佐渡裕さん&兵庫芸術文化センター管による演奏会(ショスタコーヴィチ交響曲第10番他)の最終日を聴いて

今日は、佐渡裕さん&兵庫芸術文化センター管(略称:PACオケ)による演奏会を聴いてきました。演目は、下記の2曲。
●リンドベルイ ヴィオラ協奏曲(独奏:ローレンス・パワー)
●ショスタコーヴィチ 交響曲第10番
9月が各シーズンのスタート月となっているPACオケ。この演奏会が、PACオケにとっては2026-27年シーズンの開幕を告げる定期演奏会となります。
ここでメインに採り上げられているのはショスタコーヴィチ。佐渡さん&PACオケによるショスタコーヴィチは、2022年5月の定演で交響曲第5番を聴いていますが、頗る充実度の高い演奏でありました。これまでに接してきた佐渡さんによる実演の中で、個人的には、それは、他での演奏の追随を全く許さないほどに最も深い感銘を受けたものとなっています。
そのショスタコーヴィチの5番に対して、私は、次のように書いたものでした。
佐渡さんの指揮の(動きの)、なんと意義深かったことか。音楽がどのような方向に向かおうとしているのか、音楽がどのように呼吸をしようとしているのか、音楽がどのような表情を望んでいるのか、といったようなことが的確に動きに表されていた。
(中略)
そのような指揮ぶりによって、緊迫感に溢れ、躍動感に満ちた音楽が鳴り響いていったのでありました。濃密、かつ、高らかに謳い上げていった音楽が。
終演後に心の中で叫んだのは、とんでもない演奏会を体験してしまった、ということ。そして、音楽を好きでいて良かったと心底思えた。音楽を聴き続けてきて、演奏会に足を運び続けてきたからこそ、この演奏会によってもたらされた幸福感を得ることができたのだから。
上述したようなショスタコーヴィチ体験をもたらしてくれた佐渡さんであります。本日の第10番でもまた、それに比肩する演奏に巡り会うことができるかもしれない。そのような期待を抱きながら、会場に向かったものでした。
なお、前プロは、1958年にフィンランドで生まれた現代の作曲家による作品で、今回が日本初演。演奏時間は35分ということで、そこそこのボリュームを持った作品のよう。
リンドベルイの作品に触れるのは初めてのこと。
プログラム冊子には、初期には急進的な作風を特徴としてきたが、やがて豊かなメロディとハーモニーに彩られた比較的明快な作風を切り拓いた、とある。
どのような音楽世界が広がるのだろうかと、こちらも興味津々でありました。
それでは、本日の演奏会をどのように聴いたのかについて、書いてゆくことに致します。

まずは、前半のリンドベルイから。
なるほど、プログラム冊子にあったように、さほど急進的な音楽にはなっていませんでした。とは言いましても、メロディアスな音楽になっている訳ではなかった。その点では、現代性の強い音楽だったと言えましょう。旋律の代わりに、音型の塊(それは、大音量で不協和音をぶつけるのではなく、音階によって音楽を成り立たせていたり、分散和音を長々と奏でさせたり、音階を駆け巡らずに刻みによって音楽を成立させようとしたり、といった造りになっていた)で勝負する、といった音楽になっていました。そして、繊細にして精妙な響きがしていた。
しかも、独奏ヴィオラに旋律が割り当てられることは殆ど無かったために、独奏楽器が音楽をリードするというよりも、オケが音楽世界を描き上げてゆくことの方が多かった。それ故に、ヴィオラによるオブリガート付きのオーケストラ曲、といった趣をした音楽となっていました。と言いつつ、楽想の面ではオケが主役となる場面が多かったものの、独奏楽器としての華やかな活躍の場が与えられていたのは確かで、聴き手の耳目を惹きつけるという点では、独奏ヴィオラが充分に中心的な役割を担っている作品になっていたとも思えたものでした。
そのような作品を、独奏者のパワーは、楽器を存分に鳴らしながら奏で上げていました。雄弁な演奏ぶりでもあった。なお、パワーは、世界初演でも独奏を務めたようです。と言うよりも、パワーがリンドベルイにヴィオラ協奏曲を書くことを委嘱し、その結果として生まれた作品だとのこと。
そんな、鳴りが良くて、太い音による豊麗な演奏ぶりによって、ヴィオラという、決して華やかではなく、むしろ、渋めな音色をしていながら、量感があって、体幹のシッカリとしている音楽を奏でることに適している、といった特色が、よく表された演奏になっていたように感じられたものでした。
なお、3楽章から成る作品でしたが、楽章の切れ目なく演奏されてゆく音楽になっていた。また、第2楽章から第3楽章へと移行する箇所に挟まれていたカデンツァでは、ピチカートに乗って(そのピチカートは、胸に楽器を抱きながら、ギターを弾くようにして爪弾いていた)歌を歌ったりもしていた。
