京都市内の桜巡りをした後に、沖澤のどかさん&京都市交響楽団による演奏会(≪家庭交響曲≫ 他)の第2日目を聴いて

今日は、沖澤のどかさん&京都市交響楽団による演奏会を聴いてきました。演目は、下記の3曲。
●R・シュトラウス ≪ドン・ファン≫
●矢代秋雄 チェロ協奏曲(独奏:堤剛さん)
●R・シュトラウス ≪家庭交響曲≫
なお、会場の京都コンサートホールへ向かい途中、何ヶ所、京都市内の桜巡りをしてきました。
京都の桜の開花発表があったのが3/23(月)。それから20日近くが経ち、市内の桜は散りかけているところが多いようです。六角堂は、完全に葉桜になっていました。
そのような中、鴨川沿いは、まだまだ花を付けている木が多くあり、土曜日で、とても良い天気だったということもあり、花見をしている人を大勢見かけました。
また、神泉苑では、池には桜の花びらがギッシリと浮かんでいて、これはこれで風情がありました。
ということで、鴨川沿いの桜の様子と、神泉苑の池の様子を撮影した写真の2枚を、添付することに致します。


さて、本日の演奏会について。
矢代秋雄のチェロ協奏曲を真ん中に置いて、両脇をR・シュトラウスの作品で固めるという、意欲的なプログラムとなっています。
そのチェロ協奏曲のソリストは、66年前の初演でも独奏を務めた堤剛さん。堤さんは1942年生まれでありますので、今年には84歳を迎え、初演時は18歳だったということになります。
堤さんによる実演に触れるのは、これが2回目。最初に聴く機会を得たのは、ちょうど半年前、西宮で開かれた4人のチェリストによる合同のリサイタルでのことでした。その際、まさか堤剛さんの実演に触れることができるとは、と、信じられない思いを抱きながら、大いに喜んだものでしたが、その半年後に、また、こうやって改めて聴くことができようとは思ってもいませんでした。
半年前の合同リサイタルで堤さんは、他のチェリストとのアンサンブルを披露してくれたとともに、バッハの無伴奏チェロ組曲第1番も弾いてくれました。そこでの演奏は、実に滋味深いものとなっていました。なるほど、高齢からくる衰えは隠せずに、音楽に強靭さはなかった。それよりももっと、柔和なものになっていました。そして、滑らかさに欠ける演奏になりがちだった。しかしながら、バッハの無伴奏の第1番という、間違いなくチェリストの根幹を為すレパートリーだと言えそうな、そして、チェリストとしての全てのスタートがここにあると言えそうなこの作品を、真摯に奏で上げていったものでした。また、アンサンブル作品では、随分と伸びやかな演奏を披露してくれていた。
そのような堤さんが、本日はどのような演奏を繰り広げてくれるのだろう。矢代のチェロ協奏曲は、完全に堤さんの手の内に収められている作品だと言えましょう。この作品のチェロ奏者としては、第一人者だとも看做せましょう。きっと、滋味深くて、聴き応え十分な演奏になるであろうと、楽しみでなりませんでした。
そのチェロ協奏曲を挟み込む形で配置されているR・シュトラウス。
沖澤さんによる≪ドン・ファン≫と言えば、2024年のセイジ・オザワ松本フェスティバルでサイトウキネン・オーケストラを指揮したものがCD化されています。そこで、事前にそのCDを聴いてみました。
あまり、うねりの感じられない演奏でありました。豪華絢爛たる眩さや、めくるめくような陶酔感、といったものも薄かった。全体的に、生真面目に過ぎていたとも言えそう。
その一方で、中間部でのゆったりとしたテンポの箇所では、小節線を跨ぐ度に思い入れたっぷり感を滲ませながら、切々と歌い上げているが、音楽の流れが滑らかさを欠くこととなり、かつ、まどろっこしくて、不自然な表情をした音楽となっていた。
松本フェスティバルでの≪ドン・ファン≫は、私としては、あまり共感できるものとなっていませんでした。本日の≪ドン・ファン≫と≪家庭交響曲≫では、そのような思いを払拭してくれる演奏を繰り広げて欲しい。そう願わずにはおれませんでした。
もっとも、昨年の3月の京響の定期演奏会で披露された≪英雄の生涯≫での沖澤さんは、沖澤さんらしいケレン味のない演奏ぶりで、小細工を弄さずに率直に音楽を奏で上げていく好演を展開してくれていました。この作品での演奏に備わっていて欲しい「恍惚感」が今一つ希薄だったのが心残りではあったものの、清新で、屈託のない、端正な音楽づくりに感心させられたものでした。本日のR・シュトラウスも、その延長線上にある演奏であって欲しい。そんなふうにも願ったものでした。
