上岡敏之さんの指揮による大阪フィルの定期演奏会(初日)を聴いて

昨日(11/24)は、フェスティバルホールで開かれた大阪フィルの第573回定期演奏会の初日を聴いてきました。指揮は上岡敏之さん。
演目は、下記の4曲でありました。シェーンベルクとツェムリンスキーは合唱付きの作品で、大阪フィルハーモニー合唱団が共演。
●シェーンベルク ≪地には平和を≫
●R・シュトラウス 組曲≪町人貴族≫
●ツェムリンスキー 詩篇第23番
●R・シュトラウス 組曲≪ばらの騎士≫

上岡さんの実演に接するのは、2018年の4月に新日本フィルを指揮した演奏会を聴いて以来で、これが2回目になるはずです。
上岡さんは、「アクの強い」演奏をする傾向にあると言えるのではないでしょうか。5年半前に聴いた演奏会では、ケフェレックを独奏者に迎えてモーツァルトのピアノ協奏曲第24番が演奏されたのですが、ケフェレックの清冽な演奏ぶりの上から、上岡さんは深い情念が籠められた音楽で塗りたくり、上岡さんの色で染め上げたモーツァルトになっていたと感じられたものでした。
そこへいきますと、この日のプログラムでは、妖艶な音楽づくりを許容する作品が並んでいると言えそう。新ウィーン楽派にまつわる合唱付きの2つの作品と、R・シュトラウスの劇作品を2つ並べた演奏会で、どのような演奏を繰り広げてくれるのだろうかと、期待しながら会場に向かったものでした。

ホールの正面入口には、クリスマス前ということでイルミネーションが

それでは、この日の演奏会をどのように聴いたのか、綴ってゆくことに致しましょう。まずは、前半の2曲から。
シェーンベルクは、元々が無伴奏合唱のための作品とのこと。無伴奏だと、合唱団が複雑な曲を歌いこなせないのではと危惧して、オーケストラによる伴奏を添えた版も編んだようです。
そのような経緯から、オーケストラはまさに補助的な役割と言え、合唱を裏で支えるように演奏されて、ほとんど目立たない(上岡さんが、意識的に、そのようなバランスにしたのかも知れないのですが)。曲の造りからすると、オーケストラのための演奏会で採り上げるのには、いささか不似合いなように思えたものでした。よほど上岡さんが、この作品に愛着を寄せているのでしょうか。
合唱団は、女声が80名弱、男声が40名弱という編成で挑んでいました。これだけの大人数でありながら、ハーモニーは澄み切っていて、かつ、静謐な雰囲気がよく出ていたと思えます。上岡さんの音楽づくりもあって、曲想に応じての起伏もシッカリと付けられてもいた。そのような中で、ゲネラルパウゼ(全休止)の後に音を出す際には、合唱の出が不揃いになる箇所があったりして、そこが残念ではありました。
≪町人貴族≫は、ウィットに満ちた作品。弦楽器の編成はごく小さく、透明感が醸し出されもする。そのような作品の実像を、よく表してくれていたと思えます。必要に応じて、キビキビとしてもいた。トランペットが巧かったのも嬉しい。
それでいて、今一つ、ワクワク感が乏しい。小編成のため、音の厚さを望むべくもないのですが、もう少し分厚さがあって、逞しさがあっても良かったと思えたものでした。

建物内に入ると、クリスマスツリーが飾られていました

続きましては、後半の2曲について。
この日の演奏会の中では、後半の頭に演奏されたツェムリンスキーが、最も共感できました。
この作曲家ならではの、後期ロマン派ならではの陶酔感が漂う音楽世界が醸し出されていた。頗る自然なアゴーギクによって、音楽が豊かに呼吸してもいた。しなやかであり、かつ、薫り高い音楽が奏で上げられていました。
この曲に限らず、上岡さんは、鋭いアインザッツを与えずに、フワッとした音を要求することが多い。
(その反面、フェンシングのように、指揮棒を突き刺すようにして、鋭いアインザッツを出すことも、しばしば。)
ツェムリンスキーでは、指揮棒を持たずに素手で指揮をしていましたが、そのフワッとした音楽の奏で方がまた、薫り高さを引き立てていたように思えます。
(その一方で、それゆえに、シェーンベルクで音の出が揃わなかった、ということも引き起こしていたのですが。)
なお、こちらでも、合唱団は、シェーンベルクと全く同じ編成で臨んでいたようです。大きな編成でありつつも、やはり、透明感が備わっていました。なおかつ、ツェムリンスキーでは、力強さが感じられもした。
さて、メインとして採り上げられた≪ばらの騎士≫についてであります。
これはもう、上岡さんの色で染め上げられた演奏だったと言えそう。コッテリ味で、しつこいまでに粘着質でもありました。と言いつつも、全てがそうではなく、箇所によっては、ツェムリンスキーで感じられた、しなやかさや、呼吸感の絶妙さに魅せられはした。しかしながら、粘着質な音楽づくりがあまりに強烈なため、そちらでの印象に引っ張られがちになります。
冒頭のホルンによるテーマからして、4つ目と5つ目の音を伸ばしぎみにして、音楽に個性を与える。その様には、あざとさが感じられた。妙に気取っているいるようにも感じられ、それが鼻についた。
鼻につくと言えば、第2ワルツの箇所で、過剰に押したり引いたりといった表情付けを施したり、思いっ切り抑揚を付けたりと、しつこいこと夥しかった。表現意欲旺盛な演奏が繰り広げられていたと言えましょう。
上岡さんが、卓越した表現者であることはよく解ります。アイディアも、次々と湧いてくるのでしょう。しかしながら、「過ぎたるは、及ばざるが如し」という言葉を思い出しながら聴いていたものでした。
また、濃厚な表現が頻出しながらも、音楽から豊穣さが沸き上がってこない。このことは、前半の≪町人貴族≫からも感じられたこと。≪町人貴族≫は、小編成ゆえだと思われたのですが、≪ばらの騎士≫は大編成でありながらも、音楽から豊かさがあまり伝わってこない。
上岡さんはどうも、音楽を頭でこね繰り回しがちなように思えます。その反面、作品への共感が今一つなように思える。何と言いましょうか、「取ってつけた感」が感じられる。そのうえで、ナルシストな面もあるのではないでしょうか。自分に酔っているように思えた。そんなこんなもあって、音楽にわざとらしさが現れて、豊かな生命力を獲得するに至っていなかったのではないだろうか。そんなふうに思えてなりませんでした。
更に言えば、指揮の動きも、実際にどのような音をオケから引き出したかという結果にはあまり拘らず、変な言い方になりますが、動き重視といった感じがしたものでした。フェンシングのごとく指揮棒を突き刺す仕草では、動きが唐突に過ぎて、オケの団員が確実に上岡さんの思いを受け止め切れない箇所も、幾つかあったように思えた。このようなことがまた、上岡さんをナルシストと思わせた要因でもあります。
なるほど、聴いていて面白くはあった。ここまでやるのか(更に言えば、ここまでできるのか)、と驚かされもした。しかしながら、策に溺れ、作品を歪めていた≪ばらの騎士≫となっていた。個人的には、そんなふうに思えてなりませんでした。このようなタイプの演奏は、どうも苦手です。