川瀬賢太郎さん&兵庫芸術文化センター管による演奏会(ソリストにはドール)の最終日を聴いて
今日は、川瀬賢太郎さん&兵庫芸術文化センター管(通称:PACオケ)による演奏会の最終日を聴いてきました。演目は、下記の3曲。
●細川俊夫 ホルン協奏曲≪開花の時≫(独奏:ドール)
●モーツァルト ホルン協奏曲第3番(独奏:ドール)
●シベリウス 交響曲第5番
川瀬さんによる実演に接するのは、これが4回目になるはずです。
最も近いのが2023年の3月に日本センチュリー響を指揮した演奏会になりますので、ちょうど2年ぶりの実演ということになります。PACオケとの共演は、2021年10月に聴いて以来ですので、3年半ぶりになります。なお、川瀬さんがPACオケの定期演奏会を指揮するのも、この2回きりとのこと。
その3年半前の演奏会でも、前半はドールをソリストに迎えての、細川俊夫とモーツァルトのホルン協奏曲がプログラミングされていました。しかしながら、新型コロナによる入国制限のために来日が叶わなくなり、代わりに清水和音さんによるラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を前プロに持ってきたのでありました。このときのメインはラフマニノフの交響曲第2番だったため、「2つのラフ2」によるプログラムになったのでした。
ということで、3年半の歳月を経てようやく実現した、ドールとの共演ということになります。なお、ドールは、今年60歳を迎える、ベルリン・フィルの首席ホルン奏者。
本日の演奏会の注目ポイントの一つ目は、そのドールのソロがどのようであるか、というところでした。現代きってのホルンの名手の一人でありますだけに、その妙技を堪能することができるであろうと、とても楽しみでありました。
また、川瀬さんは、音楽性が豊かで、表現意欲が強い、という印象を持っています。しかも、音楽への反応が機敏で、表情豊か。そのうえで、エッジの効いた演奏ぶりを示してくれる。
そのような川瀬さんが、ドールをどのようにバックアップするのか、更には、メインのシベリウスでどのような演奏を展開してくれるのか。こちらもまた、とても楽しみでありました。
それでは、本日の演奏会をどのように聴いたのかについて、書いてゆくことに致します。
まずは、前半の2曲から。
1曲目の≪開花の時≫は、ドールに献呈され、ドールによって初演された作品だそうです。世界初演は、ドールの独奏と、ラトル&ベルリン・フィルによって、2011年2月10日にベルリンで為されたようです。日本初演は、同年の11月に、同じ顔ぶれによって東京で行われたとのこと。
本日のプログラム冊子に、作曲者自身の説明から自由に引用された文章が掲載されていましたので、そちらをここに書かせて頂きたいと思います。
「長く静かに続く音は池の水の表面。そこから、蓮の花がうごめきはじめ、開花を目指して胎動を開始する。それを取り巻く自然との対話。開花への憧れはやがて自然と衝突し、嵐が起こる。そしてその嵐も静まり、池は深い静けさを取り戻し、蓮は静かに開花の時を迎えてゆく。」
以上の説明から、この曲のおおよその曲調や、作曲者がこの曲に託した思いや、どのような世界を描こうとしたのか、といったことが想像できようかと思います。
なお、演奏時間は17分ほど。全体は切れ目なく演奏されます。
2管編成が採られていますが、ピッコロやアルト・フルートの持ち替え、コール・アングレの持ち替え、バス・クラリネットの持ち替えなども含まれたものとなっています。そして、3本のトロンボーンと、テューバが加えられている。更には、打楽器奏者としては3人が並んでいましたが、ボンゴやマリンバが用いられていたり、風鈴も加えられていたりと、かなり特徴的な打楽器が採用されていました。特に、風鈴が印象的だった。更には、ハープやチェレスタも加わるという、多彩な編成。しかも、客席には金管奏者が4人(ホルン2,トランペット1,トロンボーン1)が配置され、会場を包み込もうとするような効果が意図されてもいた。
なお、弦楽器のプルト数は数えていませんが、メインのシベリウスが7-6-5-4-3となっていたために、≪開花の時≫も同じ数だったかもしれません。いずれしましても、弦楽器奏者がビッシリと並んでいた、といった印象を受けました。
そのような、大編成による、彩り豊かで、かなり豊饒なオーケストラを相手に、ホルンによる独奏が展開されてゆくのであります。しかも、協奏曲と銘打たれていつつも、ホルンが華やかに活躍するというよりも、周りの情景に色彩を添えてゆく、といった役割を担っていると言えそうな作品だったのであります。それは時に静謐として、時に神妙に、時に周囲を昂らせながら、時に壮絶に、といったような形で、独奏ホルンが挟まれてゆく。
