カーチュン・ウォン&兵庫芸術文化センター管(PACオケ)による演奏会(第3日目)を聴いて

今日は、カーチュン・ウォン&兵庫芸術文化センター管(通称:PACオケ)による演奏会の3日目を聴いてきました。演目は、下記の2曲。
●ショスタコーヴィチ ピアノ協奏曲第1番(ピアノ独奏:小曽根真さん、トランペット独奏:クリストーフォリ)
●マーラー 交響曲第5番

カーチュン・ウォンは、先月、日本フィルの首席指揮者に就任したばかり。シンガポール生まれで、37歳の指揮者になります。その、ウォンによる実演に接するのは、昨年11月にPACオケで聴いたのに次いで、本日が2回目。
前回は、バルトークのオケコンをメインに据えて、伊福部作品とラフマニノフのピアノ協奏曲を前半に持ってくるというプログラム。いずれの作品でも、ウォンによる機敏で克明な音楽づくりに、惚れ惚れとしたものでした。
切れ味の鋭い演奏ぶりをベースにしながらも、音楽が痩せるようなことはなく、また、音楽が悲鳴を上げるようなこともなく、ふくよかな音楽を奏で上げてくれていた。そのうえで、目鼻立ちがクッキリとしていて、ダイナミック。と言いつつも、力任せに音楽を奏で上げようということはなく、作品のツボをしっかりと押さえた演奏を展開してくれていた。
オーケストラビルダーとしての手腕も、かなり高そうだな、という印象を受けたものでした。
そのようなウォンが、本日のショスタコーヴィチとマーラーではどのような演奏を聴かせてくれるのだろうかと、ワクワクしながら会場に向かったものでした。
その一方で、小曽根さんによるピアノに、一抹の(いや、大いなる)不安を抱いていました。10年ほど前に、モーツァルトのピアノ協奏曲を実演で聴いたのですが、大いに失望させられたからであります。
これは、小曽根さんに限った話ではありませんが、ジャズピアニストにとっては、クラシック音楽での演奏で要求される、繊細なニュアンスの移ろいや、微妙な響きの変化を表現するのが困難であるように思えてならないのであります。表情が一律化された音楽になりがち。キース・ジャレットによるバッハやモーツァルトでもそうだった。
今回は、モーツァルトではなく、ジャズ音楽の要素も加えられているショスタコーヴィチの協奏曲なだけに、その点に期待を繋いでいるといった心境でありました。

なお、ホールに着いてみると、ホール建物のすぐ手前の木々の葉が、若干ながらも黄色や赤に変化したのにビックリ。ここのところめっきり冷えてきたとは言え、10月末の時点で紅葉が始まっているとは、思いもかけませんでした。ちょっぴり、気持ちも彩り鮮やかになって、ホールに入場。

それでは、演奏を聴いて感じられたことについて、書いてゆくことにいたしましょう。まずは、前半のショスタコーヴィチから。
ウォンによる機敏な音楽づくりを存分に楽しめた演奏でありました。しなやかな演奏ぶりで、かつ、目鼻立ちのクッキリとしたものとなっていた。
ピアノと共に、ソリストとして扱われるトランペットは、PACの卒団員で、現在は日本フィルの首席奏者とのこと。鮮烈でありつつも、音が柔らかくて、こちらも見事でした。
ここからは、聴く前に危惧を抱いていた小曽根さんについてとなります。正直、小曽根さんによるピアノに気がそぞろとなり、オケとトランペットにあまり耳が向かわなかった。
第1楽章は、以前の印象そのままでありました。普段の練習で「音の響きを磨き上げる」ということに無頓着なのではないだろうか(もちろん、全く頓着しないことはないのでしょうが、クラシック畑のピアニストほどには心血を注がない、といった意味合いで)と思えてならないほどに、響きの変化に乏しく、単調な音楽でありました。音楽の表情が硬くもあった。
第2楽章に入ると、様相は若干変わりました。かなり柔らかくて繊細な響きを聞かせるようになった。そして、それなりに「感じきった音楽」が聞こえてくるようにもなった。それでも、なんだか、二極化された中で音楽しているような感じ。小曽根さんに最も適していそうな第4楽章も、今一つ盛り上りに欠け、ウキウキ感が足りなかったように思えた。
どうも、小曽根さんによる演奏は私の肌には合わないようです。

気を取り直して、後半のマーラーに臨んだのでしたが、こちらは、期待通りに素晴らしい演奏でありました。スコアを見ずに指揮をしていたウォン。この曲を自家薬籠中にしているのでしょう。
また、第2楽章をアタッカで、第5楽章もアタッカで入り、3部構成であることをシッカリと意識させてくれるよう配慮されていたのも、大賛成であります。
あと、対向配置を採り、ウィーン・フィルのようにコントラバスを最後列に並べていたのもウォンのこだわりなのでしょう。コントラバスが、オケ全体を支えながらの響きが獲得されていました。
さて、演奏内容について。
第1楽章は、重々しくて、足を引き摺るような感覚の漂う演奏ぶり。そのことによって、この音楽が葬送行進曲であることをハッキリと思い出させてくれる。しかも、煽るべきところではシッカリと煽り、音楽がうねってゆく。音楽の息遣いや、伸縮やも、実に自然。身のこなしがしなやかでもある。そんなこんなによって、生命力の漲っている音楽が鳴り響くこととなっていた。いやはや、第1楽章から、ウォンの音楽性の豊かさが如実に現れていた演奏が繰り広げられていたのであります。
トランペットのソロは、流暢にして力強く、柔らかさもあり、見事でありました。
第2楽章は、疾風怒濤の演奏が繰り広げられていた。それでいて、力で押し切るだけでなく、節度ある音楽となっていた。
第3楽章は、レントラー風の人懐こさが感じられる音楽となっていますが、牧歌的な陽気さや素朴や親しみ深さと、力強さとが同居している様が、見事に描かれていた。しかも、ここでも、音楽の息遣いの自然さが、クッキリと現れていました。
なお、この楽章では、ホルンの1番奏者を1st.Vnの後ろに立たせて吹かせたことによって、このパートのソロイスティックな性格が一層強調されていたのも、実に興味深かった。ホルン奏者がまた、その期待に応えてくれる闊達な演奏を披露してくれていました。
第4楽章は、あまり情緒に流されることがない、それでいて、十分に甘美な演奏となっていました。スッキリとした佇まいの中に、豊かな歌と、ロマンティックな感興とが織り込まれていた。
最終楽章は、ドラマティックに、快活に、明朗に、そして、華やかに奏で上げられていて、この楽章の性格を鮮やかに描ききってくれていました。クライマックスに向けての高揚感の築き上げも見事。最後の音が鳴り響くと、大きなBravoの声が飛んだのも納得であります。
ウォンの音楽センスの高さ、音楽を立体的かつ起伏を付けて奏で上げる能力の高さ、更には、オケを纏め上げる手腕の高さが、克明に刻まれた、素晴らしいマーラーに大満足でありました。
今から、次回の共演が楽しみであります。

終演後の写真撮影が可能になりましたので、撮影してきました。最後に、そちらを添付させて頂くことにします。