カサドシュ&関西フィルによる演奏会を聴いて
昨日(5/20)は、ジャン=クロード・カサドシュ&関西フィルの演奏会に行ってきました。演目は、下記の3曲になります。
●ウェーバー ≪オベロン≫序曲
●メンデルスゾーン ヴァイオリン協奏曲(独奏:オーギュスタン・デュメイ)
●ベルリオーズ ≪幻想交響曲≫
最大のお目当ては、デュメイのヴァイオリン。デュメイのヴァイオリンを実演で接するのは初めてになります。デュメイは、指揮者としての関西フィルの音楽監督を務めていますが、ヴァイオリニストとして登壇することもしばしば。
デュメイは、フランス生まれのヴァイオリニスト兼指揮者。1949年生まれとのことですので、もう73歳になる訳です。もう少し若いかと思っていましたが、ヴァイオリニストとしてはかなりの高齢になります。グリュミオーに師事したフランコ・ベルギー派の流れを汲むヴァイオリニストであり、艶やかな美音を持ち味としています。細君のピリスと組んで、ベートーヴェン、ブラームス、モーツァルトらのヴァイオリンソナタやピアノ三重奏曲などを録音しており、それらを愛聴されている方も多いのではないでしょうか。
指揮活動は20年ほど前から開始しているようで、2008年より関西フィルの首席客演指揮者を務め、2011年に同楽団初の音楽監督に就任しています。
この演奏会の指揮をするカサドシュは、フランスが生んだ20世紀を代表するピアニストの一人、ロベール・カサドシュ(1899-1972)の甥にあたる指揮者。R・カサドシュは、モーツァルトのピアノ協奏曲などで、気品あるピアノを聞かせてくれていましたね。そんなR・カサドシュの甥が指揮する≪幻想≫。≪幻想≫は、得てして国籍不明な音楽となって、派手に賑やかに演奏してゆく傾向が強いように思えますが、フランス音楽としての≪幻想≫に出会うことができるのではないだろうかとの予感を抱きながら、会場に向かったものでした。
ちなみ、カサドシュは1935年の生まれということで、今年87歳になる熟練の指揮者。フランス国内で、多くの勲章を受けているようです。これまでに、新日本フィルや京都市交響楽団、広島交響楽団などの指揮台に立っているようですが、関西フィルを指揮するのは初めてとのこと。そんなカサドシュの経歴はと言いますと、プログラム冊子には、デルヴォー、ブーレーズに師事し、1965年にシャトレ座音楽監督に就任、1969年にはパリ・オペラ座およびオペラ・コミック座の常任指揮者に就任していると書かれています。
なお、チラシには「魔女が来りて楽を為す・・・魔女、狂乱の宴」というキャッチコピーが。≪幻想≫の第5楽章から来るキャッチコピーだな、と思いながら演奏会に臨んだのですが、前半に置かれた演目での演奏の性格にも当てはまるように考案されたキャッチコピーだったのだろうと思いを巡らすこととなりました。
そんな演奏会を聴いての印象について、綴っていきたいと思います。まずは、前プロの≪オベロン≫序曲から。
アンサンブルに乱れがかなりありました。それは、指揮者のアインザッツの曖昧さや、テンポ感の定まらない指揮ぶりを起因としたものであったように思えます。特に、序奏部において頻発していた。(主部に入っても、時おり乱れは生じていましたが。)
しかしながら、主部に入って、音楽が律動感を持って動き出すと、表情が生き生きとしていて、輝かしい音楽が奏で上げられるようになった。既にご紹介したように、経歴を見ると、カサドシュはオペラ畑での活動に重きを置いていたようです。歌劇場で磨き上げてきた音楽性が、ここでの演奏にクッキリと反映されていた。そんなふうに思えたものでした。オペラが開幕する前のワクワク感が、存分に備わっていた。
この曲は、もともと大好きな作品なのですが、「ああ、なんて良い曲なのだろう」ということを実感できる、素敵な演奏でありました。そして、演奏会の開幕の音楽としても、実に相応しい雰囲気を持っているなと痛感したものでした。
ところで、≪オベロン≫序曲は、最近の演奏会ではなかなか採り上げられないのが残念でなりません。1970年のセル&クリーヴランド管による来日公演や、1973年のザンデルリンク&シュターツカペレ・ドレスデンによる来日公演、ムラヴィンスキー&レニングラード・フィルによる1978年のウィーン芸術週間での演奏会などで、前プロとして採り上げられている例が示すように(この3つの演奏会の全容は、CDで聴くことができます)、以前は、盛んに演奏されていたように思うだけに、よけいに残念であります。そんな中での、この日の≪オベロン≫序曲。私の喉の渇きを癒してくれるに十分な演奏でありました。
続きましては、デュメイによるメンデルスゾーンについて。
この演奏を聴き終わって、かなり戸惑ってしまいました。何という凄まじいメンデルスゾーンだったことか、と。
ここにあったもの、それは、狂気を宿したメンデルスゾーン。そんな言葉が、頭に浮かんだものでした。それは、チラシに書かれていた「狂乱」の言葉が脳裏に残っていて、そこから飛んできた発想であったようにも思えます。
なんとも奔放な演奏でありました。作品に、あらんかぎりの情熱をぶつけていた。それが、時にアラとなってもいた。音程が外れることもしばしば。そう、至るところに瑕疵が認められる演奏でありました。
