ハイティンク&コンセルトヘボウ管によるブラームスの交響曲第2番を聴いて
ハイティンク&コンセルトヘボウ管によるブラームスの交響曲第2番(1973年録音)を聴いてみました。
ハイティンク(1929-2021)はブラームスの交響曲全集を3つ完成させていますが、これは最初の全集となった中の1枚になります。個人的には、この後のボストン響、ロンドン響との全集よりも、1970年代のコンセルトヘボウ管のものを最も好んでいます。
と言いますか、ここでのブラームスに限らず、1970年代から80年代前半頃までのハイティンクを、私は頗る愛しています。ケレン味が微塵もなく、真摯に作品にぶつかっていって、充実感たっぷりな音楽を繰り広げてゆく。しかも、作品が本来持っているエネルギーを、過不足なく放射させてゆく。そのような演奏ぶりに、大いに惹かれるのであります。
ここでのブラームスの2番もまた、それらのことがそのまま当てはまりましょう。いやはや、なんとも素晴らしい演奏となっています。
いや、そのような表現では、不十分かもしれません。この作品が持っている性格と相まって、この時期のハイティンクによる演奏の中でも、最上級と言えるような演奏になっている。そんなふうに言いたくなります。
と言いますのも、この作品が持っている晴れやかで明朗な性格や、律動感に溢れた音楽世界を、シッカリと描き上げてくれているのであります。それも、とても伸びやか、かつ、生き生きと。その描き上げぶりたるや、爽快であり、もっと言えば、痛快でもあります。音楽が活力に溢れています。
しかも、決して大袈裟にならない範囲で、「大交響曲」然とした、骨格の逞しさを表してくれている。そのうえで、たっぷりと響き渡る音たちは、充実を極めている。押しつけがましさは微塵も感じられない演奏ぶりの中から、逞しい音楽が隆起してきいている。そんなふうにも言えるように思えます。最終楽章では、均衡感のある音楽づくりの中で、見事な昂揚感が築き上げられています。
中庸の美。ハイティンクの演奏に対して、そのような表現がよく見受けられます。確かに、そのような表現を取りたくなるような演奏かもしれません。一般的な言葉として想起される「刺激」には遠いと言えましょう。しかしながら、ここには、「知的な刺激」と呼べそうなものが詰まっています。更に言えば、「中庸の美」を遥かに突き抜けた充実感が、ここにはあります。ブラームスが書いた音楽が十二分に「現実の音として」鳴り切っている、という充実感が。
作品を、丹念に、そして、生命力豊かに描き切っている演奏。そこには、「何も足さない、何も引かない」、といったスタンスが貫かれているとも言えそう。
そのようなハイティンクの演奏ぶりとともに、コンセルトヘボウ管の、マイルドかつ芯のシッカリとした芳醇な響きが堪能できるのも、この演奏の大きな魅力であります。
隅々まで充実し切っている演奏。堅実でいながら、覇気が漲り、充分に情熱的で、感興の昂りも凄まじい。オーケストラの響きも頗る魅惑的。
聴き応え十分の、惚れ惚れするほどに素晴らしい演奏であります。