鈴木秀美さん&神戸市室内管による演奏会を聴いて

昨日(2/11)は、鈴木秀美さん&神戸市室内管の演奏会を聴いてきました。演目は、下記の4曲。
●モーツァルト セレナード第13番 ≪アイネ・クライネ・ナハトムジーク≫
●モーツァルト セレナード第12番 ≪ナハトムジーク≫
●シュニトケ ≪モーツ-アルト・ア・ラ・ハイドン≫
●プロコフィエフ 交響曲第1番 ≪古典≫

モーツァルトを2曲、シュニトケを挟んでプロコフィエフへ、という意欲的なプログラム。「音の謎かけ」というサブタイトルが付けられていました。
シュニトケの作品は、モーツァルトやハイドンの音楽の断片が散りばめられているとのこと。つまり、後半は、「擬古典主義」の作品が並べられていることになります。

鈴木秀美さん&神戸市室内の実演は、昨年の4月に初めて接してからというもの、今回が3回目になります。これまでの2回のいずれもが、興味深い演奏を繰り広げてくれているだけに、この日はどのような演奏に出会うことができるのか、ワクワクしながら会場へ向かいました。
また、プロコフィエフの≪古典≫は、先月、鈴木優人さん&京響による演奏を聴いたばかり。甥と叔父の演奏の比較も、楽しみでありました。

最も強い感銘を受けたのは≪アイネク≫でした。
開演前、鈴木さんによるプレトークがあり、この曲を≪アイネ・クライネ・ナハトムジーク≫と呼ぶことは稀で、もっぱら≪アイネク≫で通っていると仰せ。やはり、鈴木さんの周辺でもそうなのだなと、親近感が湧いてきます。
この、多くの人に親しまれている超有名曲は、思いのほか、演奏会では採り上げられません。鈴木さんも、一度演奏したことはハッキリと覚えているが、果たして、それ以外に演奏した経験があっただろうか、と語っておられました。そのくらい、演奏会に乗せられる機会の少ない作品。私も、実演で聴くのは、初めてかもしれません。
その≪アイネク≫を、鈴木さんはチェロを弾きながら、オーケストラをリードする、というスタイルで演奏したのでありました。
その、鈴木さんがチェロを弾いている姿が、実に素晴らしかった。
現代のバロックチェロの第一人者である鈴木さんの弾きっぷりの、なんと自在感に溢れていたこと。ときに激しく、ときに柔らかく、ときに圧力をかけながら、ときに軽妙に。1st.Vnが3プルトで、チェロは1プルト、という編成で、鈴木さんの音が明瞭に聞こえてきた訳ではないのですが、鈴木さんに引っ張られながら弾いてもう一人のチェリストや、一人だけのコントラバスも含めて、安定感と自在感に満ちた低弦でありました。
また、鈴木さんの、「音楽する喜び」に満ちた表情の、なんと素敵だったこと。特に、第3楽章のトリオ部などは、ここの箇所を弾くのが嬉しくて堪らない、という表情をされていた。自らも≪アイネク≫を弾きたくて堪らなかったのだろうな、と拝察したものでした。
鈴木さんの弾きっぷりに焦点を当てて書いてきましたが、演奏内容はと言えば、音価や、拍節感を大事にした演奏でした。すなわち、目鼻立ちがクッキリしていた。とりわけ、出だしの部分で、その特色を特に目立たせていました。冒頭の4小節で、この演奏の方向性を明示しようとした。そのような意図が感じられました。
指揮者不在ということがマイナス面として感じられたのが、1st.Vnが不揃いになって、聴き辛くなる箇所があり、その点が残念ではあったのですが、全体を通じては、構成感が強くて、かつ、清新で伸びやかで自在感もある、好演だったと思います。
前半の2曲目の、管楽器によるセレナードは、とにかく、曲の素晴らしさに惚れ惚れした次第。この曲は、私自身、学生時代に何度か演奏したことがあり、私にとっては大事な大事な作品になっています。そして、聴くたびに、モーツァルトの音楽が持っている「悪魔的な」魅力に痺れてしまうのであります。どうして、モーツァルトは、こんな音楽を産み出してしまったのでしょう。
今日の演奏を聴いていて、そのようなことがまた、私の頭の中を去来したものでした。
演奏内容は、思い入れの強い作品なだけに、ここはもっと鋭くえぐって欲しいとか、色々と要望を出したくなる箇所もあったのですが、そのようなことを抜きにして、作品の魅力に虜になった25分間でありました。

