鈴木優人さん&関西フィルによるベートーヴェンの第九の特別演奏会を聴いて

今日は、鈴木優人さん&関西フィルによるベートーヴェンの第九の特別演奏会を聴いてきました。
独唱陣は、櫻井愛子さん(ソプラノ)、林眞瑛さん(メゾ・ソプラノ)、宮里直樹さん(テノール)、大西宇宙さん(バス)。合唱団は関西フィルハーモニー合唱団、という布陣でありました。

一昨年より関西フィルの首席客演指揮者を務めている鈴木優人さん。このコンビは、今シーズンからベートーヴェンの没後200年となる2027年までの3年をかけて、大阪の住友生命いずみホールでベートーヴェン・チクルスを進行させています。それは、「ベートーヴェン・ヒストリー」と銘打たれたシリーズで、トータルで9つの演奏会が企画されており、各回、ベートーヴェンの交響曲を1作が組み込まれています。そこに、ピアノ協奏曲(フォルテピアノを使用)などが組み合わされるといった企画。
既に2回目までを終えていて、それらのプログラムは、次の通りとなっています。

【第1回・6/7開催】
≪レオノーレ≫序曲第3番
ピアノ協奏曲第1番(独奏:上原彩子さん)
交響曲第1番

【第2回・10/25開催】
序曲≪コリオラン≫
ピアノ協奏曲第2番(独奏:川口成彦さん)
交響曲第2番

本日の演奏会は、そのシリーズとは切り離されたものではありますが、ベートーヴェンに打ち込んでいるこのコンビが、どのような第九を繰り広げてくれるのだろうかと、興味が尽きませんでした。
なお、本日のプログラム冊子を見ていると、鈴木さん、先月にはパリ管にデビューされたとのこと。ご活躍なのですね。日本人指揮者の世界超一流のオケへの登壇、嬉しくなります。
更には、男声の独唱陣2人が頗る強力な布陣になっているところも、とても楽しみでありました。