(カデンツァが、最終楽章へ移行する箇所に置かれていたことから、同じ構成が採られている、ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番が想起させられもしたものでした。)
また、メシアンの影響を受けているとプログラム冊子に書かれていましたが、オケの響きにメシアンを思わせる箇所があったのも、印象的でありました。
そんなオーケストラパートを、佐渡さんは、ソツなく、手際よく、しかも、色彩鮮やかに奏で上げていたようでした。その結果、パワーによる独奏をがっちりとサポートしつつ、音楽をリードしていたと言いたい。
ソリストアンコールは、ヴェストホフという、バッハよりも少し前にドイツで生まれ、バッハのヴァイオリン作品にも大きな影響を与えたという作曲家による無伴奏ヴァイオリンソナタ第3番から第3楽章「鐘の模倣」をヴィオラで演奏する、といった趣向によるものでありました。
分散和音を主体にした音楽となっていましたが、決してバリバリ弾かずに、弱音による柔らかな響きを敷き詰めながら、精妙な音楽を奏で上げてゆく、といった内容となっていた。その結果として、なるほど、鐘を想起させられる音楽が鳴り響いていました。
しかも、リンドベルイによる現代性の強い作品の後に演奏されたこともあって、近現代の作曲家の手による作品が引き続き演奏されているのだろうか、と錯覚させられる色彩が生まれていたのが、とても興味深かった。

さて、ここからは、メインのショスタコーヴィチについて。
その演奏はと言いますと、期待を遥かに上回る素晴らしいものでありました。プレトークで、ショスタコーヴィチの5番や、本日演奏する10番やについて熱く語っておられましたが、佐渡さん、ショスタコーヴィチには人並みならぬ愛情を注いでおられるのでしょう。そのことがクッキリと刻印されていた、生命力豊かで、ダイナミズムに溢れていて、表情豊かで、逞しい息遣いをした演奏が展開されていったのであります。
(ちなみに、プレトークでは、5番についても、10番についても、「格好良い」という言葉を何度か使っていました。この単語の使用は、本日のプレトークに限った話ではなく、過去のプレトークでも何度か使われてきた。但し、本日は、いやに目立っていました。格好良さは、佐渡さんの音楽に対する価値観の大きな部分を占めていると思われ、それは、本日の10番での演奏にも色濃く反映されていたと言えそう。)
なお、ショスタコーヴィチでの弦楽器のプルトの数は8-7-6-5-4。前半のリンドベルイは7-6-5-4-3だったはずで、全パートとも1プルトずつ増強されており、近現代の大編成による作品を演奏するに当たってのフルサイズの規模が採られていたことになります。そのこともあり、第1楽章の序奏部から、弦楽器の音の厚みはかなりのものとなっていました。そして、このことが、演奏に逞しさをもたらしてくれていた一因になっていたように思えたものでした。もちろん、この編成の規模だけによって逞しい演奏が実現された訳ではないのですが、大きな要因になっていたのは間違いないように思われます。
しかも、序奏部から、単に厚みのある音楽が鳴り響いていたとか、逞しい生命力が宿っていた、といっただけではなく、不穏な雰囲気を宿していつつ、音楽が存分に蠢いていた。音楽の動きに呼応しながら(それはすなわち、作曲家の心の動きなのですが)、自在に伸縮をしていた。
そのうえで、音楽が高調してくると、オケを思いっ切り鳴らしながら、慟哭が聞こえてくるかのような、苦悩に満ちた表情を示すこととなった。そこからは、うわべを取り繕った姿ではない、真実味に溢れた音楽が立ち上がっていったのであります。単に「格好良さ」を追い求めたのではない、緊迫感や、迫真性が備わってもいた。そして、オケをドライブする、その手綱の巧みさも存分に発揮されていた。
序奏部が終わって主部に入ると、音楽はほんの僅かテンポを上げて、ユラユラと動き始めます。その表情は、ちょっぴりユーモラスであり、おどけたものとなっている。とは言うものの、それはうわべの問題(ここでは、ショスタコーヴィチが故意に取り繕っている訳で、佐渡さんがうわべを取り繕っているのでありません)であって、その裏側には悲壮感が秘められている。それはまるで、ピエロのよう。そして、ヴィヴィッドでもあった。そのような表情を、佐渡さんがまた、巧妙に描き上げてゆく。佐渡さんは、本来、動きのある音楽とは相性が良いはず。時に、手抜きをしてと言いましょうか(興が乗らないため、ということもありそう)、動きを伴う場面が訪れても無為に音楽を進めてゆくことのある佐渡さんですが、本日のショスタコーヴィチでは、そのようなことは一切なかった。手綱を緩めるようなことも、微塵もなかった。かなり興が乗っていたのでしょうし、ショスタコーヴィチへの愛情の強さ故でもあったのかもしれません。