ところで、沖澤さんによるプレトーク、聞き応え十分でした。多くの演奏会でプレトークが実施されていますが、沖澤さんのプレトークは、いつも感心させられます。
採り上げる3曲について語り、しかも、≪家庭交響曲≫においては、モチーフについてかなり詳細に(しばしば、沖澤さんがフレーズを歌いながら)解説されたのですが、話が饒舌にならない。しかも、話が実に分かりやすい。頭の中が、キチンと整理されているが故なのでしょう。更に言えば、とにかく喋ることが目的、といったトークではなく、いかにして聞き手に分かりやすく話してゆくか、といったところに留意しながら語りかけているからでもあるのでしょう。
2026-27年シーズンの最初の定期演奏会だということもあって、最後には様々な宣伝も加えていて、実に盛り沢山なプレトークであったにも拘らず、トータルで15分かかったかどうか、といったところ。間延びの全くない、かつ、聞きづらさの全くない話しぶりだった。
最近接した中でも出色のプレトークでありました。
前置きが随分と長くなりました。それでは、本日の演奏会をどのように聴いたのかについて、書いてゆくに致します。

まずは前半の2曲から。
まずもって、≪ドン・ファン≫が実に素晴らしかった。サイトウキネンとのCDで感じられた不満を、殆ど覚えることはありませんでした。むしろ、随所で音楽が存分にうねっていた。音楽が渦を巻きながら突き進んでゆく、といった趣きがあった。更には、とても輝かしくもあった。そう、光沢のある音楽が鳴り響いていたのであります。
しかも、息遣いが頗る自然で、かつ、豊かでありました。ほぼ常に、微妙なアゴーギクが施されながら音楽は進んでいったのですが、そのことによって、実にしなやかな、かつ、生き生きとした音楽が奏で上げられてゆくこととなってもいた。
また、オーボエのソロで始まる、ゆったりとしたテンポによる中間部は、CDと同様に小節線を跨ぐ際にためらいがちな表情が与えられることが多かったのですが、CDでの演奏のように、ほぼ全ての小節線でためらってゆく、という形は採られていなくて、要所要所で僅かなリタルダンドが掛けられる、といったものになっていた。それ故に、まどろっこしさを覚えるようなことはなかった。
更に言えば、京響のまろやかな響きが、ここでも最大限に生かされていました。光沢のある音楽になっていたのは、沖澤さんによる音楽づくりと共に、京響の響きに依るところも大きかったと言えそう。なおかつ、アンサンブルは巧緻なものになっていた。京響の好調ぶりや、実力の高さと言ったものが、遺憾無く発揮されている演奏でありました。
続くチェロ協奏曲での演奏は、期待が大きかっただけに、それを十分に満足させてくれるものとはなっていませんでした。と言いますのも、堤さんが、あまりに年を取りすぎていると言わざるを得ない演奏ぶりだったが故でありました。
なるほど、時折、まろやかにして艷やかな響きを届けてくれていました。とは言うものの、ほぼ全体を通じて、作品を支えるに十分な強靭さを持ち得ていないチェロ独奏だった。更に言えば、オケとシッカリと対峙するに十分なチェロ独奏となり得ていなかった。そんなふうに思わざるを得なかったのであります。
なるほど、フルートとのデュオの箇所は、尺八と琵琶を思わせるものになっていて、玄妙な音楽が鳴り響いていました。或いは、全編を通じて、真摯にして、謹厳な音楽が奏で上げられていました。緊密度の高い演奏ぶりだったとも言いたい。そのような点においては、聴き応えの十分な演奏となっていました。
とは言うものの、私個人としましては、トータルで見れば、先に述べたマイナスの部分を充分にカバーしきれるまでの演奏になっていなかった、というのが正直なところでありました。
なお、堤さん、楽譜を見ながらの演奏でありました。
沖澤さんによるバックアップぶりは、とても的確なもので見事でありました。機敏な反応を随所で見せてくれていて、クリアな音楽を鳴り響かせてくれていた。また、堤さんへのリスペクトも、十分に感じられた。