それでは、本日の演奏会をどのように聴いたのかについて、書いてゆくことに致します。

本日の演奏会のチラシやプログラム冊子の表紙には「清新な第九」といった謳い文句が掲げられていますが、その通りの第九だったと言えましょう。それがまた、なんとも鈴木優人さんらしいところだったと言いたい。
弦楽器のプルトの数は6-5-4-3.5-3。第九を演るには小ぶりな編成だと思えますが、ベートーヴェンの交響曲を、それに相応しい規模で演奏しようとなれば、ほど良い編成なのではないでしょうか。ベートーヴェンの時代のオケの規模からすれば、これでもかなり大きめだと言えるのかもしれませんが。
なお、弦楽器の並びは対向配置が採られていました。鈴木優人さんをはじめとした古楽器系の指揮者からすれば、当然の措置でありましょう。更に興味深かったのが、独唱陣も弦楽器の配置に合わせて、左からソプラノ、バス、指揮者を挟んで、その右にテノール、メゾ・ソプラノと並べていたこと。このような並びを採っているのを見るのは初めてであります。なお、独唱者が陣取っていたのは、指揮者よりも客席寄りの場所。ステージの際に立っての歌唱でありました。これだと、声がよく客席に届きます。独唱陣が休みの間は、ソプラノとバスはステージの左脇に、テノールとメゾ・ソプラノはステージの右脇に退いて、椅子に座って待機する、といったやり方が採られていました。また、独唱陣のステージへの登場は、それぞれが歌い始める直前でありました。この2点は、独唱陣に優しい対処法だったと言えそう。
補足のような事項を、最初に書き並べました。ここからは、本日の第九をどのように聴いたかについて、本格的に書いていきたいと思います。
第一に言いたいこと、それは、第九だからといって、過剰に祝祭的に奏で上げようとしたり、深遠な思想を織り込もうとしたり、といったことに拘泥していない演奏だったな、ということ。そのために、第九という特殊なレッテルが貼られている作品を聴いているのだという感慨が湧いてくることはなく、ベートーヴェンの9つ目の交響曲に触れているのだ、との思いを抱く演奏になっていました。それは、弦楽器のプルトの数にまつわるところに書いたことと見事に重なります。そんなこんなに、鈴木さんの第九へのスタンスが見て取れるのではないでしょうか。
なお、最終楽章でのトルコマーチに入る直前のフェルマータ(330小節目)を、陶酔したかのように長く延ばすようなことはなかった。また、チェロ・バスが「歓喜の歌」の主題を奏で始める直前の小節(91小節目)では、ゲネルラルパウゼを挟むようなことをせずに、そのまま間髪を入れずに「歓喜の歌」を奏でていった。それらが象徴的であるように、過剰演出を施そうといった姿勢の一切見受けられない演奏ぶりが貫かれていました。よく、「手垢を取り払った演奏ぶり」といった評言を目にしますが、本日の演奏は、まさにそのような言い方に相応しいものだったと言いたい。それはまた、ベートーヴェンが記した楽譜を実直に再現すれば、作品の本来の姿が生き生きと立ち上がってくるのだ、といった信念に基づいた演奏態度が貫かれていたのだ、とも言えるのでしょう。
ちなみに、第2楽章では、全てのリピートを敢行(さすがにダ・カーポした後は、リピートを省略していた)していました。また、第2楽章の276小節目では、第1ヴァイオリンをオクターヴ上に上げるようなことはせずに、楽譜通りに演奏していた。この辺りも、古楽器系の指揮者の定石ではあるのですが、そのような対応が至極当然だと思わせる演奏態度だったとも言いたい。
また、ノンヴィブラートを基本にしていたのも、古楽器系の指揮者ならではのアプローチであります。とりわけ、演奏が開始された直後は、ノンヴィブラートがかなり徹底されていました。そのことがまた、清新であり、手垢を取り払った演奏ぶりへと繋がっていたのであります。とは言うものの、途中からは、コソコソとヴィブラートを掛けてゆく奏者も現れてきたのは、ご愛敬でありましょう。特に、前の方のプルトに座っている奏者に、ヴィブラートを掛ける割合が多かったように見受けられました。それに対して、後ろの方の奏者は律儀にノンヴィブラートを守っている、といった傾向が見られたのは、奏者としての主張性の強弱によっていたのでありましょうか。
ところで、これは蛇足になりますが、第3楽章の真ん中辺りに現れるホルンのソロ(83小節目から97小節目)は、楽譜では4番ホルンが吹くことになっているところを、1番ホルンが吹いていました。これは、珍しく楽譜に従わなかった例であります。なお、最大の難所の96小節目は、危なげなく滑らかに吹きこなしていました。終演後、鈴木さんが個別に団員を立たせる際には、最初に1番ホルンを立たせていたのも、当然だと言えましょう。
また、第1楽章の展開部で、頻繁に現れる付点のリズム(例えば、188小節目から191小節目)を、音を短く切りながら、音楽に軽妙さを与えるように奏で上げていたのが、頗る印象的でありました。これは、一つの例になりますが、このようなことが積み重ねられての「清新な第九」だったのだ、とも言いたい。スッキリとしていて、爽快感を伴う第九でもあったのであります。
そのうえで、単に爽快で清々しかっただけでなく、生命力にも不足はなかった。最後の箇所では、かなり強烈にアッチェレランドを掛けていって、思い切った昂揚感を築き上げてもいた。
もっと言えば、この最後の箇所に限らず、全編を通じて、暑苦しくならない範囲で十分に熱の籠っている演奏が繰り広げられていたと言いたい。音楽が豊かに息づいてもいた。テンポは、聴いていての印象とすれば、速からず、遅からず、といったところでしょうか。とは言うものの、ハッキリと演奏時間を計測していた訳ではありませんが、65分ほどを要しての演奏だったようです。第2楽章のリピートを全て敢行したうえでのこの演奏時間ということは、速めのテンポが採られていた言ったほうが良いかもしれません。そのこともあって、音楽は一切弛緩することがなかった。全体的に、キビキビと進められていたと言えましょう。それでいて、サラサラと流れてゆくといったことはなかった。音楽が豊かに息づいていた、と書きましたのも、それ故なのであります。
しかも、ここというところでは、大袈裟にならない範囲で見得を切ることもあった。例えば、第1楽章の提示部がもう終わろうとしているところ、149小節目から150小節目に跨ぐ箇所では、タメを作って音楽を奏でていた。そのような措置が採られてゆくことによって、音楽に程よいコクが生まれることになってもいた。更には、音楽の呼吸に、生身の暖かさのようなものが加えられることとなっていた。その辺りの、匙加減と言いましょうか、判断に対して、音楽センスの高さが感じられたのであります。
そんなこんなによって、手垢にまみれていなくて、しかも、ピュアで清々しくて端正でありつつも、生気に溢れていて必要十分に熱気の籠っていて、なおかつ、コクの深さも湛えている第九が鳴り響いていたのでありました。
そのような鈴木さんの音楽づくりに対して、独唱陣もまた、献身的な歌いぶりだったと言いたい。真摯にして、頼もしさを備えた歌唱が繰り広げられていたのであります。そして、事前に期待を抱いていた通りだった言いましょうか、男声陣の2人に、特に魅了されたものでした。
大西さんによる歌い出しは、実に高らかとしたものになっていました。威厳が十分であり、かつ、朗々としていた。大西さんは丁度40歳を迎えていますが、日本人の中堅のバス歌手としては、一頭頭を抜いた存在だと言えるのでしょうし、そのことを如実に感じ取ることのできる歌唱となっていました。なお、歌い出しの部分では、ほんの僅かに「遊び心」を見せていて装飾音が添えられていましたが、以後は、そのような処理を施すことはなかったのは、私にとっては幸いでありました。また、“sondern”を「ゾンデルン」ではなく「ソンデルン」と発音していたのは、ウィーン風を意識してのことだったのでしょうか。
そんな大西さんに対して、宮里さんは、凛とした美しさを湛えた歌唱を披露してくれていました。とりわけ、テノールの最大の聴かせどころでありますトルコマーチでは、颯爽としていて、しなやかで、かつ、リリックでもある歌が繰り広げられていて、大いに魅了されたものでした。
また、関西フィルの、明るめで艶やかな響きもまた、本日の演奏を魅力あるものにしてくれていました。演奏から「生身の暖かさ」が感じられたのは、鈴木さんの音楽づくりに依るところが大きかったのは確かでありますが、関西フィルの体質にも依っていたのだと言いたい。

縷々書いてきましたが、とても魅力的な第九でありました。
決して重量級な第九ではありませんでした。それでいて、軽量級であったり、中量級であったり、といった言い方も相応しくはないでしょう。
鈴木さんの体質が、いや、ここは「美質が」と書いたほうが適切でしょう。鈴木さんの美質が色濃く反映された、ユニークな魅力を湛えた第九に触れることのできた演奏会でありました。