そして、主部においても、音楽が高調してくると、悲痛な表情を帯びてくる。壮絶でもあった。ドラマティックでもあり、鮮烈でもあった。
そんなこんなの、実に中身の濃い第1楽章であり、かつ、心に刺さってくる第1楽章となっていたのであります。頗る真摯な演奏ぶりでもあった。
第2楽章では、快速に飛ばしながら、疾駆感に溢れていて、推進力に富んでいて、かつ、オケを思いっ切り鳴らしながらのエネルギッシュな演奏が繰り広げられていった。バイタリティに溢れてもいた。スリリングで、熱狂的でもあった。それらが、快感に繋がる音楽となっていました。佐渡さんが追求する「格好良さ」が存分に発揮されていた第2楽章だったとも言えましょう。
また、ここでもオケをドライブする手腕は、頗る鮮やかなものとなっていました。オケの機動性が試される楽章だと言えそうですが、その点でも、アカデミー機能を持っているオケから緻密なアンサンブルを引き出していて、単に勢いだけで押し通してゆく演奏とはなっていなかったと言いたい。
第3楽章は、これまた、ピエロの音楽。そのことが悲壮感を生んだり、皮相的であったりする。その一方で、ホルンのソロによる、慰めとも取れる(プレトークで佐渡さんは、これを「慰め」だと語っておられました)音型が、音楽に侘しさをもたらしたりもする。そのような、複雑な表情が入り組んだ形で進められてゆく楽章を、感情豊かに描いてゆく佐渡さん。しかも、ここでも、ワザとらしさがない。そして、呼吸が頗る自然。そのために、真実味の高い音楽が鳴り響くこととなっていたのであります。
最終楽章は、序奏部での悲哀に満ちた表情(とりわけ、グラーツ芸術大学とヴュルツブルク音楽大学の教授を務めているオーボエのゲスト・トップ・プレーヤーのオルランドが、ちょっとオーバーなほどの悲歌を奏でていて、一つの聞きものとなっていた。但し、オルランドの演奏ぶりは、あまりに露骨に「俺のソロを聴け!!」といった意欲が前面に押し出されていて、「秘すれば花」といった美学からは、最も懸け離れた演奏ぶりだったと言えそう。このソロだけを取り出して論じたならば、見事なソロだったと言うしかないのですが、曲全体の中で、浮いてしまっていた、というのが私の印象であります。)と、主部でのおどけた表情で突っ走ってゆく音楽づくりとのコントラストが、実に鮮やかだった。それは、とりもなおさずショスタコーヴィチが描いた音楽世界なのですが、佐渡さんは生き生きと、そして精妙に再現していったのであります。そして、盛大なクライマックスを築いていった。
そんなこんなの、彩りの豊かな最終楽章でありました。この「彩りの豊かさ」は、最終楽章に限らず、全曲において当てはまるのですが。
終演後は、会場は大いに沸いていました。そのことが納得できる、真摯な態度が貫かれていて、頗る見事な、そして、聴き応え十分なショスタコーヴィチの10番で、私も満ち足りた気分に浸ったものでした。
ところが。
アンコールで≪すみれの花咲く頃≫が演奏されると、私の感情は一変しました。宝塚歌劇団がよく採り上げることで知られている、あの音楽が披露されたのであります。
佐渡さんは、この音楽を殊のほか愛しておられるようで、昨年12月のPACオケとのベートーヴェンの第九の後でもアンコールとして演奏しています。
佐渡さんは、大衆の喜ぶ音楽への嗜好が強いとも思えるだけに、良い意味でも、悪い意味でも、佐渡さんの「大衆性」というものが色濃く反映されたアンコールだったと言えましょうが、その良し悪しを断ずることは避けるとしても、私の趣味からは遠いものとなっていました。
しかも、佐渡さんは途中の部分で、ピアニカを持って旋律を吹き始めた。そのピアニカの演奏の何と拙かったこと。旋律が流麗に流れていなかったのであります。まさに、素人芸の域を脱していなかった。まるで、学芸会の出し物のよう。
(第九の後でのアンコール演奏の際も佐渡さんはピアニカを吹いていましたが、その時は、旋律がたどたどしく聞こえて、素人芸だとしか思えないといった印象を持たなかったのですが。)
このような曲芸じみたことをやると、大衆からは喜ばれるかもしれませんが、ショスタコーヴィチの10番での真摯な演奏とはあまりに懸け離れていて、心が萎えてしまったのであります。
(もっとも、佐渡さんからすると、ショスタコーヴィチの10番も、≪すみれの花咲く頃≫も、愛してやまない音楽なのであり、それぞれの作品に佐渡さんが見出している魅力を引き出すべく、全力を注いでおられるのでしょうが。だから、これはもう、趣味の問題なのであり、音楽に何を求めているかの違いなのだと言うしかありません。)
アンコールの演奏が終わると、拍手もせずに、そそくさと席を立ったものでした。とても後味の悪い思いをしながら。







