京都市内を桜巡りした後に、松本宗利音さん&京都市交響楽団によるスプリング・コンサート(≪展覧会の絵≫ 他)を聴いて

今日は、松本宗利音(しゅうりひと)さん&京都市交響楽団によるスプリング・コンサートを聴いてきました。演目は、下記の3曲。
●レスピーギ ≪ボッティチェッリの3枚の絵≫
●モーツァルト ヴァイオリン協奏曲第3番(独奏:佐々木つくしさん)
●ムソルグスキー ≪展覧会の絵≫(ラヴェル編曲)
松本さんの実演に接するのは、これが4回目になりますが、これまで聴いてきたのは全て大阪フィルを指揮したもの。京響との共演を聴くのは初めてでありました。
松本さんによる演奏の特徴、それは、ケレン味のない誠実な音楽づくりにあると言えましょう。しかも、曲想に応じて抑揚を付けていき、音楽が生き生きと流れてゆく。そして、その音楽運びには、誇張が全くない。そのうえで、逞しい生命力を秘めながら進められてゆく。その結果として、生気に富んだ演奏が繰り広げられることとなる。音楽の息遣いが豊かで、かつ、充実した音楽が鳴り響くことにもなる。
まさに、的確な音楽づくりであり、「あぁ、なんと素晴らしい曲なのだろう」という思いを抱きながら、目の前の作品に触れることのできる、そんな演奏を繰り広げてくれたのであります。
オケが京響に変わっても、きっと、そのような松本さんの音楽づくりに変わりはないことだろう。そして、充実感たっぷりな演奏によって、レスピーギ、モーツァルト、ムソルグスキーの作品が鳴り響くことになるのだろうと、期待に胸を膨らませながら会場に向かったものでした。
なお、ヴァイオリン独奏の佐々木さんは、生まれは東京のようですが、2021,2022年度のローム・ミュージック・ファンデーションの奨学生だったという、京都に所縁のある奏者であります。2024年にはプラハの春国際音楽コンクールで第1位を受賞したのこと。
名前を聞くのも初めてのヴァイオリニストになりますが、未知の演奏家を聴くことは、大きな歓びでもあります。はたして、どのような演奏を繰り広げてくれるのだろうかと、こちらも楽しみでありました。
ところで、ホールへ向かう途中、京都市内の桜巡りをしてきました。
平野神社を皮切りに、首途(かどで)八幡宮、雨宝院、建勲神社、水火天満宮、本法寺、妙顕寺と、7ヶ所を巡ってきた。首途八幡宮は、源平枝垂れ桃という、1本の木に白と赤の2色の花が咲く桃を観るのが目的でしたが、他の6ヶ所は、いずれも桜の名所。大半の箇所は、既に散り始めていたものの、まだまだ見応えタップリでした。気持ちが自然と華やいでくる。
添付写真の1枚目は平野神社。そして、2枚目は織田信長を祀る建勲神社。建勲神社の高台から望む桜、ずっと向こうには比叡山も見え、見事でありました。


さて、それでは、本日の演奏会をどのように聴いたのかについて、書いてゆくことに致します。
まずは前半の2曲から。両曲ともに、それぞれの作品の魅力を存分に味わうことのできる、素晴らしい演奏でありました。
プログラムの冒頭を飾ったレスピーギでありますが、この3曲から成る組曲、まずは「春」から始まります。スプリング・コンサートと銘打たれた本日の演奏会を開始するに、うってつけの選曲だと言えましょう。
しかも、ここでの演奏の、なんと華やかで晴れやかで、爽やかだったことでしょう。管楽器は各々が1本ずつという編成だということもあって、元々がカラフルではありつつも、ケバケバしい音楽ではありません。軽やかな色彩感を備えた音楽になっているのです。そのような「春」を、伸びやかに奏で上げてくれていた。
続く「東方の三賢者の礼拝」では、エキゾチックでありつつも瞑想的な音楽を、堅実に、かつ、的確に奏で上げてくれていた。
そして、最終曲の「ヴィーナスの誕生」では、弦楽器によって表現されるさざ波を土台にしながら、ヴィーナスを乗せた貝殻が次第に近づいてきて、また遠ざかってゆく、という様を、力むことなく、それでいてクッキリとした形で描き上げていった。
かように、松本さんによる音楽づくりは、それぞれ曲想を丹念に描き分けたものとなっていたのであります。しかも、とても明朗でもあった。そのことによって、この作品の魅力を誇張なく示してくれる演奏となっていた。
