フルニエ&セル&ベルリン・フィルによるドヴォルザークのチェロ協奏曲を聴いて
フルニエ&セル&ベルリン・フィルによるドヴォルザークのチェロ協奏曲(1962年録音)を聴いてみました。
実に雄渾で、かつ、壮絶な演奏であります。なるほど、フルニエらしい気品も充分に感じられますが、それとともに、凄まじいまでの気魄が伝わってくる。それはもう、チェロのプリンスと称されていたフルニエが、まるで鬼の形相で弾いているかのような音楽になっている。
音も、奏で上げられている音楽も、実に骨太で壮大であります。そして、火を噴いているかのように熱い。綺麗ごとや、外観を整えるだけといった消極的な姿勢が一切無い、そんな演奏が、終始展開されている。
それでいて、奏で上げられている音楽には、ふくよかさや、まろやかさが感じられます。そう、決して、音楽が悲鳴を上げるようなことはない。そして、音楽のフォルムが崩れるようなこともない。音楽に雑味が含まれるようなこともない。壮絶でいて、端正で格調の高い音楽が鳴り響いている。この辺りはまさに、フルニエの真骨頂であると言えましょう。
同じようなことが、セルによる指揮にも当てはまります。
激流を思わせるような、奔放な指揮ぶり。輪郭はクッキリとしていて、精妙であり、しかも、起伏が誠に大きくて、ドラマティックであります。感情のほとばしりが、そこここから感じ取れる。そのうえで、音楽が潤いを帯びている。その度合いは、手兵のクリーヴランド管を指揮するとき以上だと思える。
このことは、クリーヴランド管以外のオーケストラを指揮した際のセルの演奏に、しばしば窺えること。ニューヨーク・フィルや、コンセルトヘボウ管や、ウィーン・フィルなどへ客演しての録音では、赤裸々な情熱が迸っていて、ロマンティックな感興が強く刻まれてゆく。クリーヴランド管との録音では情熱が内側に凝縮されてゆくような演奏を繰り広げることが多いのに対して、客演したオケとの演奏では情熱が外に発散されてゆくような演奏が展開されることが多い。この、ベルリン・フィルとの演奏でも、まさにこのことが当てはまっているように思えます。
そのようなセルに対して、ベルリン・フィルがまた、渾身の力で答えてゆく。強靭で、厚みがあって、しかも、まろやかな音で敷き詰められているのであります。
独奏者と指揮者ががっぷりと組みながら、壮絶な演奏を繰り広げてゆく。これぞ、協奏曲の醍醐味。
しかも、齟齬が全くなく、独奏者と指揮者とオーケストラとが互いを高めあってゆくような演奏ぶりが示されている。
惚れ惚れするほどに素晴らしい演奏であります。