バーメルト&大阪フィルによる演奏会(グラズノフの≪四季≫とチャイコフスキーの≪冬の日の幻想≫)の初日を聴いて

今日は、バーメルト&大阪フィルによる演奏会の初日を聴いてきました。演目は、下記の2曲。
●グラズノフ ≪四季≫
●チャイコフスキー ≪冬の日の幻想≫

もともとはフェドセーエフが指揮することになっていたのですが、体調不良のため来日できないことに。代わりにバーメルトが指揮することになったのであります。
グラズノフとチャイコフスキーを組み合わせたロシア音楽プロ。現在92歳になっているロシア生まれの重鎮指揮者と言えるフェドセーエフが、この両曲でどのような演奏を聞かせてくれるのか、とても楽しみにしていただけに、ちょっと残念。
とは言え、1942年にスイスで生まれ、イギリスを中心に活躍しているバーメルトが代役を務めるというのは、かなり贅沢だと言えましょう。
(ちなみに、バーメルトは2018年から2024年まで札幌交響楽団の首席指揮者を務めており、先週末に札響の演奏会を指揮するために来日していたため、代役をオファーしたのでしょう。)

グラズノフの≪四季≫は大好きな曲なのですが、実演で採り上げられる機会の少ない作品であります。また、チャイコフスキーの≪冬の日の幻想≫も、≪四季≫ほどに稀少ではないものの、こちらも実演であまり採り上げられない。しかも、季節感を持っている作品が並べられているという統一性を持たせている。とても魅力的なプログラムだと思えます。
そのような演目で、バーメルト&大阪フィルが、どのような演奏を繰り広げてくれるのか。とても楽しみでありました。

それでは、本日の演奏会をどのように聴いたのかについて書いてゆくことに致しましょう。

まずは前半のグラズノフから。
なんともつまらない演奏でした。このバレエ音楽が持っている艶美にして豪華絢爛たる音楽世界が全く出現しない演奏だった。音楽がうねるようなこともない。そのために、聴いていて全く心が弾んでこない。このことは、この作品にとっては致命的だと言えましょう。
良いように言えば、整然としていて、端正な演奏ぶりでした。しかしながら、お行儀が良すぎたと言いたい。面白味に欠けていて、四角四面な音楽づくりになっていたのであります。しなやかさにも不足していた。生気や、精彩感や、といったものが殆ど感じられない演奏だった。この作品は、目くるめくような色彩感を楽しむことができる音楽になっていると看做しているのですが、そのようなことが叶うこともなかった。
なるほど、「秋」の中間部などでは、アゴーギクの変化がシッカリと施されていて、その場面が持っている呼吸感が表出されていたような場面もあり、ハッとさせられました。しかしながら、それも長続きしない。アゴーギクの変化が、アップアップと喘いてゆくような形に思えてきた。
フェドセーエフが組んだプログラムを代役で指揮したということで、バーメルトの手の内に収められていない作品の「お鉢が回ってきた」といった側面もあったのかもしれません。とは言いながらも、あまりに精彩に欠けた演奏だった。バーメルトの音楽性を疑ってしまうような演奏だった。そんなふうにも言いたくなった。
もっと言えば、≪四季≫という、実にチャーミングで、多彩な魅力を湛えている作品が、なんとも可哀想に思えてくる演奏だった。
≪冬の日の幻想≫は、どうなるのだろうか。一気に不安になりながら、休憩時間を過ごしたものでした。

