インキネン&兵庫芸術文化センター管による演奏会(シベリウスの交響曲第2番 他)の最終日を聴き、京都に戻ってからは清凉寺の「お松明式」に参加

今日は、インキネン&兵庫芸術文化センター管(通称:PACオケ)による演奏会の最終日を聴いてきました。演目は、下記の3曲。
●シベリウス ≪ポヒョラの娘≫
●プロコフィエフ ≪交響的協奏曲≫(チェロ独奏:北村陽さん)
●シベリウス 交響曲第2番
ちょうど4年前の2022年3月に、PACオケを指揮して素晴らしい演奏を繰り広げてくれたインキネン。その際には、≪春の祭典≫をメインに据え、前半には≪フィンランディア≫とヴァイオリン協奏曲という形でシベリウスの作品を採り上げてくれたのでありました。そこでの演奏はと言うと、それぞれの作品に肉薄したものだと思えでなりませんでした。「音楽を聴く歓び」に溢れた演奏でもあった。
インキネンがPACオケを指揮するのは、それ以来のこと。再来演を心待ちにしていただけに、「ようやく来てくれた」といった心境でありました。
フィンランド生まれで、シベリウスを得意にしているインキネンは、今回も、冒頭とメインにシベリウスを置き、真ん中にプロコフィエフによるチェロのための≪交響的協奏曲≫を据えるという、なんとも魅力的なプログラムを組んでくれています。そのプロコフィエフでソリストを務める北村さんは、2004年に兵庫で生まれ、PACオケのジュニア版とも呼べそうなスーパーキッズ・オケ(こちらも佐渡裕さんが監督を務めています)出身で、数々の国際コンクールで優勝を果たしているという新進のチェリスト。そんな北村さんが、どのようなチェロ演奏を繰り広げるのかも楽しみでありました。
そんな、多くの注目点のある、なんとも興味深い演奏会でありました。
それでは、本日の演奏会をどのように聴いたのかに書いてゆくことに致します。

まずは、前半の2曲から。ともに素晴らしい演奏でありました。
前プロの≪ポヒョラの娘≫は、インキネンによるシベリウス演奏の精華が発揮された演奏だったと言えましょう。
インキネンによる音楽づくりは、頗るひたむきでありつつ、息遣いが自然で滑らかで豊かで、かつ、感興も豊か。しかも、生気を帯びた音楽が鳴り響いている。そのようなこともあって、音楽が淀みなく流れてゆく。しかも、目鼻立ちがクッキリとしていつつ、ふくよかでもあり、起伏に富んでいて、ドラマティックでもあった。それでいて、誇張が全くない。そして、確信に満ちている。浮ついたところが全く感じられなかった。
そのような演奏ぶりによって、この作品の実像がクッキリと浮かび上がってくる。そんな演奏でありました。
続くプロコフィエフでは、まずもって北村さんの独奏が素晴らしかった。音が途轍もなく大きくて、音が潜ってしまうようなことは皆無。とても押し出しの強い演奏が繰り広げられていったのであります。それでいて、粗暴でもない。頗る艷やかな音質をしていて、流麗でノーブルな音楽が奏で上げられていた。そのうえで、とても明瞭な音楽となっていた。
しかも、プロコフィエフならではのシリアスにしてシニカルな味わいにも事欠かなかった。この点においては、インキネンによる音楽づくりに負うところも大きかったと言えましょう。交響的協奏曲と名付けられているだけに、通常の協奏曲よりもオーケストラに大きな役割が与えられている作品となっており、尚更だったと言いたい。そう、インキネンによる鮮烈にして明瞭な音楽づくりが、この演奏の性格に大きく寄与していたのであります。
ソリストも、指揮者も、真摯で、かつ、瑞々しい感性に基づいた演奏ぶりとなっていて、滑らかにして雄弁な演奏を繰り広げてくれていたのであります。頗る伸びやかでしなやかでもあった。
この作品の魅力を鮮やかに映し出してくれていた演奏でありました。
なお、ソリストアンコールは、カザルスが愛奏していたことで名高い≪鳥の歌≫。
こちらでも艷やかな音色を武器としながら、ジックリと、かつ、切々と奏で上げてゆく、そんな演奏が繰り広げられたものでした。

