第6回芦屋国際音楽祭(2026年度)の最終演奏会(メインにシューマンのピアノ四重奏曲を据えて)を聴いてきました


今日は、日下紗矢子さんが主宰する芦屋国際音楽祭の最終演奏会を聴いてきました。
演目と、それぞれの作品での演奏者については、お手数ですが、添付写真をご覧くださいますよう、よろしくお願い致します。

日下紗矢子さんは、芦屋市に生まれたヴァイオリニスト。2008年にベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団(以前は、ベルリン交響楽団の名称にて旧東ベルリンで活動。クルト・ザンデルリングが長く携わっていたオケになります)の第1コンサートマスターに就任し、2013年からは読売日本交響楽団のコンサートマスター(2017年度より特別客演)も兼務されています。
そんな日下さんが、地元で2021年に開始した芦屋国際音楽祭。今年で第6回を迎えたことになります。演奏会の開催のみならず、若手育成のためのマスタークラスを開いたり、子供を対象とした音楽鑑賞会を催したりと、多彩な内容となっている。スローガンとして、「クラシック音楽の輪を芦屋から世界へ」が掲げられています。
4/10(金)から、異なるプログラムによる3つの演奏会が組まれていまして、私が聴いたのは、その最後のものでありました。

演奏される作品は、室内楽曲を中心とした、少人数によるアンサンブル音楽。そこには歌曲が含まれたりもする。日下さんが寄せたメッセージには、自宅の居間で親しい人達と気軽に音楽を共有する「サロンコンサート」のような雰囲気を味わって頂きたい、といった思いが綴られてもいます。
本日のプログラムには、ピアノの連弾あり、ピアノ四重奏曲あり、歌曲ありと、多彩な作品が並んでいます。そのような音楽を、日下さん、河村尚子さん(ピアノ)、嘉目真木子さん(ソプラノ)などの名手たちが奏で上げてゆく。また、河村さんと共にピアニスとして参加している日下知奈さんは、日下紗矢子さんのお姉さん。
しかも、カトリックの教会で開催されるという、ちょっと特別な雰囲気が充満している音楽会。
普段の演奏会とは趣を異にする音楽会を、大いに楽しみたい。そんな思いを抱きながら、会場に向かったものでした。

なお、阪急の芦屋川駅から会場へと、芦屋川沿いを歩いて向かったのですが、川の両岸の桜並木には、まだまだ花が残っていました。更には、藤の花が咲いていたりもした。会場に向かうだけでも、華やいだ気分にさせられたものでした。
教会の敷地内にも、桜の木が。そんな光景も、とても素敵でした。

(芦屋川沿いの桜)


(藤の花も咲いていました。その向こうには、川岸の桜も見える。)


(カトリック芦屋教会の正面)


(教会の敷地内の桜)


(教会の内部の様子)

それでは、本日の演奏会をどのように聴いたのかについて、書いてゆくことに致しましょう。

よく響く音響や、演奏者との距離の近さや、といったこともあり、やはり、独特な雰囲気の演奏会(音楽会と呼んだほうが似つかわしいのでしょうが)となっていました。それは、想像していた(或いは、期待していた)通りのものだったと言えそう。
とは言うものの、サロンでの音楽会といった打ち解けた雰囲気とも少し違う。それは、教会で催されているが故の「敬虔な空気感」といったものがあるからなのでしょうか。更には、これは私の偏見も含まれているでしょうが、サロンで催される演奏と言うには、演奏内容があまりに立派だったからでもありましょう。取り澄ました、と言えば誤解が生じてしまいましょうが、よそよそしい演奏ぶりになっていたということは決してなかったものの、俗っぽさから懸け離れていた演奏が繰り広げられていた、といった印象を持ったものでした。

冒頭のピアノの連弾による≪ペール・ギュント≫は、河村さんが高音域を、日下さんが低音域を担当。分離の良い音による、克明な演奏でありました。強弱の対比といった、ダイナミクスへの配慮もシッカリと為されていた。そのような中でも、弱音での美しさに惹かれたものでした。また、「アニトラの踊り」での妖艶な雰囲気の表出が、とても印象的でもあった。
続くメンデルスゾーンでは、弦楽器群の充実した演奏ぶりが素晴らしかった。特に、チェロのヴィッテラーはケルン放送響の首席だとのことで、アンサンブル全体をシッカリと支えながらも、まろやかな音楽を奏で上げてくれていて、耳を奪われたものでした。また、ヴァイオリンの日下さんも、艷やかにして、熱気に満ちた音楽を奏で上げていた。
そのような弦楽器群に伍して奏でていったピアノの日下さんが、この演奏をリードしていたと言えそう。かなりのテンペラメントの持ち主のようで、メンデルスゾーンが12歳の時に作曲した若書きの作品を情熱的に描き上げてくれていて、その演奏ぶりが、この演奏の性格を決定づけていたのでありました。
前半最後の≪ヴェーゼンドンク歌曲集≫では、嘉目さんの拡がり感のありつつも、しっとりとしている歌いぶりが、ジッと心に沁み入るものとなっていました。