ちなみに、プログラム冊子に掲載されている解説(東条碩夫氏が執筆)では、ホルンが蓮の花を、オーケストラはその周りを取り巻く自然を表していて、その交錯が表現されている作品だと書かれています。
さて、そのような作品でありますが、あまり焦点のハッキリとした音楽になっていなかったのでは、という印象を持ちました。それは、独奏ホルンにスポットが当たっていた音楽だとは思えなかったことに依るところが大きいと言えそう。
なるほど、多彩な音楽が鳴り響いていて、風鈴の使い方に顕著であったように日本の伝統的な美意識がベースになっていたように思えました。静謐な世界観と、混沌としていて騒然とした世界観との対立(或いはコントラスト)、といったものも窺えました。そのような、独自の視点や世界観に基づいた音楽だったと言えるかもしれません。しかしながら、私にはピントの定まっていない音楽に聞こえたのであります。もっと言えば、何が言いたいのかが、よく解らなかった。蓮の花が開花する(或いは、その準備を整えてゆく)、といった情景を思い浮かべることもできなかった。
そして何よりも、ホルンを独奏楽器として設定する必然性が感じられなかった。と言いましょうか、ホルンを独奏楽器に据えたことが大きな成果を収めていたとは思えなかった(多少なりの効果を生んでいたようには感じられたのですが)。更に言うと、最後の場面では、独奏ホルンに何がしかの動きが現れるのだろうと期待しながら聴いていたのですが、オーケストラのみによって作品が閉じられたことにも、肩透かしを喰らったという思いを抱いたものでした。
そのような音楽だと受けとめざるを得なかったこともありまして、ドールの独奏の妙味を堪能するといったことには至りませんでした。なるほど、時にハッとさせられるようなふくよかな音がすることもありました(曲が始まって三分の一くらい進んだところだったでしょうか、突如としてふくよかな音が鳴り響いて、身震いしました)。しかしながら、オーケストラが強奏する箇所では、ベルリン・フィルの首席を務めている(ということは、かなりパワフルな奏者だと看做すことができるでしょう)ドールですら、音が掻き消されそうになってもいた。
初めて聴いた作品だったということもあって、この先、どのように展開されてゆくのだろう、どこにどのような聴きどころが潜んでいるのだろう、どのような味わいを見せてくれることになるのだろう、と、興味深く聴くことはできたのですが、あまり感銘を受けることのない音楽であり、演奏だった、というのが正直なところでありました。
≪開花の時≫で出鼻をくじかれた、といった感じになってしまいましたが、続くモーツァルトでは、ドールの妙技と、川瀬さんの音楽づくりの素晴らしさとを堪能することができました。更に言えば、作品の魅力を存分に味わうことができた。そのようなことが相まって、至福の時を過ごすことができたのでありました。
弦楽器のプルト数を4-3-2-2-1とスリムに刈り込んでの演奏。そのこともあって、キュッと引き締まった演奏ぶりとなっていました。それは、川瀬さんの音楽上の志向にも適していたようにも思えた。実に溌剌としていて、かつ、晴朗な音楽が鳴り響いていたのであります。
しかも、川瀬さんの反応が頗る機敏であり、かつ、当意即妙だったと言えそう。例えば、
ホルン独奏が入る前のオケのみによる提示部で、2nd.Vnが特徴的な動きをする箇所(それは、16小節目からの動きだったでしょうか。帰宅してスコアを見ても、どこだったかハッキリと特定できません。そのくらいに、見過ごしてしまいそうな箇所でありました)なども、クッキリと浮かび上がらせていて、川瀬さんのセンスの良さが滲み出ていたように思えました。
また、2005年から08年までPACオケに在籍していたOBで、現在はミュンヘン・フィルの首席クラリネット奏者を務めているクティが前半の2曲では1番クラリネットを吹いていた(メインのシベリウスでは2番を吹いていました)のですが、そのふくよかな音の、なんと素敵だったことでしょう。この曲のクラリネットは、Es-durの魅力満載で、私自身が吹いていても幸福感に包まれてくるのですが、その至福のクラリネットパートを、見事に吹いてくれていて、聴いていて幸せいっぱいになった。クティは、2022年の5月のPACオケの定期演奏会では、コープランドのクラリネット協奏曲で見事なソロを披露してくれたクラリネット奏者。なんとも贅沢な組合せでありました。しかも、ホルンの響きと親和性の高いクラリネットに、クティを得たことは、なんとも幸せなことだったと思えてなりませんでした。