特に曲が始まってしばらくのうちは、テクニックの衰えを露呈してしまっているような演奏だったとも言えそう(デュメイが73歳になっていたことは、帰宅して確認したのでした)。テクニックが作品を支え切れていなくて、音楽のフォルムが崩れたものになっていた。音楽の奏で上げ方が粗雑なようにも感じられた。そんなこんなによって、最初のうち私は、頭を抱えて塞ぎこんだものでした。
しかしながら、演奏が進むについて様相が変わってきた。少しずつ、音楽が嵌り始めた。それは、私がここでの演奏ぶりに慣れてきたからというよりも、デュメイの演奏に粗雑さが消えてきたためだと言いたい。弓の操り方が丹念になってきた。そして、音程が外れることも少なくなっていた。そうすると、音楽が俄然輝き始めた。
演奏は、相変わらず奔放なものでありました。作品に体当たりでぶつかっているような演奏ぶり。荒らしさを、更に言えば、猛々しさを持っていたとも言えそう。実に逞しい音楽となっていた。
ありふれた表現を使えば、気迫の漲っていた演奏と言うことになりそうなのですが、その一言では済ますことのできない演奏であったとも思えます。荒々しさと、感情を抑制しながら繊細に奏で上げることとが同居していた演奏であった。そのことが、音楽の表情を生き生きとしたものにしてくれていた。このような言い方が当てはまる演奏は、この日のデュメイでなくとも、多くの演奏に該当しそうですが、この日のデュメイには、独特の「狂気」が感じられたのでした。それは、作品に挑みかかるような狂気、とも感じられた。パガニーニを演奏する際に相応しいような態度でメンデルスゾーンに挑んでいた、とも言えそう。
そのうえで、艶やかで甘美でもあった。全てが、デュメイの率直な心情の吐露であることが聞き取れて、聴いていて身を切られるようでもあった。そう、万感籠った音楽が繰り広げられていたのでありました。
そのような演奏ぶりによって、時に極めてセンチメンタルな音楽が聞こえてきていたものの、メンデルスゾーンに相応しい演奏であったかと言えば、多くの箇所において、そうとは言い切れないものだったように思えます。しかしながら、メンデルスゾーンの音楽がどうの、といったことを突き抜けたところで成り立っている、重層的で、多面的な面白さや凄みを感じさせてくれる演奏であった。そんなふうに言えるように思います。
似たようなことを、以前にも経験したことがあるな、と思いながら聴いていたものでした。それは、1998年の別府アルゲリッチ音楽祭でギトリスが弾いたフランクのヴァイオリンソナタ。あのフランクも、奔放極まりなくて、この日のデュメイ以上に音楽のフォルムが崩れていたのですが、フランクの音楽がどうのといったところを突き抜けた凄みがあった。調べてみますと、あのときのギトリスは76歳。今のデュメイと近い年齢だった訳であります。
さて、メインの≪幻想≫についてでありますが、この作品の魅力を堪能することのできた、素晴らしい演奏でありました。
こちらでは、≪オベロン≫序曲で見受けられたアンサンブルの乱れは感じられなかった。そのうえで、誠に劇的な演奏でありました。オペラ畑で活躍してきた指揮者の面目躍如といったところでありましょうか。
それでいて、過度に音楽を煽る訳でもない。最後の箇所も、アッチェレランドは掛からない。ジックリと歩みを進めてゆくのですが、音楽は存分に高揚していた。
チラシのキャッチコピーにあった「魔女、狂乱の宴」。なるほど、第5楽章ではワルプルギスでの魔女の宴を彷彿とさせてくれるような、劇的効果の高い演奏であったと思います。それでいて、過剰に奇怪な表情が与えられていた訳ではなかった。ツボを押さえながら、音楽を纏め上げていて、その結果として魔女の宴が浮かび上がってきたような演奏だった。そんなふうに言えそう。
そう、ここには、過度な狂気はなかった。狂気であれば、メンデルスゾーンでのデュメイの方が、遥かに強かった。と言いつつも、ここでの≪幻想≫は、整然とし過ぎることなく、充分なる力感を備えている演奏であったと思えます。
それもこれも、87歳になる大ベテランの指揮者(しかしながら、実に矍鑠としていて、とてもそのような高齢の指揮者には見えなかった)が、自国の作曲家が生み出した最も重要な交響曲とも言える≪幻想≫を、完全に手の内に収めているためだと言えそう。作品の息遣いを熟知している結果が、この日の演奏の隅々に現れていたのだ、と。まさに、自家薬籠中の演奏を聴いたとの思いを強く持ったものでした。
開演前は、フランス音楽としての≪幻想≫が期待できるかも、と考えていたのですが、それとは少し違うのですが、派手に奏で上げて効果を狙う≪幻想≫とも、一線を画す演奏でありました。それは、自国の作曲家による作品を演奏する「強み」を感じずにおれない演奏でもあった。音楽の流れや、抑揚の付け方や、音楽の収縮のさせ方や、といったところの全てにおいて、理想的で、そして、強い説得力を持っていた。いやはや、実に見事な演奏であったと思います。
ところで、関西フィルのヴァイオリンは、実に艶やかで美しい音がしている。それは、先月に聴いた下野さんの指揮によるオール・ドヴォルザーク・プログラムでも感じられたこと。大いなる特徴であると思います。