準・メルクル&京響による演奏会を聴いて

昨日(8/26)は、京都市交響楽団の演奏会を聴いてきました。指揮者は、準・メルクル。演目は下記の3曲。オール・フランス・プログラムでありました。 ●サン=サーンス ≪死の舞踏≫
●フォーレ ≪ペレアスとメリザンド≫
●ベルリオーズ ≪幻想≫

準・メルクルの実演は、2001年にスタートした新国立劇場での『ニーベルングの指環』(トーキョー・リング)と、2001年9月にN響とのオール・ブラームスの演奏会に接していますが、随分と久しぶりになります。
2003年秋に転勤で東京を離れましたので、リングは≪ジークフリート≫までの3作を鑑賞。ということで、おそらくこれが、私にとっては5回目の準・メルクルの実演でありました。
準・メルクルは、ドイツ人の父と日本人の母の間に、ミュンヘンで生まれた指揮者。1959年の生まれですので、63歳になっています。最近、彼の名前を、あまり聞かなくなっていたように思えます。少なくとも、音盤においては。
トーキョー・リングでの演奏ぶりが象徴的だったと思うのですが、準・メルクルは、リリシストであると捉えています。音楽がベトついたりダブついたりするようなことはなく、清涼感を持ったものとして描き出されてゆく。それは、とても繊細で、精妙な音楽。その一方で、やや、ひ弱さのようなものも感じられたものでした。
そのような準・メルクルが、あれから20年ほどが経った今、どのような演奏を聞かせてくれるのか。楽しみでありました。しかも、リヨン国立管のシェフを務めるなどの功績によって、フランス芸術文化勲章・シュヴァリエを受章していることが示すように、フランス音楽を得意としているはず。オール・フランス物であるだけに、より一層、大きな期待を抱きながら会場へと向かったものでした。

さて、聴き終えての感慨、それは、昨年から今年にかけて接した実演のなかで、最も深い感銘を受けた演奏会になった、ということ。そして、準・メルクルという指揮者の能力の高さを、まざまざと見せつけられたという思いを持ったものでありました。
まずもって、棒の振り方が、極めて明快。その場の音楽の鼓動や、運動の性質や、音楽の重量感や圧力やスピード感や、といったものが、棒の動きで的確に把握ができる。棒に秘められている情報量が、途轍もなく多い。今、準・メルクルの体の中で、音楽がどのように渦巻いていて、音楽がどのように呼吸しているのか、それを、どのように団員に伝えようとしているのかが、手に取るように解る指揮ぶりだったのです。その指揮の動きは、まさに、団員と演奏を生み出すためだけに資する動きとなっていた(ときおり、何となく「儀礼的」に棒を振っているかと思える指揮者を見かけますが、そのような指揮ぶりとは雲泥の差を感じた)。その場の音楽を実際の音に変えるために必要な霊感を、具体的に団員に与えてゆく指揮ぶり。
そのような準・メルクルの棒に有機的に反応しながら、指揮者の意図する音楽を的確に音に変えてゆく京響のメンバーたち。そこには、指揮者の音楽性に対する敬意と共感とが、強く感じられた。指揮者とオーケストラとは、このような関係のもとで演奏せねばならないのだという、当たり前のような、根源的とも言えるような共同作業が、終始行われていた演奏。「演奏の現場に立ち会えている」ことの妙味を、痛烈なまでに感じながら、舞台に目を遣り、聴いていたものでした。
とても尊いことが目の前で行われている(演奏とは、斯くあるなかから生まれるべきものなのだ)といった感慨がフツフツと湧いてくる演奏ぶり。このような思いに浸れること、そうは多くないように思えます。
しかも、その結果として鳴り響いていた音楽の、なんと素晴らしかったことか。以前の準・メルクルによる演奏そのままにリリシズムに溢れていつつも、決してひ弱な音楽とはなっておらずに、逞しい鼓動の感じられる演奏であった。そう、決して力でグイグイと押す演奏ぶりではなく、全体的にキリっとしていつつも、充分に力感に富んだ演奏が繰り広げられていたのであります。清潔感に満ち、端正で、音楽に対する誠意が滲み出ていつつ、決して独りよがりとは感じられない様々なアイディアが込められていた演奏でもあった。そんなこんなによって、実に生き生きとしていて、細部にまで血が通っていて、ニュアンス豊かで、能弁な演奏となっていた。起伏に富んでいて、彫琢が深くもあった。スリリングさを追求したものではなく、余裕を持って音楽を奏で上げてゆく中で、「知的な興奮」のようなものを呼び起こしてくれる演奏だったとも言えそう。何度となく胸の内で「へぇ~」とか「ほぉ~」とか呟くほどに変化に富んでいつつも、造形美に溢れてもいた。それはもう、心ときめく瞬間の連続でありました。
これが、指揮者の円熟というものなのでありましょうか。決して、大上段に構えたような演奏ぶりではなく、自然体に徹しており、充分に若々しくて瑞々しくありながら、音楽から、更には指揮をする姿から、風格が滲み出ていた準・メルクル。そのことが、団員から敬意と共感とが寄せられる源泉となっていた。そんなふうにも思えたものでした。

