プラッソン&トゥールーズ・カピトール管によるオネゲルの≪典礼風≫と≪パシフィック2・3・1≫を聴いて

プラッソン&トゥールーズ・カピトール管によるオネゲルの≪典礼風≫と≪パシフィック2・3・1≫(1977年録音)を聴いてみました。

「この作品において私は、近年私たちを脅かしている残虐愚劣な行為や苦難、機械化と官僚主義の風潮に対する現代人の反動を象徴しようとした。私は現代人が取り巻いている目に見えぬ力と服従と、幸福、愛、平和を求める本能との相克を音楽に描写した。この交響曲は言うならば、3人の役者―苦難と幸福と人間―の間で演じられるドラマなのだ。これは永遠のテーマであり、私はそれを現代に表現しようとした・・・・」
上記は、手持ちのLPの解説文の中で紹介されている、オネゲル自身が≪典礼風≫について語った言葉になります。この作品が作曲されたのは1946年のこと。

プラッソンによる≪典礼風≫は、なるほど、ある種の凶暴さや残虐さが感じられます。それは、オネゲルの多くの作品に共通した特徴だと言えそう。それでいて、ここでの演奏からは、それを乗り越えたところに現れてくる優しさが感じられもする。
こういった印象は、作曲者自身がこの作品について語った言葉と符合するように思われます。
しかも、フランス的な芳しさを添えられた演奏となっている。であるが故に、身につまされるような緊迫感があるものの、絶望的な重苦しさは薄い。
この演奏のベースにあるもの、それは、芯のシッカリとした、逞しい音楽づくりだと言えましょう。生命力に満ち、精悍な音楽が奏で上げられています。それでいて、決して荒々しくない。むしろ、エレガントである。色彩感に溢れてもいる。艶やかな光沢が感じられる。そして、響きは美しく磨き上げられている。
快演であり、かつ、美演。そのような表現がピッタリであります。

≪パシフィック≫のほうでの演奏は、精密さの中から生まれてくるダイナミズムを追究するというよりも、風景画的な色合いが強調されているように思われます。それ故にと言いましょうか、決して聴き手を煽り立てるような演奏にはなっていない。
そのうえで、明晰にして、端正な音楽が鳴り響くこととなっています。しかも、この作品の生命線とも言えそうな律動感も必要十分に備わっている。

この2曲での演奏を聴いて、「なるほど、これがフランス人指揮者とオケによるオネゲルなのだなぁ」、と感じ入った次第。
(もちろん、一言で「フランス人」と言いましても、色々な形でのアプローチがあるはずなのですが。)
そのようなことを思わせる演奏でありました。