秋山和慶さん&日本センチュリー響による演奏会を聴いて

昨日(4/20)は、大阪シンフォニーホールで秋山和慶さん&日本センチュリー響による演奏会を聴いてきました。演目は、下記の2曲。
●モーツァルト ピアノ協奏曲第9番≪ジュノム≫(独奏:髙木竜馬さん)
●ベートーヴェン(近衛秀麿編曲) 交響曲第3番≪英雄≫

当初は、≪ジュノム≫の独奏は小林愛実さんと発表されていたのですが、ご懐妊のために髙木竜馬さんに変更。髙木さんの演奏を聴くのは、これが初めてになります。
秋山さんが、モーツァルトとベートーヴェンで、どのような演奏を聞かせてくれるのか。ある程度、どのような演奏なのかは想像できるのですが、そこから懸け離れた演奏になるかもしれないという思いを、家から出掛ける際には抱いていました。
(一昨年に、びわ湖ホールで聴いた日本センチュリー響とのブラームスの交響曲第1番では、スキっとした音楽づくりの中から、過度に熱くなる訳ではないものの、作品が持っているエネルギーがシッカリと放射されている演奏が展開されていて、その際の演奏ぶりが再現されれば、との期待を込めていました。)
初めて聴く髙木さんがどのようなピアノを聞かせてくれるのかも含めて、期待に胸を膨らませながら会場へと向かったものでした。

なお、これは会場に着いて、プログラム冊子を見ていて気付いたのですが、≪英雄≫は近衛版とのこと。プログラム冊子の解説には、4管編成でホルンは6本(単なる倍管なのではないだろうと予測しました)で、コントラファゴットも組み込まれていると書かれています。更には、第4楽章にはピッコロとオプションでテューバが追加され、本日の演奏ではオプション採用とのこと。
なんだか、とんでもなく芝居がかった≪英雄≫なるのではないだろうか、との思いが込み上げてきました。

ホール入口右の生け垣には、ツツジが。前回(4/6)のシンフォニーホールでの演奏会では、まだ咲いていませんでした。
季節が進んでいることを、このようなことでも感じ取ることができます。

さてそれでは、演奏を聴いての印象についてであります。まずは、前半の≪ジュノム≫から。
髙木さんによるピアノは、感受性が豊かで、清冽なものでありました。更には、モーツアルトの場合は、テクニックが云々というところはあまり表に出てこないと言えましょうが、テクニックも安定していた。しかしながら。
モーツアルトならではの飛翔感が今一つ薄かった、精一杯に伸びやかに音楽を奏でようと心掛けていたのでしょうが、今一つ伸びやかさに乏しかった。と言いますか、無邪気になりきれていないように感じられました。≪ジュノム≫の場合は、特に「無邪気な伸びやかさや、朗らかさ」が必要と思えるだけに。そのために、聴いていてときめいてこなかった。
何と言いましょうか、窮屈に音楽を奏でているように思えたものであります。モーツアルトの難しさなのでしょう。
そのような中で、カデンツァでは、雄弁でいて、表情豊かな音楽が鳴り響いていました。そこでは、枠に囚われずに、自分の音楽が伸びやかに披露しきれていたように思えまたのであります。また、第2楽章での悲痛にして切実なセンチメンタリズムも、聴き応えが充分でした。
秋山さんによるサポートは、清潔感に溢れたもの。かつ、溌剌としてもいた。とは言いましても、軽薄になっていなかった。そう、軽妙にして、膨らみのある音楽となっていた。素敵なサポートぶりだったと思います。


続きましては、メインの≪英雄≫について。
近衛版を使ったところで、ベートーヴェンの音楽がR・シュトラウスに様変わりする訳ではありませんよね。聴く前は、それに近い音楽になるのではなどと想像をしていたのでしたが。
要は、音の補強を施しているということ。≪英雄≫は≪英雄≫でありました。
補強は、とりわけ低音において顕著だったと言えましょう。コントラファゴットとテューバが加わったことによって、低音の厚みがグッと増していました。ちなみに、プログラム冊子の解説を読むと、テューバは最終楽章でのみ加わるのかと思っていたのでしたが、全楽章で加わっていました。第1楽章の展開部だったか、再現部だったかで、はっきりとテューバの音が聞こえてきた箇所がありました。(そこ以外では、今日の演奏では、テューバの音を明瞭に確認できるようなことはなく、下支えに終始していた、といったところ。)
あとは、木管が倍の人数になったことによって、木管のみがハーモニーで音楽を奏でるシーン(葬送行進曲で、頻繁に出てきます)での音が、「我々木管セクション、頑張っています!!」と、大声で主張するような音楽になっていて、存在感が抜群でありました。その素振りが大袈裟な感じがして、ちょっと笑える感じではあったのですが、近衛さんも、秋山さんも、更にはオーケストラの木管奏者も、大真面目なのであります。
更には、第3楽章のトリオでのホルンも、最初は3人で吹き始めたものの、すぐに倍の人数に増強され、威勢の良い、かつ、壮大で重厚なホルンアンサンブルとなっていたのが印象的でした。これまた、ちょっと笑えたのですが。
更に、更に、ほんの時折だったですが、クラリネットやオーボエがヴァイオリン群の動きに音を重ねて増強する、といった措置が採られている箇所もありました。
ただ、これまでに列挙した改編は、音楽の性格を根底から変えてしまう、といったものではありませんでした。大書すべきはティンパニの改編。至るところで、ベートーヴェンが書き込んでいない音を叩いてゆく。これも、オケの響きを補強するためなのでしょうが、ティンパニの音の追加は、曲の性格を歪めてしまうものだったと言いたい。或いは、最終楽章の後半部分、テンポがPoco Andanteとなってしばらくし、オーケストラが全奏で高らかに旋律を奏でる場面(381小節目以降)で、ロールで叩くようにベートーヴェンが記譜した箇所(387小節目)を、一撃ずつ叩くように変更されていたりもして、その措置には大いに疑問を感じたものでした。
近衛版で、最も違和感があったのがティンパニでした。
版についてはこの辺にしまして、演奏内容について。
秋山さんによる演奏ぶりは、ある種、誠実なものだったと思います。更に言えば、近衛版を面白がって演奏していた、といった風にも感じられた。近衛さんが書き換えた箇所を、忠実に、かつ、ある程度誇張をしながら、演奏を繰り広げていたようにも思えました。
しかしながら、なぜ、近衛版でなければならなかったのか、といった意図が、ハッキリと掴むことができませんでした。聴いている間じゅう、なんだかインチキに遭っているような感覚に襲われたものでした。
ベートーヴェンのオリジナルが、近衛版よりも劣っているとは、到底思えません。それであれば、なぜ近衛版で演奏する必要があったのか。
今日の≪英雄≫は、余興のようなものだったのかもしれません。或いは、「エロイカには、このような版も存在するのですよ」という、秋山さんからのメッセージだったのかもしれません。文献的な価値を持っているとも言えそうな近衛版を、実際の音にして聴衆に届けることを目的にしていた、という意味で。
ちなみに、音は随所で増強されているのですが、音楽は肥大化しているようには聞こえてこなかった。むしろ、キリっとしていた。この辺りは、秋山さんの体質なのでしょう。
また、fとffの違いも明瞭に示されていた。このことは、ベートーヴェンを演奏するにあたって重要なことだと考えていますので、なんとも好ましかった。
そのようなこともあって、ベートーヴェンの意図に忠実な形で、秋山さんの≪英雄≫を聴いてみたかった。そのような思いに駆られました。