カーチュン・ウォン&兵庫芸術文化センター管による定期演奏会(マーラーの≪悲劇的≫)の第2日目を聴いて

今日は、カーチュン・ウォンが指揮する兵庫芸術文化センター管(通称:PACオケ)の定期演奏会の第2日目を聴いてきました。
マーラーの交響曲第6番≪悲劇的≫の1曲プロ。

ウォンの演奏を聴くのは、これが3回目になります。前の2回は共にPACオケを指揮したもので、一昨年にはバルトークのオケコンをメインに据えたプログラムを、昨年はマーラーの交響曲第5番をメインに据えたプログラムを聴いたのでした。
いずれの演奏会でも、機敏で克明な演奏ぶりに、惚れ惚れとしたものでした。ウォンの音楽センスの高さ、音楽を立体的かつ起伏を付けて奏で上げる能力の高さ、更には、オケを纏め上げる手腕の高さに、唖然とさせられもしたものでした。
本日の≪悲劇的≫でも、きっと、私を魅了してくれるのであろうと、期待に胸を膨らませながら会場に向かったものでした。

ちなみに、次の写真は、西宮に向かうために京都の渡月橋を通った際に撮影したもの。まだまだ僅かではありましたが、紅葉が始まっていました。

そして、兵庫県立芸術文化センターの前の木々も、ほんのりと赤くなっていました。ということで、今日はホール前の花壇ではなく、木々を取り込んでの写真撮影であります。

それでは、本日の演奏をどのように聴いたのかについて書くことに致しましょう。
実に、実に、素晴らしい演奏でありました。2024-25年シーズンのPACオケの演奏会の中で、今月の定期演奏会に最も大きな期待を寄せていたのですが、期待を上回る素晴らしさだった。

出だしからウォンは、一つ一つの音を深く打ち込むようにして、丹念に、かつ、気魄の籠もった音楽を鳴らしてくれた。強い意志に裏打ちされながら、音楽を奏で上げてゆく。それはまさに、作品の生命力をジックリと抉り出してゆく、といったものでありました。そして、そのような姿勢は、全曲を通じて変わることはありませんでした。
そのようなこともあって、この作品の実像がクッキリと浮き上がってくるような演奏だった。
なるほど、この作品に相応しく、闘争心の強い演奏だったとも言えましょう。力感に溢れた演奏でありました。しかしながら、決して音楽を力づくでねじ伏せようとはしない。全編を通じて、頗る率直で、純真な音楽が奏で上げられていた。それ故に、とても音楽的であり、かつ、息遣いの豊かな演奏となっていた。そんなふうに言いたい。

ここで3点ほど、ウォンが採った個性的な措置について触れてみたい。
1点目は、中間の2つの楽章をアンダンテ⇒スケルツォの順で演奏していたこと。この措置については、近年、よく採られていますが、ウォンは、マーラーの最初の構想を選択した、ということになります。
2点目は、弦楽器を対向配置にしていたこと。マーラーでは珍しいと言えそうですが、昨年の第5番でも対向配置を採っていました。ウォンの、常套的な措置でもあるのでしょう。そして、本日の≪悲劇的≫では、この対向配置の効果が良く現れていたと思えたものでした。すなわち、2nd.Vnの動きが引き立つ箇所が至るところで窺えたのであります。
そしてこれが3点目になるのですが、何より驚いたのは、第1楽章の主題提示部をリピートしたこと。マーラーの交響曲の主題提示部にリピート記号があるのは、第1番の第1楽章と、この曲の第1楽章のみでありましょう。第1番でのリピートにはしばしば出会うことがありますが、≪悲劇的≫でのリピートは非常に珍しいことだと言えましょう。ここに、ウォンの、作品への真摯な姿勢が透けて見えたように思えたものでした。しかも、リピートを行ったことによって、マーラーの作品に古典的な様式美が加えられたように感じられた。更に言えば、主題の提示が頗る堅固なものになった。ウォンは、楽譜にリピートが書かれているのだからリピートをするのは当たり前、といった考えを持っているのかもしれませんが。
そう、本日の演奏を聴いていて強く感じられたこと、それは、ウォンの演奏からは、楽譜に忠実にありたいといった心情に溢れていた、ということでありました。
更に言えば、個性的な動き、或いは、作品を奏で上げるに当たって目立たせるべき動きを、思いっ切り強調していたことにも、目を瞠るものがあった。それは特に、ヴィオラパートにおいて顕著でありました。また、2nd.Vnに対しても然り。対向配置が採られていたことが、その効果を引き立ててくれていたようにも思えたものでした。単発的なピチカートなどが強調されることもしばしばで、そのたびに音楽にアクセントが与えられていた。この辺りもまた、楽譜をジックリと読んでいった結果だったのだと言えましょう。