かように、前半から充実した演奏が繰り広げられていったのですが、休憩を挟んだ後の後半の演目もまた、内容の濃いものとなっていました。
とりわけ、シューマンでの演奏が秀逸だった。演奏者全員が、まさに「音楽していた(ドイツ語で言うところのムジツィーレンしていた)」と言いたい。
まずに後半最初の≪リュッケルト≫から。
こちらでも前半と同様に、嘉目さんは、拡がり感のある歌を披露してくれていました。しかも、≪ヴェーゼンドンク歌曲集≫での時よりも、表現の幅が広かった。すなわち、清澄な歌いぶりからドラマティックな歌いぶりまで、幅広い表現を見せてくれていたのであります。コンサートホール(の大ホール)ほど広くなく、かつ、よく響く会場だったということもあって、変に力むことなく、ドラマティックな歌唱を繰り広げることができた、ということも大きかったのではないでしょうか。
そのようなことも含めて、教会での歌曲の演奏は、とても適していると感じられたものでした。もともとが、教会は、祈りを捧げると共に歌を捧げる場所でもあることが、このことに関係しているようにも思えます。
さて、ここからは、大トリの演目となったシューマンについて書いてゆくことに致します。
河村さんによるピアノも、弦楽三部も、充実感タップリな演奏でした。しかも、充分に熱くて、力感に溢れていたにもかからず、音楽が暑苦しくなったり、押し付けがましくなったり、といったことは皆無だった。このことに最も大きく貢献していたのは、ピアノの河村さんだったのではないでしょうか。
そう、河村さんによるピアノは、とても凛としていたのであります。しかも、粒がクッキリとしていて、音が淀むようなことがない。音がコロコロと転がってゆくように、音楽が奏で上げられてゆく。音の連なりが、丸みを帯びていたのであります。また、曲想に応じて強靭なタッチを繰り広げてゆくこともしばしばなのですが、乱暴になったり、美観を損ねたり、といったようなことは皆無。
そのうえで、音楽が嬉々として飛び跳ねてゆく。そう、このピアノ四重奏曲は、情熱を帯びつつも愉悦感に満ちた曲想が頻出するのですが、そのようなニュアンスを十全に提示してゆく。その様は、溜息が出るほどに見事なものでした。
そのような河村さんによるピアノに与する弦楽器の3人も、河村さんに引けを取るようなことは全くなかった。そう、ここでの4人は、まさに、全員のベクトルを合わせながら、シューマンが描き上げようとした音楽世界を真摯な形で再現しよう、といった意志がハッキリと汲み取れるような演奏を展開してくれていたのであります。それは、アンサンブルの要諦をなすところだとも言えるのでしょうが。
弦楽器の3人の演奏ぶりについて、もう少し細かく書いてゆくことに致しましょう。
日下さんは、しなやかにして、エネルギッシュな演奏ぶりを示してくれていました。シューマン特有の「熱狂」を描き上げるのに最も貢献していたのが日下さんだったように思えます。
(河村さんも、端正でありつつ、充分に熱狂を生む演奏ぶりとなっていたのですが。)
それでいて、河村さんと同様に日下さんもまた、乱暴になるようなことはなかった。激しいながらも、デリカシーを欠くようなことのない音楽づくりとなっていたのであります。そして、ヴァイオリンという楽器に特有の艷やかさにも、全く不足がなかった。
そんなこんなを含めて、技術の確かさと、音楽性の高さとを痛感することのできるヴァイオリン演奏となっていた。
ヴィオラの鈴木さんは、現在、都響の首席を務めている奏者。そんな鈴木さんが奏でるヴィオラは、内声からアンサンブルをシッカリと支えていた。そう、楽器がタップリと鳴り響いていたのであります。音も、奏で上げられる音楽も、実に伸びやかでもあった。そして、旋律が回ってくると、朗々と歌い上げていった。
なんとも見事なヴィオラでありました。
更には、チェロのヴィッテラーがまた、それに輪をかけて、と言いたいほどに見事でした。艷やかにして、まろやかで、ノーブルな音楽を奏で上げてくれていたのであります。更には、旋律では、ソリスティックな美しさを湛えたものとなっていて、聴いていてウットリとなることがしばしば。
そんな3人による弦楽器の、音のブレンド具合の、なんと見事だったことでしょう。輝くような光沢があり、かつ、まろやかでもあった。それは、異なる3つの楽器によって奏で上げられているというよりも、完全に溶け合っているような響きとなってもいた。その点も含めて、アンサンブルの極意を見るような演奏だったと言いたい。
4人による、その演奏ぶりによって、端正にして、生気に溢れていて、息遣いが豊かで、充分に熱狂的なシューマン演奏が繰り広げられていった。しかも、構えたところが全く見受けられない、とても率直な演奏でもあった。
いやはや、なんとも素晴らしい演奏でありました。