しかも、音楽が豊かに息づいていた。シッカリと歌わせてもいたのですが、それは歌うというよりも、音楽を自然に呼吸させていた、といった方が相応しいようなものでありました。
そのような松本さんの音楽づくりに対して、京響が献身的に、かつ、柔軟に応えてくれていて、この演奏を一層魅力的なものにしてくれていました。響きがまろやかであり、ふくよかでもあった。とりわけ、管楽器群のアンサンブルの巧さや、音色の美しさには、惚れ惚れするものがありました。
そんなこんなによって、うっとりしながら聴き入ったものでありました。
続くモーツァルトは、なにはともあれ、佐々木さんのソロが素敵だった。とても率直な演奏ぶりでありました。無理に自己主張するようなことや、押しつけがましさや、といったようなものは皆無。それよりも、作品自身に魅力を語らせよう、といった演奏ぶりだったとも言いたい。
なるほど、ちょっと華奢な演奏ぶりだったとも言えましょう。その分だけ、可憐な音楽が鳴り響くこととなっていました。とは言うものの、決して音楽がひ弱なものとなるようなことはありませんでした。それよりも、何と言いましょうか、音楽の骨格がシッカリとしていた。地に足の付いた演奏ぶりでもあった。そのようなこともあってのことでしょう、可憐な音楽が確実にホールに充満してゆく、といった演奏だったと言いたい。
しかも、それらのことは、基礎がシッカリしていることと、豊かな音楽性ゆえだったのではないだろうか、と思えてなりませんでした。そう、音程にブレはなく、かつ、フレージングの自然さや、左手の確実さやボウイングの柔軟さや、といったことが、なんとも見事だったのであります。
その結果として、端正にして、伸びやかな音楽が奏で上げられていった。清潔感に満ちてもいた。
そのような佐々木さんを、松本さんは的確にサポートしてくれていました。この作品に相応しい、溌溂としていて、かつ、弾力性を帯びている音楽づくりが為されていて、生気に富んでいた。そして、誠にケレン味のない音楽となっていた。
そう、佐々木さんも松本さんも共に、ケレン味がなくて、かつ、屈託のない音楽を、誠実に奏で上げてゆく演奏家だと看做せましょう。その音楽性には、近しいものがあるように思えた。それだけに、お互いが奏でる音楽の間に、齟齬は全く見当たりませんでした。とても相性の良いコンビなのではないでしょうか。
なお、ソリストアンコールは、イザーイの無伴奏ヴァイオリンソナタ第5番から。
こちらでは、モーツァルトでの演奏以上に、佐々木さんの基礎がシッカリとしている、といった点が、如実に現れたものとなっていました。そう、安定度の高い演奏となっていたのであります。なおかつ、多彩な表現力が散りばめられた演奏となっていた。そのうえで、ピンと張り詰めた緊張感を伴った音楽となってもいた。
モーツァルトを聴いている間、はたして佐々木さんは、濃厚なテンペラメントを必要とする作品では、どのような演奏を繰り広げるのだろうか、といった疑問が頭をよぎったのですが、このイザーイを聴いていると、その辺りへの柔軟性や適性も持ち合わせているようだ、と思われたものでした。

ここからはメインの≪展覧会の絵≫について。
こちらも素晴らしかった。と言いましょうか、本日の演奏会の白眉でありました。松本さんの音楽性の豊かさと、京響の実力の高さが、遺憾無く発揮された演奏だった。
それにしましても、京響は、なんと柔軟性が高くて、響きがまろやかで、かつ、ソロイスティックな魅力に富んでいるオケなのでありましょうか。自発性が高く、しかも、協調性が高いとも言えそう。そのようなオケが奏でることによって、ラヴェル編曲による≪展覧会の絵≫という作品は、輝きが一段と増す。
松本さんによる音楽づくりは、ここでも、誠にケレン味のないもの。芝居じみたところが微塵もなく、真摯に音楽を奏で上げてくれていました。変に力み返るようなところも、一切ない。それでいて、「ババヤーガ」から「キエフの大門」などは、実に壮麗な音楽が鳴り響いていた。オケも、タップリと鳴り切っていた。
