仲道郁代さんの演奏会を聴いて

昨日(5/22)は、兵庫県立芸術文化センターに、仲道郁代さんのリサイタルを聴きに行ってきました。演目は、下記の4曲。
●ベートーヴェン ≪テンペスト≫
●ショパン バラード第1番
●リスト ≪ダンテを読んで≫
●ムソルグスキー ≪展覧会の絵≫

この演奏会には、「知の泉」~人間の業と再生への祈り~というサブタイトルが付けられていました。すなわち、「人間の業と再生への祈り」をテーマとして、選曲が為されていた訳であります。
そして、プログラム冊子とは別に、仲道さんご本人が各曲について綴られた詳細な説明書きが添えられていました。そこには、仲道さんがそれぞれの曲をどのように捉えているのか、といったことが書かれている。或いは、それぞれの作品で、どこにどのような仕掛けが施されていて、そのことをどのように読み解いていったか、といったことが書かれていたりする。或いは、その作品が生み出された時の、その作曲家の心情や、そこに込められているであろう作曲家の思いについての、仲道さんの考察が書かれていたりもする。そういった事柄が、この演奏会のテーマである「人間の業と再生への祈り」と、どう関連しているのかが綴られてもいる。
また、各々の曲を演奏する直前に、その曲に対する仲道さんの「思い」が(それは、添えられていた説明書きと重複する内容であったり、説明書きを補足する内容であったりした)語られもした。
そのようなことを踏まえて演奏を聴くと、仲道さんの思いがよく汲み取れた。仲道さんが、なぜそのように弾こうとしたのかという意図も、よく汲み取れた。

この日のホール前の様子

最初、この文章を書き上げるに当たって、それらの1つ1つについて触れていこうと考えていました。しかしながら、そのようなことを始めると、キリが無い。あまりに長大なものとなってしまいます。そして何よりも、そのようなことを書き連ねることに、いったいどんな意味があるのだろうか、という疑問が湧いてきました。細かく触れていっても、詮無いことではないだろうかと。
しかしながら、次の2点については、どうしても触れておくことにしたい。なぜならば、この2点は、私にとって、とても衝撃的でありましたので。そして、この2点は、この演奏会を特徴づけるもの、ひいては、仲道郁代さんというピアニストの特質に迫るものではないだろうかと思えましたので。
まずは、1点目であります。それは、≪テンペスト≫の第1楽章の第1主題について。仲道さんは、説明書きの中で、「左手で鳴らされる強い力の運命的なものと、その力に対し助けてくださいと懇願するような右手、その対話が描かれます」と書いている。そして、実際の演奏では、左手によって脅迫的に打ち鳴らされる2小節間に対して、それを受けて右手が奏でる2小節間は、ガクッとテンポを落として、まさに懇願するように弾かれた。この、左手と右手の対話によって、「人間の業」が示されているように思えてならなかった。なぜ、この演奏会の冒頭で≪テンペスト≫が演奏されたのか。「人間の業と再生への祈り」というテーマと照らし合わせて考えると、その理由がよく解るような気がします。
2点目は、≪展覧会の絵≫の『プロムナード』について。仲道さんは、説明書きのなかで、≪展覧会の絵≫のことを「恐ろしい曲」と書かれています。そのうえで、『プロムナード』について、「はじめはソロで出て、それからハーモニーを伴う形は、教会の讃美歌のあり方と同じです」と書いています。また、プレトークでは、≪展覧会の絵≫は「宗教的な性格が織り込まれている作品だと思う」とおっしゃられたうえで、『プロムナード』について、「はじめはソロで出て、それからハーモニーを伴う形は、キリスト教の儀式で最初に司祭が唱え、それに続いて周囲が唱和していく形と同じ」と説明されました。実際、仲道さんによって演奏された冒頭の『プロムナード』は、高らかに歌い上げるような音楽とは対極にあるような、厳かな音楽になっていた。
このような形で、音楽にアプローチしてゆく仲道さん。そして、そのことを基盤にしながら演奏を繰り広げてゆく仲道さん。ここから見えてきた仲道さんの特質、それは、とても知的なピアニストなのではなかろうか、ということであります。知性と感情とを天秤に掛けた場合、知性のほうに傾く。もちろん、感情的な要素が全くない訳ではありません。例えば、この日の演奏会で言えば、ショパンの≪バラード≫第1番では昂揚感の大きな演奏になっていた。また、『キエフの大門』では、雄大なクライマックスが築かれていた。とは言え、知情のバランスで言えば、知性の方に重きが置かれている演奏ぶりとなっている。そんなふうに思えるのであります。

ホール3階の屋外バルコニーの様子

かように、知的に音楽を組み上げていきながら、この日の演奏では、雄弁で、広壮な世界が描き上げられていた。しかも、そこでの音楽は、逞しく、そして、生き生きと息づいていた。しかも、繊細で、優しさや暖かさを備えてもいた。
そんな音楽に触れることのできた演奏会でありました。