カンブルラン&京都市交響楽団による演奏会を聴いて
今日は、カンブルラン&京都市交響楽団による演奏会を聴いてきました。演目は、下記の2曲。
●モーツァルト 交響曲第31番≪パリ≫
●ブルックナー 交響曲第4番≪ロマンティック≫
カンブルランは、10年ほど前の東京在住時代に、読響との演奏会を数多く聴いていましたが、それ以降はずっと聴けずにおりました。
久しぶりのカンブルラン。演目は、カンブルランがあまり採り上げていなかったと思われるモーツァルトとブルックナー。
フランス生まれのカンブルランが、ドイツ音楽に真正面から取り組むような形となっている演目で、どのような演奏を聴かせてくれるのだろうかと、胸を高鳴らせながら会場へ向かったものでした。
それでは、本日の演奏会をどのように聴いたのか、触れてゆくことに致しましょう。まずは、前半のモーツァルトから。
素晴らしかった演奏でありました。ブルックナーの前プロにモーツァルトを持ってくることはよくありますが、≪パリ≫が選ばれるのは珍しいのではないでしょうか。ブルックナーとの組合せに限らず、≪パリ≫が演奏会のプログラムに載ること自体が、珍しいとも言えそうですが。
しかしながら、モーツァルトの交響曲の中で、最大の管楽器の編成が組まれていて、壮麗かつ華やかな雰囲気を備えていて、かつ、とても手が込んでもいる主題提示部を第1楽章に持つ≪パリ≫をブルックナーの前に据えることは、とても相応しいことのように思われました。そして、そのような思いを起こさせてくれる演奏でありました。
と言いつつも、壮麗さを際立たせた、重厚な演奏が繰り広げられた訳ではありません。むしろ、軽妙であった。弦楽器のプルトの数は4-4-3-2.5-1.5と、随分と人数を絞っていて(モーツァルトを演奏するには、妥当な人数とも言えましょうが)、響きが引き締まっていたことも、そのことを強く印象付けた。
総じて、軽やかな音楽が鳴り響いていました。キビキビとしてもいた。第2楽章などは、速めのテンポが採られていて、足取りが極めて軽やかだった。
しかしながら、音楽をすっ飛ばすようなことは皆無。丹念に描き上げてゆく。第3楽章などは、音楽が弧を描くように膨らみを持たせながら紡ぎ上げられてもいた(カンブルランの指揮の動きがまさに、弧を描いていた)のも、印象的でありました。
その結果として、溌剌としていつつも、精妙で、しかも、華やかで、明朗な音楽世界が広がることとなっていた。モーツァルトならではの、飛翔感も十分。ウィットに満ちてもいた。
しかも、克明で精緻でありつつも、温かみを帯びてもいた。
久しぶりにモーツァルトらしいモーツァルトの実演に出逢うことができた。そのような幸福感に包まれながら、休憩時間を過ごしたものでした。それと同時に、後半のブルックナーが、ますます楽しみになってきました。モーツァルトでの演奏ぶりからすると、きっと、センス抜群なブルックナーになることだろうなと、想像を膨らませてもいました。
さて、その、ブルックナーの≪ロマンティック≫についてであります。
ブルックナーを聴く際、版については、特に拘りを持っていない私。本日の演奏で、どの版を用いるのかは全くチェックせずに聴き始めました。
(ひょっとすると、プレトークの中で、本日採り上げる版について語られたのかも知れませんが、演奏会に行く前に京都市内の紅葉巡りをしていて到着が遅れたために、プレトークを聞かずに演奏会に臨んでいました。)
聴き進むにつれ、聴き慣れたオーケストレーションと異なるところが散見される。なるほど、開始早々に、第1ヴァイオリンがオクターヴ高く弾いた箇所があり、「なるほど、そうきたか」と思った程度でやり過ごしたのですが、聴き慣れた版との相違が甚だしくなっていく。特に、低弦をカットし、ティンパニを活躍させる箇所が多い。
第1楽章が終わってプログラム冊子をめくってみますと「コーストヴェット版」と書かれている。
第1,2楽章では、音楽の構造や、旋律ラインなどには従来の版との相違は認められないものの、随所でオーケストレーションの違いが見受けられた。それが第3,4楽章になると、カットがあったり、ハース版やノヴァーク版にはないフレーズが出てきたりする。最終楽章では、シンバルが3回打ち鳴らされもしました。
(1回は開始して間もない箇所。ここでシンバルを鳴らすことは、コーストヴェット版を使用しなくても、時おり為されます。残りの2回は、エンディングに向かってクレッシェンドを始めてすぐの箇所で、小さな音量で打ち鳴らされました。)
ここで、プログラム冊子に掲載されていた解説文を引用することによって、コーストヴェット版の成り立ちを、簡単に記していきましょう。
1880年代後半になって、交響曲第4番の楽譜出版に見通しが立った。その際ブルックナーは、弟子のひとりであったレーヴェに楽譜の見直しと改訂を依頼した。レーヴェの改訂の主な目的は、演奏に際してより効果的に管弦楽を響かせることと、ブルックナーが明示していなかったテンポ変化や演奏指示を明記することにあった。(中略)この楽譜は1888年1月20日にウィーンで初演、翌年に出版されて、以後交響曲第4番はこのかたちで広く親しまれるようになる。この改訂を「作曲者の意図に反した改竄である」と主張したブルックナー研究家のハースは、(中略)楽譜を新たに校訂し、1936年に「原典版」として出版した。
(中略)今回の演奏に用いられる楽譜は、近年再発見された資料を用いてブルックナー研究家のコーストヴェットが1888年版を校訂し、2004年にウィーン・ブルックナー協会から出版されたものである。
正直なところ、版の違いによる「居心地の悪さ」が、至るところにありました。とは言え、カンブルランによる音楽づくりは素晴らしかった。作品を肥大化させずにスッキリと、それでいて、十分に壮麗に掻き鳴らしてくれていた。響きは輝かしく、かつ、マイルドでもあった。
音楽センス抜群の演奏になるだろうと予想していたのですが、期待通りの演奏が繰り広げられていた。
ちなみに、弦楽器のプルトの数は8-7-6-5-4と、ブルックナーの演奏には標準的な規模だったと言えましょう。豊麗で、かつ、艶やかに、響き渡っていました。とは言いましても、ダブついた感じになっていなかったところがまた、カンブルランならではのセンスの良さだと言えそう。バランス感覚に優れているとも言いたい。
総じて、美麗なブルックナー演奏で、そのうえで、ズシリとした手応えを備えてもいた。秀演だったと言えましょう。
しかしながら、版の関係上、全体を通じて心がざわつき、楽譜の異同に神経を取られながら聴いていた、といった感は否めません。コーストヴェット版による演奏に回を重ねて接するうちに、このようなことは無くなるのでしょうが。
ブルックナー受容史において、新たな版の登場は、これまでも繰り返されてきています。ハース版が現れた際には、それまでに使われていた「改訂版」に慣れていた聴き手もきっと、同様に面食らったのだろうな。そんなところにも思いを馳せながら聴いていたものでした。
(もっとも、ハース版が現れる以前にブルックナーに親しんでいたという愛好家は、とても少なかったのでしょうが。)
最後に、演奏会前に巡ってきた京都の紅葉の中から、真如堂で撮影したものを掲載させて頂きます。
真っ赤に色づいたモミジと、三重塔との取り合わせが、実に美しい。
京都の紅葉スポットの中でも、大好きな場所の一つであります。