沖澤さんの、演奏者としての誠実さや、真っ直ぐな人間性や、といったものが滲み出ていたサポートぶりだったと言いたい。
ソリストアンコールは、バッハの無伴奏からでありました。
こちらでは、オケに対抗する必要がないため、自身に率直な演奏が繰り広げていたようでした。そして、滋味深さが感じられた。「堤さんによるバッハの実演に触れているのだ」といった、言い方は変になりますが、そんな有難みを抱きながら聴いてもいたのでした。
とは言いつつも、高齢であるが故の制約にも依るのでしょう、全体に滑らかさを欠いていた。技術面において、痛々しさを覚えてしまう演奏でもあった。
但し、そのようなことを飛び越えたところでの高貴な音楽が鳴り響いていた。そんなふうにも思えたものでした。

ここからはメインの≪家庭交響曲≫についてであります。
こちらも好演だったと言えましょう。と言いつつも、本日の白眉は≪ドン・ファン≫だったように思えます。あの演奏は、全編を通じて、沖澤さんの全身から生命力豊かな音楽が奔流のように迸り出る、といったものになっていた。そこへゆくと、≪家庭交響曲≫では、似たような感慨を覚える箇所が数多くあったものの、ところによっては、音楽を持て余していて、無為に流れてゆく、といったこともあった。すなわち、この作品をトータルで掌中に収めている、といった域には達していなかったように思えたのであります。
それは、20分弱とコンパクトに纏められている≪ドン・ファン≫と、40分を超える大作である≪家庭交響曲≫との、作品自体の構造に依るのではないだろうか、などと考えもしたものでした。すなわち、作品の側に責任があったのではないだろうか、と。とは言うものの、フルトヴェングラーによるものや、セルやライナーによるものや、といった、私が愛する≪家庭交響曲≫の演奏では、場所によって持て余して気味になっていたり、弛緩してしまったり、といった印象を抱くようなことはない。やはり、作品の責任にしてしまうことは、あまりに安易なことのように思えます。
ところで、沖澤さんはプレトークで、この作品で一番好きな箇所は、練習番号の62だと仰っていました。帰宅してスコアを確認しますと、練習番号の62とは、緩徐楽章に相当する第3部の真ん中辺り、仕事をする主人公の姿が描かれた後に、妻もやってきて愛の情景となる辺りでありました。但し、僅か11小節間という短い場面で、私には、とりたてて特徴的な箇所だとも思えなかった。それ故に、この箇所で、沖澤さんが如何に特徴的な演奏を繰り広げたのか、といったことを思い出すことはできませんでした。
その練習番号62の箇所は別として、箇所によっては存分にうねっていて、扇情的な音楽が鳴り響いていました。アゴーギクの変化が、頗る巧妙でもあった。特に、アッチェレランドを掛けながら切迫感を持たせてゆく、といった箇所では、R・シュトラウスの作品に相応しい光彩陸離たる音楽が鳴り響いていた。そういった箇所では、沖澤さんの並々ならぬ意欲、といったものが感じられたものでした。「こういったところでの演奏、私、得意なのです!!」といった声が、指揮台の上から聞こえてきそうでもあった。但し、残念ながら、この作品での演奏においては、それが断片的だったのであります。
かくの如く書いてきたものの、この難曲を、見通し良く、かつ、要所ではドラマ性を持たせながら掻き鳴らしていた手腕は、大したものだと言いたい。冒頭で、「好演だった」と書きましたのも、それ故なのであります。
また、ここでも、京響は、献身的な演奏を繰り広げてくれていました。と、一旦、その点を認めつつも、フィナーレとなる第4部でのフーガの箇所などは、例えばライナー&シカゴ響での演奏のような、水も漏らさぬアンサンブルで怒涛の演奏を繰り広げてゆく、といった域には達していなかった。もっとも、ライナー&シカゴ響によるフーガでの演奏の強靭さ(それは、指揮者の音楽づくりの強靭さと、オケの威力による強靭さの双方が、重層的に織り成されたものだった)には異次元なまでの凄みがあり、それと比較するのは酷なものだと言うべきなのでしょうが。
かように、私個人としましては、幾つかの問題を感じる(個々の問題には、重きの大小がある)演奏会ではありましたが、なんとも見事な≪ドン・ファン≫に触れることができただけでも、足を運んだ甲斐が大いにあった演奏会だった。そんなふうに言いたい。





