尾高忠明さん&大阪フィルによる定期演奏会(ベートーヴェンの≪ミサ・ソレムニス≫)の第2日目を聴いて

今日は、尾高忠明さん&大阪フィルによる定期演奏会の第2日目を聴いてきました。
演目はベートーヴェンの≪ミサ・ソレムニス≫。独唱陣は、下記の通りでした。
ソプラノ:並河寿美さん
メゾ・ソプラノ:清水華澄さん
テノール:吉田浩之さん
バスバリトン:加藤宏隆さん

尾高さん&大フィルのコンビ、昨年の4月に、ヴェルディの≪レクイエム≫で、雄渾で、かつ、逞しい息遣いをした演奏を繰り広げてくれ、大きな感銘を受けました。それは、純音楽的な「力」を備えていた演奏でもあった。
本日も、その延長線上にある演奏を展開してくれるのではないかと、大いに期待しながら会場に向かったものでした。

それでは、本日の演奏をどのように聴いたのかについて、書いてゆくことに致しましょう。

尾高さんならではの、誠実さの滲み出ていた演奏でありました。暖かみの感じられる演奏でもあった。
しかしながら、総じて、期待外れな演奏でありました。随所に「もどかしさ」を感じる演奏だったとも言いたい。
“グローリア”や“クレド”といった、躍動感のあるナンバーでは、力感があって、輝かしい音楽が奏で上げられていました。それは、ベートーヴェンの音楽が持っている「陽性」な性格がクッキリと描き出されていたと言いたい。悲観的であったり闘争的であったりといったベートーヴェンではなく、オプティミストとしてのベートーヴェン像が、鮮やかに立ち上がっていた。音楽に逞しさや、推進力が備わってもいた。
この2つのナンバーには、大いに満足できました。しかしながら、それ以外の3つのナンバーが、なんとも「ひ弱な」音楽となっていたように感じられたものでした。ベートーヴェンが創り上げた音楽を、支え切れていなかったようにも思えた。
“キリエ”の冒頭からして、腰砕けのような音楽になっていた。この部分に必要と思われる「圧力」のようなものが、全く不足していたように思えた。なよなよとした音楽になっていると思えて仕方がなかった。もっと言えば、意志の弱い音楽になっていたとも思えた。もっと、決然と開始して欲しかった。
なるほど、乱暴な音楽にならないように、という配慮があったのでしょう。しかしながら、あの開始は、あまりに「ひ弱」であったように思えてなりませんでした。繰り返しになりますが、腰砕けな音楽になっていた。それ故に、肩透かしを喰らったような心境に陥ってしまった。
尾高さんは、基本的にはリリシストであると思っています。そこへゆくと、リリシストとしての性格が強く出過ぎてしまっていた“キリエ”だとも言えそう。リリシストであることは結構なのですが、そこに加えて、凛々しくて、決然とした表情が欲しかった。
そのような中で、テノール独唱の吉田さんが、天から光が差し込んでくるかのように"Kyrie"と歌い上げてくれたのが、なんとも素晴らしかった。そこに、救いを感じもした。本日の独唱陣では、吉田さんに最も惹かれたものでした。
なお、尾高さんの音楽に「ひ弱さ」が感じられた原因として、音の頭の切れ味がマイルドで、エッジの効きが弱かったためだとも思えます。この点は、特にオーケストラに対して強く感じられた。合唱に対しても、時おり感じられた。そのために、音楽にクリアさが乏しくなることが多かった。この辺りは、尾高さんの「音楽観」のようなもの、或いは、「音楽に対する美的感覚」のようなものに依るのでしょうが、私には、今一つ踏み込みの乏しい音楽に聞こえてならず、もどかしさが募っていったのでありました。
また、“ベネディクトゥス”におけるコンマスソロも、不満でありました。
崔さんは、昨年の4月の演奏会で、ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番の独奏を見事に弾き切っていて、驚かされたものでした。それはもう、存在感のソロでありました。テクニックもシッカリといたものがあった。そこへゆくと、本日のソロは、音楽を支え切れていなかった、という印象が強い。≪ミサ・ソレムニス≫のソロとなると、ごまかしが効かない、といったところなのでしょうか。
「天上の音楽」と呼べそうな、あのソロに備わって欲しい「天国的な美しさ」や、気高さや、といったものが随分と薄かった。また、音程も不安定だったように思えた。ここの音楽に備わっていて欲しい「流麗さ」も今一つだった。そんなこんなをひっくるめて、「ごまかしの効かない音楽なのだな」と感じたのでありました。
また、木管楽器群が、おしなべて弱かった。普段の大フィルには、このような印象を抱くことがないため、不思議でありました。何か、自信なさげに吹いている、といった感じでもあり、木管楽器群の動きが浮かび上がって欲しい箇所が、そうならないことが多かった。
そのような中で、トロンボーンには感心させられました。合唱をなぞりながら、まさにコラールを奏でる箇所が多いのですが、合唱をシッカリと支えながら、過剰に目立つようなことはないものの、全体に埋没せずに吹いていたように思えたのであります。

基本的には、「優しさ」や「暖かさ」が前面に出ていた演奏だった。また、静と動のコントラストの明瞭な演奏であり、そこに、尾高さんの確かな手腕を感じ取ることもできた。その一方で、随所で踏み込みの浅さのようなものが感じられた演奏でもあった。
尾高さんによる宗教音楽、ヴェルディで感心し、ベートーヴェンでは不満を持ちましたが、ブラームスやフォーレなどでは、どのような演奏を繰り広げてくれるのでしょうか。ちょっと気になるところであります。
(モーツァルトでは、今回のベートーヴェン以上に、不満を持ってしまいそう。)