それでは、ここからはメインのシベリウスの2番について。いやはや、実に素晴らしかった。前半の2曲も見事でしたが、それを遥かに上回る感銘を受けたものでした。
なんと豊かに呼吸していた演奏でありましょう。アゴーギクが絶妙で、音楽が大きく伸縮し、かつ、大きな抑揚が採られていました。とは言うものの、それらに取って付けた感が全くない。曲想に、そして、そこに籠められている「生命」に呼応しながら、音楽が伸縮してゆくのであります。このことは≪ポヒョラの娘≫においても十分に感じられたのですが、その幅は遥かに大きく、かつ、自然でありました。そのために、自在感に満ちていて、かつ、逞しい生命力を湛えた音楽が奏で上げられていった。生気を帯びてもいた。
冒頭からして、豊かな感興を湛えた音楽が鳴り響いていました。響きがふくよかで、そして、分厚さがあった。それでいて、暑苦しかったり、重々し過ぎたり、といったようなことはない。むしろ、清々しかった。凛々しくもあった。
しかも、その直後に木管楽器群によって奏でられる軽やかな音型を、音を短く鳴り響かせながら、明瞭に奏でてゆく。快活な音楽がパッと立ち上がってきたのであります。そのこともあって、清々しさの中に暖かみや朗らかさが漂う音楽が鳴り響いていた。その様は頗るチャーミングだった。そして、流れがギクシャクするようなことも皆無だった。それはまさに、曲想に適ったものだったと言いたい。
今しがた触れた、ちょっとしたギアチェンジは、ほんの一例でありまして、全編を通じて音楽が千変万化しながら、豊かに流れてゆく。ジックリと歌わせてゆくと共に、音楽を思いっ切り煽っていったりもする。しかも、それが隣り合わせのフレーズで為されることもしばしば。それでいて、唐突な感じが全くしない。ツギハギ状になっている音楽だという印象を抱くようなことも一切ない。そうすべきなのだ、という必然性を備えた演奏だと言わざるを得ないものになっていた。
これはもう、インキネンの豊かな音楽性ゆえなのだと思わずにおれませんでした。そして、この作品の中で呼吸しながら音楽を奏でているからに他ならないのだ、と思わずにおれなかった。インキネンに限らず、多くの演奏家は「演作品の中で呼吸をしながら演奏をしている」と言うべきなのでありましょうが、ここでのインキネンの場合、その度合いが著しく強いように思えたのであります。そして、それが確固としたものに思われた。更に言えば、信念に基づいて為されており、しかも、その信念は、普遍性のようなものが頗る高いものだと思えてならなかった。そう、それは、強い説得力や、妥当性や、といったものの感じられる信念だったのであります。独りよがりな表情付け、といったものも皆無だった。繰り返しになりますが、「こうあらねばならない」といった音楽が鳴り響いていたのであります。
そのような演奏ぶりによって、シベリウスの2番という作品が、実に生き生きと、そして、表情豊かに奏で上げられていった。
全編を通じて、この作品に相応しいロマンティックな雰囲気や、森閑とした雰囲気や、瞑想的であったり、沈鬱としていたり、といった表情が、なんの齟齬もなく描き上げられてゆく演奏でありました。第1楽章は、様々な曲想が走馬灯のように駆け巡ってゆく音楽だと言えましょうが、多彩な音楽世界がめくるめくようにして広がっていった。第2楽章の冒頭部分などは、この作品の中で最も沈鬱な空気に包まれた箇所となっていますが、静謐でありつつも、重苦しくない範囲で荘重な雰囲気を湛えていた。しかも、この楽章に織り込まれている感情の起伏の激しさが、なんとも切実に描き出されていた。哀感が強く、かつ、音楽が高潮してゆくと壮烈な音楽が鳴り響くこととなっていたのであります。
第3楽章は、機敏に動く箇所と、安寧な空気に包まれる箇所とが交錯してゆくのですが、その対比が鮮やかで、かつ、自然でもあった。そして、最終楽章では、輝かしくて壮麗な音楽世界が広がっていった。しかも、誇張のない形で。
いやはや、惚れ惚れするほどに見事な演奏でありました。それと同時に、インキネンの音楽性の豊かさを、改めて強く認識させられた演奏となりました。
こんなにも見事なシベリウスの2番は、そうそう聴くことはできないだろう。そんな思いの込み上げてくる演奏でもありました。
オケによるアンコールは、≪カレリア≫組曲から「行進曲風に」。
力んだところの全くない演奏でありました。力7分、といったところでありましょうか。とは言うものの、オケは存分に鳴っていて、実に心地が良かった。そして、この曲に相応しい明朗な雰囲気にも不足がなかった。
本日の演奏会を、より一層、幸福感に満ちたものにしてくれた、素敵なアンコールでありました。

演奏会から帰宅して夕食を食べた後に、清凉寺の「お松明式」に参加してきました。
3月15日はお釈迦様の命日。そこで清凉寺では、毎年この日に、お釈迦様が荼毘に付された様子を再現した「お松明式」が執り行われています。ずっと気になっていた行事だったものの行ったことがなく、今年こそはと足を運んでみたのでした。
20時半頃に、境内に立てられた高さが7メートルある3本の松明に火が灯されました。煌々と燃えさかる様は、まさに圧巻。厳かでありつつ、活況が感じられ、迫力のある仏事でありました。






