堀米ゆず子さん率いる兵庫芸術文化センター管(通称:PACオケ)による≪ブランデンブルク協奏曲≫の全曲演奏会を聴いて

昨日(2/23)は、兵庫芸術文化センター管(通称:PACオケ)による≪ブランデンブルク協奏曲≫の全曲演奏会を聴いてきました。堀米ゆず子さんが、ヴァイオリンを弾きながらリードしてゆくというスタイルで、演奏されていきました。
なお、堀米さん以外にも、白井圭さん(ヴァイオリン)、鈴木学さん(ヴィオラ)、辻本玲さん(チェロ)、それに曽根麻矢子さん(チェンバロ)を加えての演奏。管楽器は、全て、PACオケのメンバーによるもの。

≪ブランデンブルク協奏曲≫を、実演で6曲通して聴く機会というのは、あまりないのではないでしょうか。それだけに、貴重な体験になりそう。なおかつ、アカデミー機能を持つPACオケにとっても、なかなか取り組む機会が多くないバッハに真っ向から向き合うというのは、とても有意義なものとなるのではないだろうか。そのような思いを抱いたものでした。
堀米さんは1957年の生まれということで、現在、66歳。その堀米さんが、どのようなヴァイオリン演奏を聞かせてくれるのかというのも、興味津々でありました。
(ちなみに、堀米さんの実演に接するのは、これが初めてとなるはず。)
見どころ(聴きどころ)満載の演奏会になりそうだな、という思いで、会場へ向かったものでした。
なお、3部構成が持たれていまして、2回の休憩を挟みながら、第1,2番、第3,4番、第5,6番が演奏されていった。
それでは、どのように聴いたのか、各部ごとに触れていきたいと思います。