ホール前の花壇と彫像

続きましては、後半の2曲について。まずは、シュニトケから。
この曲を、以前、鈴木さんは、オランダで演奏したことがあるとのこと。この曲を取り組むことになったとき、この手の作品は苦手なため、最初は乗り気ではなかったそう。しかしながら、演奏してゆくうちに、この作品が面白くなってきて、その体験をもとに、今回、神戸市室内管との演奏会に乗せることにしたと仰られていました。
プログラム冊子には、この作品の解説として、次のように書かれています。
「そこここで聞こえてくるのは、モーツァルトやハイドンの明快な古典派の断片です。その多くはモーツァルトが書いた未完の作品(ヴァイオリン・パートだけが残っています)からとられていますが、中には有名なト短調交響曲の断片もありますし、曲の終わり方(それがどのようなものであるかはここでは詳述しませんが)は明らかにハイドンのアイディアから借りたものです。ただそれらはいずれも断片的で、奇妙な具合に重ね合わされ、音は歪み、軋み、全体として極めて前衛的な響きを作り出します。」
また、鈴木さんによるプレトークでは、曲の始まりでは、音楽家の夢の中に音楽の断片がポツリポツリと現れるような、或いは、演奏家が思い思いにフレーズの断片を拾い上げていくような音楽になっている、といった趣旨のことを語っておられました。そして、今日、ここで演奏することは、全て、スコアに指示された内容であります、とも言っておられました。
演奏は、舞台の照明が消されて、真っ暗な状況で始められました。そして、遠い彼方からかすかな音が聞こえてくるかのように、具体的な像を結ぶことのない、およそ「音楽」と言えそうにない音たちがポツリポツリと聞こえてくる、といった形で開始されたのであります。
次第に舞台が明るくなってくると、弦楽器奏者のみの姿が見えてくる。しかも、チェロ奏者が椅子に座っていることを除けば、全員が起立して演奏をしている。中央に指揮者が立っていて、その両側には、ヴァイオリン独奏の奏者が2人立っている。その背後に、弦楽合奏の役割を担っている奏者たちが陣取っている、といった格好。バロック時の、2つの独奏楽器を伴ったコンチェルト・グロッソ、といった構成が採られているのであります。
起立していた弦楽合奏部隊は、途中、舞台上を歩いて移動して、演奏する位置を変えるという、フォーメーション変更を行っていた。そして、曲が終わる間際になると、照明が暗くなっていき、その中を、チェロとコントラバスを除いた奏者たちが舞台上から立ち去ってゆく。プログラム冊子に書かれていた「曲の終わり方は明らかにハイドンのアイディアから借りたもの」とは、≪告別交響曲≫でのアイディアだった訳です。最終的には、舞台上はほぼ真っ暗になる。しかしながら、指揮者だけにかすかな光が当てられていて、全ての奏者が演奏することをやめても、しばらくの間、指揮棒を振り続けていた。
鈴木さんが、「全てスコアに書かれている通り」と言われていたのは、このような「演出」を指していたのでしょう。
作品の中身はと言いますと、確かに、モーツァルトの交響曲第40番の第1楽章の冒頭部分がほんの少しばかり引用されていましたが、その箇所以外は私にとっては未知な素材ばかりが用いられていました。しかも、デフォルメされているのでしょう(解説には、歪みや軋みといった言葉が使われています)、明るく朗らかな旋律がチラホラと顔を出すものの、モーツァルトによる作品の断片が散りばめられているようには聞こえませんでした。そして、「極めて前衛的な響き」に覆われていた音楽でありました。と言いつつも、聴いていて、不安な気分を掻き立てられたり、神経を逆撫でさせられたり、といった音楽ではなかった。ではあるものの、あまり居心地の良い音楽でもなかった。
正直なところ、私には、シュニトケがこの曲で何が言いたかったのか、よく解りませんでした。音楽による「悪戯」を楽しむ曲。そのような意図から生み出された作品なのでしょうか。
そのようなこともあり、ここでの演奏がどうだったのか、私には述べることができません。一つだけ言えるのは、2人のヴァイオリン独奏がかなりの熱演であった、ということであります。

最後に、プロコフィエフの≪古典≫について。
まず触れたいのは、対向配置が採られていたということ。≪アイネク≫では、対向配置ではなく左から1st.Vn、2nd.Vn、Va、Vcと並んでいた(そのため、鈴木さんがステージに向かって右側の一番手前に座ることになっていた)のですが、≪古典≫では対向配置。
この曲は、1st.Vnと2nd.Vnが音を重ねて弾くシーンは思いのほか少なく、掛け合う箇所がとても多いのですね。ここでの対向配置による演奏によって、そのことが明確に見えてきました。その掛け合いの妙は、プロコフィエフが意図的に施したこと(ちょっとした遊び心、とも言えるかもしれません。そう、プレトークで鈴木さんは、この作品にはプロコフィエフの遊び心がふんだんに盛り込まれていると仰られていました)なのでしょう。その面白さが、手に取るように解った。
演奏内容はと言えば、先月の鈴木優人さんによる演奏が、第1楽章では遅めのテンポで丸みを帯びた音楽づくりを施し、最終楽章で尖鋭で鮮烈な性格を爆発させるようなものになっていたことと比べると、秀美さんの演奏は、第1楽章は速からず遅からずといったテンポを採りながら、キッチリカッチリと演奏していました。但し、全楽章を通じて、疾駆感や、尖鋭さや鮮烈さといったものは、薄かった。対向配置による掛け合いの鮮やかさに気が取られて、それ以外の「演奏の味わい」といったところに思いが及ばなかった。そんなふうな演奏でありました。

アンコールは、ハイドンの交響曲第62番の第2楽章。句読点の明快な演奏ぶりに、鈴木秀美さんの音楽づくりの「核」となるようなものを見ることのできた演奏でありました。

なお、同じ内容で、2/13(月)に紀尾井ホールで「東京特別演奏会」が組まれています。東京公演は2年ぶり、鈴木さんが音楽監督に就任してからは初めての公演になるようです。