なお、本日のコントラバスのトップは、元のベルリン・フィルの奏者が務めていました。モーツァルトではコントラバスが2名しか舞台に乗っていなくて、そのうちの1人が元ベルリン・フィル。これまた、贅沢なことでありました。
ここからは、肝心のと言いましょうか、ドールのソロについてであります。
なんとも自在感に富んだ演奏ぶりでありました。特に、弱音での音の伸びやかさには、惚れ惚れするものがあった。クッキリとした輪郭をしていて、当然のことながら音が痩せるようなことは決してない。しかもまろやか。とは言いつつも、ウィーンのホルンのような柔らかさを前面に押し出すと言ったスタイルではなく、音に芯がある、といった感じ(これは決して、ウィーンのホルンには音に芯が無いと言っている訳ではなく、あくまでも比較の問題であります)。そして、強音では、決して威圧的ではないものの、力強さが備わっている。そんなこんなが、実に滑らかに実現されてゆく。
これらの特徴は、ベルリン・フィルというオーケストラの体質と共通したものあると言えましょう。そう、ベルリン・フィルの首席ホルン奏者が今、目の前に立っているのだということを、つくづく実感できる演奏ぶりだったのであります。
そのうえで、軽妙にして、流麗に演奏が展開されていた。時に、ウィットが滲み出てもいた。それは、最終楽章でゲシュトップ奏法を2ヶ所で組み入れていたことにも現れていたと言えましょう。
そして、Es-durで書かれた音楽に特有の、優美にして典雅で、華やかさを兼ね備えている、といった音楽世界も、クッキリと描き出されていた。
川瀬さんの卓越した音楽づくりと、クティによる見事なクラリネットも相まって、この作品の魅力を思う存分に楽しむことのできた演奏でありました。聴いている間じゅう、何とも言えない幸福感に包まれていました。
本日の演奏会、このモーツァルトだけで、チケット代金の元を取ることができた。そんな心境でもありました。いや、とても廉価なチケット代だっただけに、このような金額で、このような見事な演奏に触れることができたということに、恐縮させられたといったところでありました。
(PACオケの演奏会は、いつも同じグレードの席で聴いているのですが、全ての演奏会で、このような心境になるという訳ではありません。)
なお、ソリストによるアンコールはありませんでした。2曲の協奏曲を演奏した訳ですので、それもむべなるかな、といったところでありましょう。
それでは、ここからは、メインのシベリウスについてであります。かなりの好演だったと思います。
但し、聴衆のフライング気味のブラヴォーが、その余韻を台無しにしてしまった。確かに、最後の音は鳴り終わっていました。しかしながら、この、もう終わりそうだな、もう終わりそうだな、と思わせつつも、次のトゥッティが鳴り響いていき、最後に2つの音が打ち鳴らされて唐突に終わるという、いつ終わるか分からない中で終わりを告げるという構造した作品に対して(この辺りの構造については、プログラム冊子に掲載されていた川瀬さんのインタビュー記事の中でも触れられていました)、「俺、ここで終わったっていうこと、知ってるんだもんね」と誇示せんばかりにブラヴォーが叫ばれたのであります。コンマスの豊嶋さん、私の見間違いでなければ、かなり憮然とされていたようでした。トップサイドの奏者に向かっても、不満を漏らしていたように見えました。豊嶋さんが、そのような態度を採ったであろうこと、大いに理解ができます。
久しぶり不愉快な思いを抱くことになったブラヴォーでありました。そのこともあって、聴後の満足感は減退し、暗澹たる気持ちになったものでした。
と、まずはお小言から始めた形になってしまいましたが、演奏はと言いますと、聴き応え十分なものでありました。特に、第1楽章が。その音楽づくりは、設計の妙に溢れたものだったと言いたい。
この楽章は、かなりゆっくりとしたテンポで開始されます。冒頭部分は、夜明けを描写しているようでもあります。開始して数分が経った辺りで夜が明けて光が差してくると、周囲の生命が目覚めてきて、音楽が胎動してゆく。弦楽器によるさざ波が、はっきりとした形で示されるようにもなる。音楽は明らかに躍動感を帯びてきて、朗らかな雰囲気に包まれてくるのであります。しかしながら、テンポが速くなることはない。あくまでも冒頭でのテンポが維持されている。
ここの部分のテンポに関して、注意を払ったことはありませんでした。いや、てっきり、楽譜上でのテンポは、速められているものだと思っていました。