第1番が始まったと同時に感じたこと、それは、随分と流麗なバッハ演奏だな、ということ。レガート奏法を主体としながらの、滑らかな演奏ぶりが目立っていました。その印象は、ホールの残響の影響もあったでしょう、ちょっと、輪郭のハッキリしないバッハだな、とも思えた。
そこに輪をかけていたのが、ホルンが(特に、第2ホルンが)主張の強い吹き方をしていたこと。まるで、マーラーでも吹いているのではないだろうか、と言いたくなるほどに(この奏者は、マーラーの交響曲第5番で見事なソロを披露してくれていただけに、そのような連想を起こさせた)、ロマンティックに、時には音を割りながら雄弁に(この曲のホルンでは、音を割るのは決して悪いことではないと思われますが、音の割り方にこれ見よがしな自己主張が感じられた)吹いてゆく。第1ホルンは、音域が高かったり、速いパッセージをこなさなければならなかったりと、ちょっと苦労してしまうような箇所もありましたが、フレーズの最後に第2ホルンも加わるところになると、第2ホルンが畳み掛けるかのようにして吹き上げる、といった箇所もあった。そのような饒舌なホルンが、随分と気に障りもした。
この辺りは、まさに、バッハを演奏する難しさなのでありましょう。3本のオーボエや、ファゴットが、バッハらしさを追求するかのように吹いてくれていただけに、私には、ホルンが浮いて聞こえて、≪ブランデンブルク≫の音楽世界に没入することができませんでした。音楽の縁に佇みながら≪ブランデンブルク≫を眺めていた、といった感じ。
かように、第1番は、あまり居心地がよくなかったのですが、第2番になると、俄然、風向きが変わりました。
聴く前は、第2番のトランペットが一体どのようになるのだろうかと、半ば心配をしていました。あの、高音域を疾駆しながらの超絶技巧が織り込まれたソロを、吹きこなすことができるのだろうか、と。しかしそれは、全くの杞憂に終わりました。
トランペットソロを吹いた米本紋子さんという奏者は、昨年の3月の≪ツァラトゥストラかく語りき≫でもトップを吹いています。その中で、第2部のワルツに入る直前に出てくる高音へ跳躍するソロを、軽々と、しかも、頗る柔らかく吹いていて、私を唖然とさせたものでした。
本日の≪ブランデンブルク≫も、その時の印象そのまま。≪ブランデンブルク≫のほうが更に難易度がアップする訳ですが、音楽を破壊するようなことは全くなく、自然に、軽やかに、そして、伸びやかに吹いていた。過度に華々しかったり、煌びやかであったり、といったことがなかったのも、実に好ましかった。攻撃的であったり、絶叫したり、これ見よがしであったり、といったことも全くない。そのうえで、頗る柔らかく吹き上げてゆく。そのために、全体像から変に浮いてしまうようなこともない。周りに溶け込むことに心を砕きながら、吹き上げていた。
確かに、ところどころで音は抜けていました。しかしながら、そのようなことは、たいした問題ではありません。絶叫することなく高音域を走り抜けることは、至難の業でありましょう。音が抜けた箇所は、聴き手側で(すなわち、私の方で)その音を補いながら聴いていけば、一向に差支えがないのです。無理して、音楽のフォルムを崩しながら音を当ててゆくよりも、よっぽど好ましいものだと思えた次第。そのような思いに至らしめた、見事な、そして、頗る音楽的な、素敵なトランペットソロでありました。
(もっとも、これが、PACオケを卒団してどこかの楽団に所属して≪ブランデンブルク≫を吹くとなれば、極力、音が抜けないように吹いてもらいたいものでありますが。)
そのような中でも、第3楽章は、あまり音が抜けるようなことはなかった。この楽章の冒頭はトランペットの弩ソロ(どソロ)で始まりますので、よほど念入りにさらったのでありましょう。
そのような、米本さんによる見事なトランペットソロで、この演奏会の雰囲気が(それは、この演奏会への私の身の乗り出し方が、と言ったほうが良いのかもしれませんが)、ガラッと変わった。オーボエも、フルートも、それぞれに素敵なソロを聞かせてくれたものでした。とりわけ、第2楽章(この楽章では、トランペットの出番はありません)でのオーボエのソロは、朗々としていて、かつ、頗る伸びやかでありました。
また、堀米さんによるソロも、時に艶やかに、時に奔放に、時にシットリと、といった感じで、変幻自在。芸達者ぶりを、そこここで窺えたものでした。しかも、作品からはみ出すようなこともなく、作品の魅力をジックリと語り上げてゆくものであった。

続きましては、第2部について。
ここにくると、≪ブランデンブルク協奏曲≫の素晴らしさを噛みしめながら聴き入ったものでした。第3番などは、地味な存在と言えそうなのですが、ウキウキしながら、惚れ惚れしながら聴き入った。しかも、オーケストラのメンバーにとっても、合奏力の向上に対して頗る有益なメソッドであろうことが、つくづくと思い知らされる。
第4番は、ずっと華やかで、かつ、可憐な作品。この日の演奏会では、リコーダー(或いは、ブロックフレーテ)の代わりにフルートで演奏されていました。そのフルートが、今一つ伸びやかさに不足していたように思え、この作品のチャーミングな性格が伝わり切れていなかったのが、ちょっと残念。第2番でのフルートソロが素敵だっただけに(第4番の第1フルートは、第2番を吹いた奏者と同一)、不思議な思いに捕らわれたものでした。
ここにきて痛切に感じられたのが、チェンバロの曽根さんの素晴らしさ。とても音楽的なのであります。凛としてもいる。弾きながらの身体の揺らしかたなどを見ているだけでも、音楽性の豊かさが滲み出ているかのよう。
堀米さんのソロは、相変わらずの変幻自在ぶりで、ニュアンス豊か。特に、艶やかさが目立ってきたように思えたものでした。それでいて、堀米さんもまた、凛としている。音楽全体をリードする立場としては、ところどころで、強弱に変化を付けたり、テンポを伸縮させたり、といった措置を施しながら表情付けを行っていましたが、芝居がかったように感じられなかったのも流石。それもこれも、この協奏曲集への愛情を裏付けとしたものであったが故なのでありましょう。

