ハイティンクによるドビュッシーを聴いて
ハイティンク&コンセルトヘボウ管によるドビュッシーの≪映像≫と≪神聖な舞曲と世俗的な舞曲≫(1977年録音)を聴いてみました。
私は、1970年代のハイティンクの演奏を、こよなく愛しています。堅実で、そのうえで、それぞれの作品が内蔵しているエネルギーを的確に放出させながらの、生命力豊かで、充分なる力感を備えている演奏を繰り広げていた、この時期のハイティンクを。
1980年代の後半あたりから、今しがた書きました後半部分の「作品が内蔵しているエネルギーを的確に放出させる」という要素が薄くなってきて、何と言いましょうか、「優等生的」な演奏が多くなっていったように思えます。或いは、律動感やしなやかさが減退して、音楽が硬直してしまうことが多くなったように感じています。
この、「優等生的」という評言は、ハイティンクの演奏に対して、よく使われていた言葉であったと言えるのではないでしょうか。或いは、それに類するものとして、「中庸をゆく」というような評言もよく見受けられたように思います。とりわけ、1960年代から70年代にかけての、若手から中堅と呼ばれていた時期のハイティンクに対して。
しかしながら、私は、1970年代のハイティンクの演奏の多くから、「優等生的に過ぎる」というような思いや、「中庸をゆく」といったような印象を抱くことはありません。なるほど、ハイティンクが採っていた姿勢、それは、音楽を大袈裟に飾り立てるようなことは一切せず、誠実に音楽を奏で上げてゆく、といったようなものでありました。そのうえで、必要十分な運動性が与えられながら、充実感いっぱいな音楽が響き渡ってゆく。そんなふうに言える演奏の多かった1970年代のハイティンクを、私は、こよなく愛しています。
前置きはこのくらいにしまして、ここでのドビュッシーについて触れることにしましょう。
厚みを持った、豊潤な響きによって彩られてゆく、ユニークなドビュッシー演奏であると言えるのではないでしょうか。輪郭線はクッキリとしていて、音の「実在感」のようなものも大きい。
ここでのハイティンクは、「フランス音楽」という意識をあまり抱いていないような気が私にはします。なんの誇張も施さずに、純音楽としてドビュッシーの作品を見つめ、作品の魅力を等身大の姿で伝えようとしているかのよう。腰をジックリと落として、地に足のついた、誠実で堅実な演奏。
しかも、聴いていて無味乾燥な感じが全くしない。覇気が十分にあって、紡ぎ出されている音楽には柔軟性があって、麗しい香りも放たれてくる。そのうえで、純音楽的なアプローチが施された演奏となっている。
しかも、コンセルトヘボウ管の合奏力の高さや、個々の楽器の音色の美しさや、オケ全体としての響きの充実ぶりが、何とも魅力的。
そんなこんなの結果として、充実感いっぱいな音楽が姿を現すこととなった。更に言えば、毅然としていて、美しい佇まいを示している音楽が姿を現すこととなった。そんなふうに言えるのではないでしょうか。
ハイティンク&コンセルトヘボウ管によるドビュッシー、独自の魅力を備えている素敵な演奏であります。
お薦めです。