帰宅して、スコアで確認してみました。上で述べた箇所では、テンポを速めるように指定されていませんでした。とは言うものの、多くの演奏では、ここで心持ちテンポを上げていて、弾むような音楽に勢いを持たせているのではないでしょうか。しかしながら、川瀬さんは、インテンポで進めていった。そのことによって、悠然とした音楽が継続されていた。それでいて、躍動感を帯びた音楽が鳴り響いてもいた。何だか、魔法にかけられているような感覚に襲われたものでした。
この辺りまでの川瀬さんの棒は、終始、大きな弧を描きながら、規則正しく、しかも滑らかに動いてゆく、といったふうでありました。どこと言って、個性を露わにしようといった素振りが見られない。音楽の流れを、客観的に司ってゆこう、といった思いが汲み取れるようでもあった。それでいて、鳴り響いている音楽は、逞しい生命力を宿していて、表情豊かなものだった。ただただ、シベリウスが書き記した音楽が、豊かに鳴り響いていた。そんなふうに言いたくなる演奏ぶりでありました。
しばらくインテンポで音楽は進められてゆくのですが、第1楽章の三分の二くらいを過ぎたところで、音楽が更に弾力性を帯びてきて、それに伴ってアッチェレランドが掛かってゆく。そう、ようやくアッチェレランドが掛ってくるのであります。
ちなみに、スコアを見ていますと、アッチェレランドの指示が入る少し前には、なんと、Largamente(ゆったりと遅く)と記された箇所も見出すことができました。これには、かなり驚かされました。
さて、そのアッチェレランドの、なんと絶妙なことだったでしょうか。ほんの僅かずつ、テンポが上げられてゆく。それに伴って、音楽に新たな命が吹き込まれて行って、音楽がドンドンと軽妙なものになってゆく。とは言いましても、決して軽佻なものではありません。喜びに溢れて、ウキウキとした気分に包まれて行って、小躍りするような音楽が奏で上げられてゆくのであります。しかも、アッチェレランドは、なかなか止まらない。最後には、乱舞するようにして、この楽章は閉じられる。
楽譜を見ますと、Prestoを経て、終いにはPiu Presto(めっちゃPresto、といった意味合いになります)まで至っていた。その鼓動が見事に描き出されていた演奏だったと言いたい。
しかも、川瀬によるアッチェレランドは、オケを煽ってゆく、といったものではなかったように思えました。何と言いましょうか、まるで騎手のように、ただただ鞭を入れ続けていた、といった感じ。川瀬さんの中では、感情が激してきてはいたのかもしれませんが、それを露わにせずに、淡々とテンポを速め続けていった、といった感じ。それだけに、余計に音楽に凄みが加わっていった、と言いたい。
こんなふうに書いてきて、ふと思ったのですが、ムラヴィンスキーによる演奏が、まさにこのような体裁をしたものだと言えるのではないでしょうか。ムラヴィンスキーが奏でる音楽と、川瀬さんが奏でる音楽は、その手触りや、シリアスさや、などなど、様々な点に於いて、かなり異なった様相を呈していると言えましょう。しかしながら、音楽に相対する姿勢に於いては、ひょっとすると近いものがあるのかもしれません。
とにもかくにも、第1楽章での演奏は、川瀬さんのテンポ設定と、この楽章を設計する技の巧みさに、強い感銘を受けたものでした。
その第1楽章が、あまりに素晴らしかっただけに、続く2つの楽章は、ちょっと見劣りしてしまったように感じられました。特に、第2楽章が。ただ、第2楽章では、コンマスの豊嶋さんの貢献によるのでしょうか、ヴァイオリン群の音色が頗る美しかったと思えました。先月の、アルミンク指揮によるブルックナーの7番に匹敵するような美しさだったと言いたい。
なお、先にも書きましたが、シベリウスでの弦楽器のプルト数は7-6-5-4-3でした。かなり大きめの編成だったと言えそうですが、響きがダブつくようなことは皆無だったように思えます。
後半の2つの楽章では、第3楽章の主部での疾駆感や、クライマックスでの昂揚感などは、見事だったと言えそう。何よりも、変な小細工を弄することなく、真摯に、かつ、率直に音楽を奏で上げていたことが、実に尊かったと言いたい。
なお、シベリウスでの奏者では、第1オーボエに魅了されました。昨年の4月までPACオケに在籍していて、現在は藝大フィルの首席を務めているようです。
とても伸びやかで、豊かな音を奏でてくれていました。
ということで、魅力的なモーツァルトのホルン協奏曲と、聴き応え十分なシベリウスの5番に触れることのできた、本日の演奏会。しかも、川瀬さんの音楽性の豊かさや、音楽を司る術(すべ)の確かさや、といったものを痛感させられる演奏に触れることができた。
川瀬さんには、これまでも注目していたのですが、今まで以上の期待をかけたくなった。そんな思いに至った演奏会にもなりました。