市交響楽団によるプロコフィエフの交響曲全曲演奏ツィクルスの第2回目(第4番と第5番)を聴いて

今日は、沖澤のどかさん&京都市交響楽団によるプロコフィエフの交響曲全曲演奏ツィクルスの第2回目を聴いてきました。演目は、交響曲第4番と第5番の2曲。

5月にスタートした、3回に亘って催されるプロコフィエフのツィクルス。創立70年を迎えた京響は、今季、数々の記念演奏会を企画していますが、このツィクルスは、私個人としましては、その中でも最も注目しているシリーズであります。
なお、第4番は、後に大きく改編され、作品番号も新たに112が振られることとなりましたが、今回採り上げられたのは初版のほう。

2ヶ月半ほど前の第1回目においては、第1番の≪古典≫では、テキパキとした音楽運びが鳴りを潜めていて、なんだか沖澤さんが猫をかぶったような演奏ぶりを示していたな、といった印象を受けたのですが、第2番と第3番では打って変わって、強靭にして、鮮烈な演奏を展開してくれたものでした。とりわけ、第2番のエンディングでは、身の毛がよだつような「恐ろしさ」を滲ませた、壮絶な音楽が奏でられることとなっていた。
本日の2曲でも、第2,3番での演奏ぶりが踏襲されるのではないだろうか。そんなふうに期待しながら、会場に向かったものでした。

それでは、本日の演奏会をどのように聴いたのかについて、書いてゆくことに致します。

まずは、前半の第4番から。
急速な部分と、ゆったりとした部分での出来栄えの差のようなものの著しい演奏だった、という思いを強く持ちました。
急速な箇所では、キビキビとしながら、生気に溢れた音楽を奏で上げてゆく。足腰の強靭な音楽だったとも言えそう。とりわけ、最終楽章のエンディングなどは、畳み掛けるようにして音楽を追い込んでいき、頗るスリリングな演奏となっていた。
しかも、そのような演奏ぶりが、うわべだけを整えたようなものになっていない。内実の籠もった音楽になっていたのであります。硬い意志に基づいて歩みを進めている、といった様相を呈していたとも言えそう。
その一方で、ゆったりとした箇所では、総じて手綱の緩んだ演奏になっていたと思えてなりませんでした。ゆったりと演奏することと、手綱を緩めることは、大違い。すなわち、沖澤さんによるゆったりとした箇所での演奏では、音楽に緊迫感を与え切れずに、弛緩してしまっていたように感じられてならなかったのであります。或いは、無為に音楽が進んでゆく、といった感が強かった。それ故に、めくるめくような抒情性、といったものが立ち昇るようなことは、ほぼ皆無でありました。なるほど、ほんの時折、音楽に膨らみを持たせたり、深い呼吸をもたらしたり、といったことを施してくれるのですが、それが単発に終わってしまい、連綿たる歌、といったものに繋がっていかない。その点が、もどかしくあった。
3ヶ月前の京響での定演で演奏された≪家庭交響曲≫においても、似たようなことが感じられました。この辺りは、沖澤さんの課題と言えるのではないだろうか、と思えてきます。
ちなみに、第3楽章での、エキゾチックにして、ちょっとおどけた感じの旋律の扱いは、この楽章が開始された直後の箇所では、とても艶めかしいものになっていて、ハッとさせられたものでした。この個性的な旋律が、実にチャーミングに、そして、味わい深く奏でられていた。しかしながら、そう感じられたのは楽章の冒頭においてのみ。それ以降は、平板な演奏になっていたと思えたものでした。
感心させられる箇所も少なからずあったものの、不満を抱く場面も多かった第4番だっただけに、第5番では、その分を取り返して欲しい。そんな思いを抱きながら、休憩時間を過ごしたものでした。

それでは、後半の第5番について。その演奏はと言いますと、第1楽章が群を抜いて素晴らしかった。
アンダンテと指示された、緩徐楽章である第1楽章を、遅めのテンポを採りながら、音楽をジックリと、かつ、深く掘り下げながら奏で上げていった沖澤さん。しかも、第4番での演奏で感じられたように、音楽が弛緩するようなことはない。ピンと張り詰めた、そして、豊かに息づいている音楽が奏で上げられていったのであります。
そのうえで、テンポの伸縮が激しい。実際に、プロコフィエフが楽譜に指示したものなのかどうなのかを帰宅してスコアで確認したところ、Poco piu mosso(ちょっぴり流動性をもたせるべくテンポを速めて)や、Tempo Ⅰ(最初のテンポに戻して)や、Animato(活気を持たせるべくテンポを速めて)といった指示が施されている。そういった指示に基づき、頻繁にギアチェンジが為されていたのであります。しかもそれらが、それぞれの箇所の楽想に相応しいものとなっていた。すなわち、その場に相応しい緊迫感が生まれたり、その場に相応しい平安が訪れたり、と。その一方で、練習番号9でのAnimatoでは、テンポを上げずに決然とした歩みを見せていて、音楽が軽佻になるようなことを防いでいたように思われた。この辺りは、慧眼だと言いたい。
そんな第1楽章での演奏の中でも、終わり間近の箇所となる練習番号23、ドラが打ち鳴らされ、途中からスネアが長いロールを鳴らし続ける箇所では、Tempo Ⅰと指示されているものの、この楽章が開始された時点でのテンポ以上に速度をガクンと落とし、打楽器群を筆頭にオケを思いっきり鳴らしながら凄絶な音楽を鳴り響かせていった。この場面は、本日の第5番の演奏の白眉だったと言えましょう。前回演奏された第2番と同様、身の毛のよだつような音楽が鳴り響くこととなっていたのであります。
これは、途轍もなく素晴らしい第5番の演奏だ。そんな思いを胸に、アレグロ・マルカートと指示された第2楽章へと流れ込んでいきました。そこでは、律動感に溢れた、キビキビとした演奏が進められていった。それは、この楽章に相応しいものでありました。
ところが、アダージョと指示された第3楽章に入ると、音楽が沈滞してきた。やはり、ゆったりとした箇所での沖澤さんの「弱点」のようなものが露呈してしまった、と感じられたものでした。音楽がうねるようなことや、官能性を帯びるようなことがない。音楽が一気に萎んでしまった、といった感じでもあった。緩徐楽章であっても、第1楽章では、あれほどまでに雄弁な演奏が展開されたというのに。実に不思議でありました。その理由は、ひょっとするとリハーサルの密度に依っているのではないだろうか。そんなふうにも想像させられたものでした。
最終楽章での演奏は、第3楽章で一旦萎んでしまった感興を、完全に取り戻せなかった、といった印象でした。なるほど、エンディングに向けての畳み掛けは凄まじく、終演後、聴衆の多くは大熱狂していましたが、私には、コケ威しに過ぎない、といった印象を拭い切れるものではなかった、というのが正直なところでありました。と言いますのも、最終楽章の出だしから、テンポが速められた直後辺りにかけて、音楽が十分なる推進力を蓄え切れていたとは思えなかったために。一旦萎んでしまった感興を取り戻せなかった、と書きましたのも、この辺りに依るのであります。
第1楽章での演奏が破格と言えるほどに素晴らしかっただけに、尻すぼみになってしまった、という思いを抱かずにはおれませんでした。そんな、寂しい思いで、或いは、悔しい思いも込み上げながら、会場を後にしたのでした。