そんなこんなのうえで、音楽の流れが頗る自然で、かつ、豊かでありました。
音楽を伸縮させてゆくのはマーラー演奏においては必要不可欠だと言えましょうが、その様が、実に音楽的で、呼吸感の豊かなものだったのです。煽るべきところシッカリと煽り、情感豊かに歌い上げるべき箇所では音楽をジックリと奏で上げる。しかも、それらの表情が取ってつけたところが全くなく、徹頭徹尾、作品の息遣いに沿ったものとなっていた。適度に粘るのですが、わざとらしく感じられたり、嫌味になったり、食傷気味になったり、といったことが全くなかった。
その先に至った心情、それは、「素晴らしいマーラー演奏だ」という思いを突き抜けて、「今まさに、素晴らしい音楽に接しているのだ」というものでありました。
自分を表現するための手段として作品を採り上げる、といったスタンスを取る演奏家が存在するように思いますが、私は、そのようなスタンスには異を唱えたい。
演奏家は、作品に奉仕をしながら、作品の素晴らしさを開陳し、聴き手に作品を届ける。聴き手は、それによって、作品の魅力を認識する。その先に沸き上がってくるのが、そういった演奏を繰り広げてくれた演奏家を讃美する気持ち。このような容態が、健全な姿なのだと考えるのであります。
本日のウォンによる演奏は、まさにそのようなものとなっていたと言いたい。更に言えば、作品がウォンの素晴らしさを引き立ててくれていたとも思えた。ごく稀に、このような思いに至る演奏に巡り会うことがありますが、今日は、その稀有な体験をした。そんな思いを胸に抱いたものでした。

ウォンは、楽譜に忠実であろうと心掛けていて、かつ、個性的な動きを引き立てようと配慮していたと書きましたが、その具体例を、2点挙げることにしましょう。
第1楽章では、練習番号②の3小節目と5小節目の2nd.Vnをかなり強調していた。この点には、リピートした後に気が付きました。何ていうことのない単純な動きなのですが、この音がハッキリと聞こえたことによって、音楽が深く抉られたように思えたものでした。
また、主題提示部が終わろうとしている箇所の、練習番号⑧に入る4小節前でリタルダンドが掛かり、練習番号⑧でア・テンポになるのですが、テンポを元に戻したというよりも音楽の歩みをやや速めていた。ここにはSchwungvoll(生き生きと、躍動的に)との併記も為されています。この箇所に限らず、本日の演奏には音楽の呼吸に説得力や安心感があったのも、このような配慮がベースにあったからなのでありましょう。

縷々書いてきましたが、深い感銘を受けた演奏でありました。そして、ウォンの音楽に対する誠実さや、音楽性の豊かさや、といったものを随所で感じ取ることのできる演奏でありました。
ウォンは2016年に開催された第5回グスタフ・マーラー国際指揮者コンコールの優勝者(2004年の第1回目の優勝者はドゥダメルで、第4回はシャニが優勝者だとのこと)であり、マーラーを得意にしているようですが、≪悲劇的≫を指揮するのは、今回が初めてだったそうです。それにしては、作品をシッカリと掌中に収めた演奏だったと思えます。この辺りにも、ウォンの音楽性の豊かさが滲み出ていると言えましょう。
ウォンは2023年シーズンから日本フィルの首席指揮者にも就任していて、日本での演奏活動に力を注いでくれるようです。
日本の多くの音楽愛好家に対して、大きな感銘を与えてくれる演奏を頻繁に届けてくれる指揮者となるのではないだろうか。そんなふうに思えてなりません。

なお、本日のホルンのトップは、10月の定期演奏会と同じく宇奈根さんという女性奏者が務めていました。
10月と同様に、惚れ惚れするほどに上手かった。音が柔らかさにウットリもした。
バリバリと吹くようなことは皆無なのですが、音がよく通る。腰の据わっていて、なおかつ、拡がりのある音でもあった。ソロは、頗るまろやかに、そして、滑らかに吹いてゆく。そして、何気ない音が、フッと立ち上がってくる。「私、上手いでしょ」といった素振りが全く感じられないのがまた、とても好ましい。
このような演奏者、大好きであります。毎回、彼女がトップを務めるという訳ではないはずですが、今後も彼女の演奏に立ち会うことができることが、なんとも楽しみであります。

最期に、終演後に撮影した写真を添付することに致します。
舞台左奥に鎮座しているのがハンマーを叩くための台。