これまでに綴ってきましたことを、少し具体例を引いて書いてゆくことにしたいと思います。その例は、メインの≪幻想≫から。
第1楽章で、最も感心した箇所、それは、この日の≪幻想≫を象徴していたとも思える箇所が、410小節目のff。ここからが第1楽章のクライマックスと看做せます。多くの演奏では、オーケストラを高らかと掻き鳴らし、賑々しく奏で上げてゆくものですが、準・メルクルは、力7分目といったところでオーケストラを鳴らしていた。そのために、音楽が余裕を持って鳴り響いていたのでした。と言いつつも、力不足な感じが全くしない。音に拡がり感があったのです。前進力を宿している演奏ぶりでもあった。であるが故に、クライマックスを迎えている空気感は、充分に備わっていた。そして、ティンパニが加わることによって、いよいよその最高潮を迎えることとなる427小節目で、エネルギーを全開で放出してゆく。その設計のなんと巧みであったこと。しかも、410小節目からの10数小節間の響きの、なんと美しかったこと。このような美観の備わっている≪幻想≫は、そうそう無いと言えましょう。
似たようなことが、第5楽章にも見受けられました。それは、C管のクラリネットによるソロが終わり、一下りして、Es管のクラリネットがソロを吹く箇所(40小節目)。ここでは、Esクラの後ろで、オーボエ2本とCクラ1本が「タータ、タータ」と4分音符+8分音符のリズムを刻んでいく。多くの演奏では、魔女の饗宴よろしく、その音をグロテスクに響き渡らせるものです。しかしながら、準・メルクルは、グロテスクな音を要求しなかった。3本の楽器によってリズムが刻まれてゆくそのハーモニーの、なんと美しかったこと。実にユニークであり、この箇所としては度肝を抜かされる音楽づくりでありましたが、私には奇異には思えなかった。むしろ、このような表現を採ることによって、その周辺の音楽が、より一層、この楽章ならではのグロテスクで奇怪なものとして際立つこととなっていたように思えたものでした。と言いますのも、第5楽章を開始させるにあたっては、弦楽器によるスル・ポンティチェロ奏法をかなり強調しながら、魔女の饗宴を鮮烈にアピールしていたのだから。その奥行き感のようなものの付け方の鮮やかさには、脱帽でありました。
第3楽章の68小節目での、フルートとクラリネットによる16分音符2音による短いソロもまた、実にユニークでありました。LPレコードで、第3楽章の途中で盤面をひっくり返すようにカッティングされている場合、ここが、その区切りでありました(クリュイタンス&フィルハーモニア管による音盤が、そうでした)。すなわち、ここは、この楽章の折り返し点と看做すことができる。その箇所で、フルート、次いでクラリネットによって吹かれるソロに、思いっきりリタルダンドを掛けていたのであります。そのことによって、この楽章の区切りが、ハッキリとしたように感じられたものでした。このようなユニークなアイディアは、頻発させると煩わしく思えてくるものですが、正攻法で端正に奏でていく中で見せてくれると、ハッと息を飲む音楽となる。準・メルクルの設計の見事さを見せつけられた思いでありました。

縷々書いてきました。
全体的に、清潔感に溢れていて、音楽が凛としていて、それでいて、充分に逞しくもあった演奏。抒情性の豊かさをベースにしながら、ニュアンスに富んでいて、息遣いが自然で、しかも、個性も光っていた演奏。それらはひとえに、準・メルクルのドライブの巧みさと、音楽性の豊かさによるもの。そのうえで、京響の響きは、いつにも増して純度が高かったように思えました。
京響は沖澤のどかさんを常任指揮者に迎えることになっていますが、準・メルクルも、定期的に呼んで欲しいものです。是非とも、アクセルロッドとともに、最上級の客演指揮者に迎えて欲しいもの。そのように望まずにはおれません。