更に言えば、フレージングが自然で、かつ、音楽の輪郭を克明に描き上げることに奉仕する、といったものになっていました。それは、冒頭の「プロムナード」からして、顕著に現れていました。例えば、14小節目。この小節は4分の6拍子となっているのですが、4拍目までの音の連なりと5,6拍目の連なりとの間に、意図的に、かつ、明白に、区切りを入れていた。そのことによって、音楽の句読点が明確なものとなっていた。折り目正しさが生まれてもいた。
上で触れたのは、ほんの些細な例なのですが、このような気配りが、演奏の随所で見て取れた。松本さんの演奏の根幹を為す美質の一つは、この辺りに発端があるように思えます。
更には、例えば「チュイルリーの庭」がそうであったように、急速なナンバーで過剰に速いテンポで急き立ててゆく、といった措置が採られるようなことはなかった。音楽を克明に鳴らしていたのであります。それでいて、音楽が沈滞するようなことはなく、シッカリとしたスピード感は保持されていて、オケを的確にドライヴしていた。この辺りは、まさに音楽性の豊かさや、手腕の確かさや、といったものに依るのだと言いたい。
また、「ブィドロ」では、バステューバにソロを吹かせていました。テナーテューバではなく、バステューバで。そのために、奏者(ピーター・リンクさん)は、高音を当てるのに、かなり苦労していました。音がかすれることもあった。しかしながら、それ故にと言いましょうか、牛が息も絶え絶えに車を引いている、といった構図がハッキリと見えてくることとなっていた。しかも、バステューバが高音を出すことによって、音のまろやかさが、ずっと増すこととなっていた。なおかつ、裾野の広い壮大な音楽世界が広がることとなっていた。中間部を経て、再度後半でバステューバがソロを吹く場面でも、非常に高い音域(Gisの音が出てくる)が要求されていますが、そこでは、無理して力づくで音を当てにいくようなことはせずに、音量をグッと絞って吹いていて、そのことによって、なんとも言えない美しさを獲得することになっていた。
テューバ奏者としては、「こんな、殺生な」と言いたくなるところではあったでしょうが、苦しいなりに、大健闘していたと思いました。何よりも、この奏者の音楽への誠実さや、音作りへの真摯な態度や、といったものが滲み出ていた。終演後に松本さんに立たせてもらっていまして、頭を掻きながら恥ずかしそうに立っていたのですが、その気持ちがよく判ると共に、立たせてもらうに相応しい立派なソロだったと言いたい。
かなり各論に振れてしまいましたが、このテューバのソロは、とても印象的だったのであります。そして、バステューバで吹くということを、松本さんが発案して指示されたのであれば(私は、きっと、そうだろうと見ています)、その判断の確かさに松本さんの音楽センスの良さが見て取れた、という印象を抱いたのでありました。
その後のナンバーでも、奇を衒うことは全くなく、真摯に、そして、充実した演奏を繰り広げていった松本さん。例えば、「サミュエル・ゴールテンベルクとシュミュイレ」では、凄惨な表情を鮮やかに描き切っていた。例えば、「カタコンブ」では、清澄にして敬虔で、抒情味に満ちた音楽を奏で上げてくれていた。それらの描き上げ方の、なんと率直だったことでしょう。更に言えば、全編を通じて、豊かな息遣いをした音楽が鳴り響くこととなっていたことも、この演奏を魅力的なものにしてくれていた。
そして、先にも書きましたように、「ババヤーガ」から「キエフの大門」にかけて、大仰な表情付けは一切ないものの、昂揚感の高くて、意気軒昂としていて、しかも、充実感の高い音楽が奏で上げられていった。それは、この演奏会を締めくくるに相応しい演奏ぶりだったと言いたい。
いやはや、なんとも見事な≪展覧会の絵≫でありました。それは、指揮者とオケの双方の美質が、この作品の魅力を引き立ててくれていたのだとも言いたい。
松本宗利音さん、この指揮者の今後が、いよいよ楽しみで仕方がない。そんな思いを強くした、本日の演奏会でありました。それと共に、松本さんと京響のコンビを聴く機会を、もっと頻繁なものにしてもらいたいものだ、と願わずにはおれませんでした。