いよいよ、第3部についてであります。こちらも、愉しく聴くことができました。
その中でも、第5番は、第2番での演奏と並んで、この日の白眉であったように思えた次第。とりわけ、曽根さんによるチェンバロソロがあまりに見事でありました。第1楽章のカデンツァなどは圧巻でした。
と言いつつも、曽根さんのチェンバロは、決して出しゃばるようなことはない。どちらかと言えば、慎ましいとも思えた。全6曲を通じて、トッティでは殆ど音は聞こえない。楚々とした演奏ぶりだとも言えそう。それでも、アンサンブルをシッカリと支えていて、全体を雰囲気豊かなものにしてくれていたのではないでしょうか。ピリッと小粒が効いていた。時に、音楽に小気味良さを与えてくれてもいた。
そのような裏方で音楽を支えていた曽根さんによるチェンバロも、第3番の第2楽章(両端の楽章を橋渡しするための短い楽章)と、第5番のソロの場面では、品格を保った上で雄弁なものとなっていた。
長大なカデンツァでは、小節の頭をかなりタップリと奏でて(であるために、小節の頭で音楽に大きなブレーキが掛かる)ゆく。その処置は、許容範囲を超えていて、音楽が伸縮し過ぎていて、あまりにいびつだったとも思えた。しかしながら、それが、嫌みに聞こえない。作品への強い共感から、やむにやまれず、そこまで幅広い伸縮性を持たせていた、といった趣があった。もうこうなると、理屈でなくなります。演奏者と作品との一体感の強さなのか、演奏者の音楽性の豊かさなのか。いずれにしろ、見事なカデンツァでありました。息を飲みながら聴きいった、といった感じ。しかも、ある種のノリの良さが感じられもした。ある箇所では、ガーシュウィンでも弾いているのではないだろうか、と思わせるような感興のノリが見て取れた。この、進取の気概に溢れたカデンツァは、当時の感覚からすると、我々がガーシュウィンや、それに類する音楽に接するのに似ているのかもしれません。
堀米さんのソロは、前半こそ(チェンバロのカデンツァに入るまで)自在感がある、存在感のある音楽を奏で上げてくれていたように感じられたのですが、それ以降は、なんとなく曽根さんに遠慮をしてしまっているのかな、といった風に感じられた。第2楽章も、曽根さんによる、キリっとしているのに、暖かくて、超然とした音楽と呼びたくなるチェンバロの語り掛けに、私の耳は奪われっぱなしでありました。
フルートのソロは、第4番と同様に、伸びやかさに不足していたように思えて、残念。細切れに鳴り響いていて、音楽が弧を描かない、といった感じを持った。元来が、第4番も第5番も、弧を描きながら奏で上げられて欲しい音楽だと言えそうなので、よけいに残念でありました。
先にも書きましたように、第2番のフルートソロでは、そのようなことは感じられなかった。第2番では、オーボエのソロが伸びやかだっただけに、そちらに引っ張られたといったところだったのでしょうか。
最後の第6番は、第3番以上に地味で、渋い作品だと言えましょう。ヴァイオリンは編成から外されて、ヴィオラの掛け合いがメインで、そこにチェロが彩りを添えてゆく訳ですが、支援で入ったプロ奏者のみならず、PACオケのメンバーもシッカリと弾き切っていたのは、嬉しい限りでありました。第6番では、チェロが時おり遅れ気味になる(それも、ほんの僅か。とは言え、チェンバロの曽根さんが、その際にチェロに視線を送ったようでした)といった箇所もありましたが、概して、よく弾いていたと思います。第6番での第2ヴィオラや、第3番での第3ヴァイオリンなどは、支援で入っていたプロ奏者に遜色なかったと言えそう。

縷々書いてきましたが、概して、≪ブランデンブルク協奏曲≫の魅力を堪能することのできた、素敵な演奏会でありました。そして、PACオケの多くのメンバーの実力の程に感嘆させられた演奏会でありました。