スピノジ&京都市交響楽団による演奏会(ハイドンの≪くま≫、ベートーヴェンの≪田園≫ 他)の第2日目を聴いて

今日は、スピノジ&京都市交響楽団による演奏会を聴いてきました。演目は、下記の3曲。
●ロッシーニ ≪アルジェのイタリア女≫序曲
●ハイドン ≪くま≫
●ベートーヴェン ≪田園≫
※プログラム冊子や、チラシでは、ハイドンの交響曲第82番の副題を≪熊≫と表記していますが、「熊」と書けば、獰猛な熊が連想されます。この交響曲に「くま」というニックネームが付いた由来は、最終楽章の音楽が「くまがユーモラスに踊るのを連想させられる」と評したことに依ります。そんな愛嬌を感じさせてくれるような柔らかさが欲しいために、平仮名で≪くま≫と書くことにします。私がこの作品について書くときには、常にそのようにしていますので。
ところで、今日の指揮者は、てっきりデスピノーサだと思っていました。昨年の年末に京響を指揮したベートーヴェンの第九が、実に見事だったデスピノーサ。その演奏はと言えば、音楽センスの豊かさを感じ取ることのできるものだった。それ故に、今日も私を魅了してくることだろうと、ワクワクしながら会場に向かったのでした。
しかしながら、会場に到着してプログラム冊子を見てみると、スピノジという指揮者が記されている。名前がちょっと似ていますので、勘違いしていたのでした。ちなみに、私にとってスピノジは、初めて名前を聞く指揮者。1964年生まれで、今年61歳を迎えた、中堅というよりもベテランの年齢に達していると言えそうな指揮者だということになります。
プログラム冊子を見ると、フランスの生まれだそうです。オペラ畑で積極的に活動してきたようでして、ウィーン国立歌劇場にも定期的に出演しているとのこと。また、コンサート指揮者としても、2021年にはベルリン・フィルにデビューしており、パリ管やベルリン・ドイツ響、フランクフルト放送響といった、名だたるオーケストラの指揮台にも登っていると書かれている。確かなキャリアの持ち主のようです。日本では、新日本フィルを指揮したことがあるそう。
そんなスピノジが、はたして、どのような演奏を聞かせてくれるのだろうか。昨年の第九以来にデスピノーサを聴くことができるのだ、という気持ちを切り替えて、開演を待つことに致しました。
それでは、本日の演奏会をどのように聴いたのかについて書いてゆくことにします。

前プロのロッシーニは、溌剌とした演奏になっていました。
とは言うものの、3拍子で書かれている序奏部では、2小節ごとに3拍目に現れる休符を長く採り、大きな隙間を作っていた。また、最後の最後で音楽を随分と溜めて、大袈裟な終わり方をしていた。その辺りの音楽づくりが私の趣味から離れたものになっていて、少々いらだちを感じたものでした。
それでも主部では、軽妙な音楽が奏で上げられていました。音楽が存分に弾んでもいた。その様にはロッシーニらしさが溢れていました。オペラ畑での演奏活動に軸足を置いている指揮者ならではの演奏ぶりだな、と思わせてくれたものでした。
前プロにロッシーニの序曲を持ってくる。良い入り方の演奏会だなとも思えたものでした。
しかしながら、ハイドンで大きく躓いてしまいました。聴いていて腹立たしくなること、この上なかった。
これが、本当に≪くま≫だったのだろうか。≪くま≫には似ても似つかぬ演奏だった。そんなふうに言いたい。ロッシーニの序奏部と終わりの部分で感じた違和感と言いますか、趣味の違いと言いますかが、≪くま≫の演奏全体を覆っていたのであります。
テンポの収縮が著しい。ダイナミクスの変化も極端。時にはレガートを存分に効かせて必要以上に滑らかな音楽に(それは、軟体動物のような音楽だったとも言いたい)仕立てていく。そんなこんなによって、音楽が随所で分断されることとなっていた。それも、頗るけったいな形で。
その大半は、ハイドンが指示していない表情づけ。私には、不要だと思えてならないアイデアが、随所に散りばめられていたのです。しかも、ただ不要だと言うのみならず、音楽のフォルムを著しく歪めるものとなっていた。越権行為も甚だしい処置だったと言いたい。コントラストをクッキリと付けていきながら、表情の豊かさを強調していきたかったのでしょうが、その意図が許容できる限界点を遥かに超えていた。そんなふうにも思えてなりませんでした。
中でも、第2楽章での緩急の付け方は、常軌を逸していたと言えましょう。それはもう、原型を留めていない音楽になっていました。更には、第3楽章では、随所で思い切ったラレンタンドを掛けながら音量を絞っていき、ハイドンの音楽には場違いと思える神妙な音楽世界を築き上げたりしていた。
一体なぜ、この曲を演奏しなければならなかったのか。その意図が全く理解できませんでした。ここまで、元来の作品の姿をグチャグチャに壊すのであれば、演奏する作品は何でも良かったのではないだろうか。そんなふうにも思えたものでした。
