秋山和慶さん&日本センチュリー響&辻彩奈さんの演奏会を聴いて

本日は、秋山和慶さん&日本センチュリー響による演奏会を聴いてきました。
演目は、下記の通りであります。
●ディーリアス ≪ブリッグの定期市≫
●ブルッフ ≪スコットランド幻想曲≫(Vn独奏:辻彩奈さん)
●ヴォーン=ウィリアムズ 交響曲第3番≪田園交響曲≫

両端にイギリスの作曲家による作品を配置し、真ん中にはドイツの作曲家によって生み出された作品ではありつつもスコットランド民謡のメロディがふんだんに用いられている≪スコットランド幻想曲≫を据えるという、イギリスをテーマにしたプログロム構成となっています。
この3曲を実演で聴くのは初めて。更には、辻さんの演奏に接するのも初めてのこと。どのような音楽に出会うことができるのか、期待に胸を膨らませながら会場へ向かったものでした。

そのような演奏会でありましたが、最も惹かれたのは辻さんのヴァイオリンでありました。
辻さんは、1997年生まれとのこと。今年、25歳ということになります。昨年から、日本人の若手女流ヴァイオリニストを聴く機会に恵まれています。小林美樹さん、金川真弓さん、服部百音さん、そして、本日の辻彩奈さん。テクニックの面でも、そして表現力の面においても、「表現者」としてシッカリとしたパーソナリティや信条を持った優れた若手の女流奏者が次々と現れてきていることに、驚きと喜びを感じております。
さて、その辻さんであります。まずもって、音が誠に美しかった。高音は艶やかであり、中低音はふくよかで楽器が豊かに鳴っていた。それは、過度に華やかであると言ったようなものではなく、潤いがあって柔らかみを持っている美音、といったようなもの。
そのうえで、紡ぎ上げられてゆく音楽は、清々しさと濃密さとを併せ持っていた。ロマンティックでもあった。そのような演奏ぶりによって、この佳曲の魅力をタップリと味わうことのできる演奏となっていました。
アンコールでは、ハープの伴奏に乗せてエルガーの≪愛の挨拶≫が披露されました。こちらもイギリス音楽になりますね。この≪愛の挨拶≫がまた、力みの全くない弾き方でありながら楽器が存分に鳴り切っていて、伸びやか、かつ、しっとりと演奏されていて、実に美しい演奏でありました。

さて、ここで、秋山さんによる指揮について触れようと思います。
全3曲において共通して言えること、それは、ジックリとした音楽づくりをベースにしながらの、風格豊かな演奏であったと思えたことであります。堂に入ったソツのない纏め方がされていたとも言えそう。抑揚はシッカリと付けられており、曲想や旋律の息遣いに応じて音楽は自然に伸縮し、的確な高揚感が築かれてもいた。総じて、好演であったと思います。
しかしながら、聴いていて今一つときめかなかった。何と言いましょうか、型にはまり過ぎているように思えたのであります。
秋山さんによる実演は、昨年の7月に、本日と同じ日本センチュリー響を指揮してのブラームスの交響曲第1番を聴いています。そのときの演奏は、奇を衒わない音楽づくりを施しながら、作品の生命力をシッカリと汲み上げながら演奏してゆくといったもので、誠に充実度の高い演奏でありました。また、音価を大事にしながら、音の長さや弾み具合が場面場面の性格にキチッと嵌っていて、音楽が美しい佇まいを示してくれていたのが、なんとも素晴らしかった。このとき、私の頭に浮かんだ言葉、それは、秋山さんは「日本のハイティンク」と呼べるのではなかろうか、ということ。
本日の演奏を聴いているさなか、昨年の7月に頭に閃いた「日本のハイティンク」という言葉が、再度、私の頭をよぎりました。やはり、秋山さんの演奏は、ハイティンク的な特徴を持っている。
ただ、ハイティンクの場合は、奇を衒わない音楽づくりでありつつも、作品が備えている生命力や、内蔵しているエネルギーといったものを、的確に表出してくれている。そう、ハイティンクにあって、本日の秋山さんに足りなかったもの、それは、作品が備えているはずの生命力を示し切れていなかった、そして、エネルギーの放出が的確でなく、何となく表面的であった、というところだと思えたのであります。昨年のブラームスには、そのような不足は感じられなかっただけに、本日の演奏、なんとも残念であります。それは、ブラームスの1番と、本日の演目との間の、秋山さんの掌中への収まり方の差異に依るのでしょうか。
ちなみに、本日の演奏で秋山さんに求めたかった点としまして、もう少し清涼感を出して欲しかったということがあります。それは特に、≪ブリッグの定期市≫において強く感じられました。その要因としましては、演奏ぶりがドイツ音楽風に傾いていたように聞こえたことにもあるように思えます。ヴォーン=ウィリアムズでは、作風と、交響曲という作品にジャンルに依るのでしょうか、ドイツ音楽風に響いていてもさほど違和感はなかったのですが、ディーリアスについては、違和感が大きかった。このことからも、作品の違いが(作品の国籍の違い、と言っても良いかもしれません)、本日の演奏と、昨年のブラームスから受けた感銘との差異を生んだ要因であることを裏付けているように思えます。