それでは、メインの≪冬の日の幻想≫について。
こちらは、≪四季≫ほどには落胆しませんでした。バーメルトも、この交響曲は、これまでにも演奏経験があるのでしょう。それなりに作品のツボを押さえた演奏になっていたように思えたものでした。とりわけ、冒頭楽章で主部に入ってすぐの辺りなどは、低音を効かせながら進めていき、推進力が宿っていて、逞しさが感じられた。
とは言うものの、そういった感心も長続きがしない。次第に単調さが目立ってきた。もっと言えば、「音楽の鼓動」といったものが希薄な演奏だと感じられるようになった。
≪四季≫での演奏ぶりも含めて、バーメルトという指揮者は、息遣いの豊かさに欠けるように思えてなりませんでした。音楽が生き生きと呼吸しないのであります。そのために、平板な音楽になってしまう。
更には、指揮が拍を正確に刻めていない箇所も多かった。それは、今年83歳になるという高齢から来るものなのでしょうか。その際には、大フィルのメンバーが音楽の流れに則して破綻なく演奏を進めてゆくのですが、≪四季≫の「夏」の終わりの方で、頭の拍と裏の拍が交錯するような箇所ではオケも拍の感覚を正確に掴み切れずに、頭と裏が殆ど同時に演奏されるようなこともあった。
≪冬の日の幻想≫では、第1楽章の再現部に入る直前に、ホルンがシンコペーション混じりの複雑な動きをするのですが、そこで第1ホルン奏者が、あからさまに体を揺すりながら拍を取って、ホルンパートの統制を図ろうとしていた。バーメルトの棒に任せていると、危ういと判断したのでしょう。この場面が、本日のバーメルトの指揮の一面を象徴していたように思えます。
また、最終楽章のコーダで、バーメルトはかなり派手なアッチェレランドを掛けるべく腕を動かし、音楽を煽ろうとしていましたが、大フィルがそれに殆ど反応しない。ほんの僅か、アッチェレランドに同調した、といった感じ。その塩対応ぶりに、バーメルトと大フィルの間に齟齬がある(或いは、大フィルのメンバーがバーメルトの指揮を信用していない)ように思えてなりませんでした。
また、最終楽章について言えば、シンバルの音量をかなり抑えていたのには納得がいきませんでした。ほんの申し訳程度に鳴らされていた、といった感じ。バーメルトは、シンバルが派手に打ち鳴らされると「お下劣になってしまう」とでも考えたのでしょうが、シンバルが加えられている意味が皆無に近いものとなっていたと思えてなりませんでした。もっと、作曲家のことを信頼しても良いのではないだろうか。そんなふうにも思えた。
そのような中で、最終楽章の第2主題の民謡風の旋律では、音楽を存分に弾ませていたのには大いに賛同致します。この旋律は、元来がとても嬉々とした性格を持っていると思えるのですが、そういった表情がシッカリと描き出されていた。大フィルのメンバーも、ノリノリでそれに付き合っていた。付き合っていたというのは、かなり意地悪な言い方になりますが、本日の演奏においては、どうしてもそのように書きたくなります。本日の≪冬の日の幻想≫の中で、最も成功していた(それはすなわち、作品の性格や生命力を十全に表現できていた、といった意味になります)箇所だったかなと思えます。
また、バーメルトは、音をグッと抑えてゆくといった表現を随所で見せていた。そのことによって、音楽に繊細さや、精妙さや、といったものを与えようとしていたのでしょう。この点についても、大フィルのメンバーはシッカリと応えていました。しかしながら、その結果として聞こえてくる音楽には「あざとさ」が感じられた。音楽にハッとさせられるような表情が生まれてこなかったのであります。或いは、真実味の薄い音楽になっていたように思えた。その点も、残念でありました。
(弱音は、強音以上に雄弁だと思っていますが、ここではそうはいきませんでした。)
全体的に、整然としていて、繊細な演奏だったと言えましょう。それ故に、チャイコフスキーならではのセンチメンタリズムが、清冽な形で表されていた演奏だったと言えそう。しかしながら、それを突き抜けたところでの生命力に溢れた鼓動や、しなやかさや、流動性や、といったものの薄い演奏だったと言いたい。

本日は、フェドセーエフによるロシア音楽に触れることができると、大いに楽しみにしていたのですが(今年度の大フィルの定期演奏会の内容が発表された際に、前期に組まれた5つの演奏会の中で最も期待していた)、残念な結果に終わり、気落ちして会場を後にしたものでした。