そのような中で、最終楽章の終わり近くでは、一度あたかも終わったように思わせながら、実はまだ続きがある、といった構造が採られていたり(235小節目)します。その構造は、交響曲第90番ほど顕著なものではありませんし、他の多くの演奏では、そのことを強調することはないのですが。その箇所で、スピノジはあたかも曲が終わったかのように振舞った。そのために、一部の聴衆から拍手が起こった。その反応に、スピノジはほくそ笑んでいたようでした。この反応が欲しくて≪くま≫を採り上げたのでしょうか。もしそうだったのだとしたなら、私には、悪趣味だと思えてなりません。
なお、最終楽章の演奏は、比較的まともでした。また、第2楽章の真ん中辺りで、2回目に短調で奏で上げられる変奏(101小節目から)も、あまり小細工を弄さずに切迫感の強い音楽を鳴り響かせていて、引き込まれたものでした。但し、リピートした際に、フルートに楽譜には記されていない装飾音を吹かせるといった、これまた私には不要だと思えるアイデアが施されていたのが玉に瑕だったのですが。
また、フルートによる装飾と言えば、最終楽章の主題提示部をリピートした際に、32小節目のフェルマータの箇所に、楽譜にはないカデンツァのような装飾音型を吹かせていました。その処置は、ハイドンの時代(更には、モーツァルトの時代などにおいても)には、演奏者の判断で随所に装飾を施すことが多かった、という時代考証によるものだったのかもしれません。しかしながら、私には不要の産物だと思えてなりませんでした。とりわけ、本日のスピノジによる≪くま≫は、不要の産物があまりにも多かったため、くどさが感じられたのでもあった。これが、大半を楽譜通りに演奏してくれていたならば、このようなアイデアもスパイスとして効いてくるのかもしれませんが。
ちなみに、ご丁寧にと言いましょうか、全てのリピートが敢行されていました。両端楽章においては、主題提示部のみならず、展開部と再現部に記されているリピートも実行していた。それために、拷問のような時間が、更に長引くこととなってしまった。それはもう、悪夢のようなリピート敢行でありました。リピートすることを、こんなにも呪ったことは、初めてでありましょう。
さて、ここからはメインの≪田園≫についてであります。その演奏はと言いますと、≪くま≫ほどには頻繁に越権行為が行われた訳ではありませんでした。比較的まともな演奏だったとも言えそう。
とは言うものの、所々で楽譜にない休符を入れたり、レガート奏法を施したりと、「スピノジ節」が散見されました。特に滑稽だったのが、第1楽章の53小節目から73小節目にかけて、頻繁に休符を挟んでいた点。田舎に到着したベートーヴェンが、立ち止まりながら周囲をキョロキョロと眺めていた、といった光景を表したかったのかもしれません。とは言え、ベートーヴェンは、そのような音楽に仕立ててはいません。その度に、音楽がぶち切れてしまうことになっていて、流れを損なっていた。陳腐なアイデアだと言いたい。
また、楽譜にないダイナミクスのコントラストをあちらこちらで施していながら、ベートーヴェンが記したfとffの対比を無視することがあった。第1楽章の提示部と再現部の終わり近くのこの対比(提示部で言えば、93小節目のfと100小節目のff)は、間違いなく無視されていました。それでも、第1楽章のコーダでfからffに音量を増すように指示している箇所(458小節目からはff)は、実行していました。また、最終楽章の再現部の終わりの方(162小節目)でも、心持ちffの指示で音量を上げていたようにも聞こえた。
或いは、随所で独自のフェルマータを施したり休符を挟んだりしておきながら、第3楽章でベートーヴェンが記したフェルマータ(203,204小節目)は、とても控えなものになっていた。
更には、第2楽章でのヴィオラとチェロが旋律を奏でる箇所(34小節目から)は、朗々と歌わせて欲しいところであるのに、サラッと流していた。様々なアイデアを提示しながら(その殆ど全ては、私にとって不要なアイデアに思えた)、やるべきことをないがしろにするのだな。そんな思いを強くしたものでした。
一体、スピノジは、音楽に何を求めているのでしょうか。対比を楽しんでいるようでいて、作曲家が指示した対比は軽視する。あまのじゃくなのでしょうね。或いは、他の指揮者がやらないことをアイデアとして提示することに歓びを抱いている指揮者なのかもしれません。
その感性には、付いていけません。プレトークで、≪田園≫の第2楽章では、小川の周りにトンボや蚊が飛んでいる光景が見えてくる、といったようなことを話していました。それでいて、小川のせせらぎが聞こえてくるとは言っていなかった。そのような感性の持ち主なのだなと、納得してしまった次第。
なお、そのような≪田園≫でありつつも、第2楽章のちょうど真ん中辺り、79小節目からの蜃気楼のように音楽が漂っていく箇所では、玄妙な音楽が鳴り響いていて、とても美しく、大いに惹かれたものでした。本日の≪田園≫の演奏での白眉は、ここだったと言えるのではないでしょうか。





