びわ湖ホールでの藤村実穂子さんによるリサイタルを聴いて

昨日(9/30)は、びわ湖ホールで藤村実穂子さんのリサイタルを聴いてきました。ピアノは、ヴォルフラム・リーガー。
演目につきましては、お手数ですが、演奏会ポスターを撮影した写真をご参照ください。

ところで、日本人のソリストのうち、世界の第一線で活躍している方として、3人を挙げたいと常々思っています。1人はピアノの内田光子さん、2人目としてヴァイオリンの五嶋みどりさん、あと1人がメゾ・ソプラノの藤村実穂子さん。藤村さんは、日本が誇る、世界最高峰のメゾ・ソプラノの一人であると、私は確信しています。
ここで挙げた3人、理知的な音楽づくりを基盤としているところに、共通点を見出せるように思います。

さて、藤村さんの歌に初めて接して度肝を抜かれたのは、2001年12月に新国立劇場で上演されたヴェルディの≪ドン・カルロ≫でのエボリ公女を聴いてのこと。豊潤でいて集中度が高く、情感豊かで、かつ、ドラマティックだった、素晴らしいエボリ公女でありました。
次いで聴いたのが、2011年7月にアルミンク&新日本フィルが演奏会形式で採り上げた≪トリスタンとイゾルデ≫でのブランゲーネ。風格豊かな歌いぶりで、その日の歌手陣では別格的な輝きを発していた。
更に接したのが、2013年のNHK音楽祭でのチョン・ミョンフン&フランス放送フィルと共演した≪カルメン≫抜粋。このときは、アンコールでサン=サーンスの≪サムソンとダリラ≫のアリアが歌われ、そのアリアでの妖艶とした雰囲気に包まれた歌唱に、恍惚としながら聴き入ったものでした。藤村さんと言えば、ドイツ音楽のスペシャリストというイメージが強いと言えましょうが、フランス物も絶品であることを認識した次第。
直近で聴いたのは1年半前の2022年3月、広上淳一さんが京響の常任指揮者を退任される記念コンサートに招かれて歌われた、マーラーの≪リュッケルトの詩による5つの歌曲≫になります。当初はマーラーの交響曲第3番が演奏されることになっていて、そこでのソリストを務めることになっていたのですが、新型コロナ感染症の影響で京都少年合唱団が出演できなくなったために、プログラムが変更になったのでした。
その≪リュッケルト≫がまた、コントロールの巧みさと、深々とした歌いぶりに支えられた、途轍もなく素晴らしい歌でありました。

その藤村さんが歌う、モーツァルト、マーラー、ツェムリンスキーと、細川俊夫が編んだ2つの日本の子守歌。藤村さんの実演は、5回目になります。
はたしてこの日もまた、どんなにか素晴らしい音楽に巡り会うことができるのだろうかと、期待に胸を膨らませながら会場へと向かったものでした。

びわ湖ホールのホワイエから琵琶湖を望む

期待にたがわぬ演奏会でありました。
藤村さんによる歌で、共感できないものに巡り会うであろうことなど、私には想像がつきません。そのため、ある種、想像していた通りのリサイタルだったと言えるのでしょうが、それでも、期待を常に裏切らない藤村さんの「歌の確かさ」に、脱帽したものでした。そして、期待していた通りの音楽が、現実のものとして目の前で繰り広げられていることに、この上ない幸福感を味わったものでした。
それにしましても、なんと素晴らしい音楽を響き渡らせてくれていたことでありましょうか。その音楽から受けた感銘を言い表すのは、難しい。どのような言葉を並べても、陳腐に思えてなりません。
間違いなく言えること、それは、演奏会全体を通じて、至高の音楽でホールを満たしてくれていたということ。しかしながら、この表現でもとても充分と言えそうにない。
勇気を振り絞って、もう少し詳しく書くことにいたしましょう。

藤村さんによる歌の特質、それは、上でも触れましたように、理知的な音楽づくりにあるように思えます。思索的だとも言えそう。その音楽づくりを、作品への深い洞察力と、鋭敏な感受性と、確かなテクニックが支えている。
しかも、声のコントロールが実に巧みで、ニュアンスが細やか、かつ、濃密。歌いぶりが深々としてもいる。そのために、感覚が研ぎ澄まされていながらも、音楽が神経質になるようなことは皆無。痩せぎすな音楽になるようなことは微塵もなく、情趣に富んでいて、ふくよかな音楽が響き渡ることとなる。そのうえで、ここぞの劇的表現にも、目覚ましいものがある。

そのような藤村さんの美質は、この日のリサイタルの至る所からも、窺うことができました。
ところで、モーツァルトでの2曲目が終わったところだったでしょうか、藤村さんは軽く咳き払いをされていました。ひょっとすると、この日の喉のコンディションは最上とは言えなかったのかもしれません。しかしながら、披露されてゆく歌は、そのような懸念は杞憂であったと言えるほどに、見事にコントロールされたものばかりでありました。
(と言いつつも、前半と後半のそれぞれの1曲目には、「喉が温まっていないのかな」と思わせるものがあった。)
この日の歌の多くは、弱音を主体として紡ぎ上げられていました。その弱音が、実によく響く。使われていたホールは1800席ほどの大ホールでありましたが、声がホールの隅々までピンと響き渡っていた。しかも、潤いのある声が。そして、実に柔らかくて、それでいて、澄み切っていた。
音楽が聴衆の琴線に触れて、深い感銘を与えてゆく根源の多くは、弱音での表現にあると考えるのでありますが、この日の藤村さんによる歌は、そのことを再認識させられるものでありました。かてて加えて、その弱音による歌が、表情豊かな音楽世界を描き上げていった。それはもう、身震いするほどに魅惑的な音楽世界が広がっていた。
そのような歌いぶりによる威力は、短調の曲において、より一層の効果が発揮されていたと言えましょう。実に深遠な歌となっていた。そこからは、ある種、戦慄が走るような「凄み」が感じられた。
その一方で、長調の曲では、軽妙にして朗らかな歌が紡がれてゆく。必要に応じて、存分に弾ませてくれもする。そんなこんなによって、音楽に暖かみが加えられる。そう、聴衆を、そして、作品を、暖かく包み込んでゆく。
そのうえで、ごく自然に、音楽を劇的に爆発させてゆく。「爆発」と書けば、なにか暴力的な、或いは力づくな印象を与えるかもしれませんが、そのようなことは全くない。作品が、その場面場面で備えているエネルギーを、極めて適正に放出させてゆくのであります。そのことによる音楽の拡がりや、堂々とした佇まいたるや、目を瞠るものがありました。例えば、モーツァルトの≪すみれ≫で聞かせてくれた劇的表現の凄まじさは、この曲が持っている可憐なイメージを一新させるものがあった。
個々の曲については、あまり触れないことにします。こまごまと書き連ねても、表面的な言い方になるように思われますので。そのような中で、一つだけ触れたいのは、≪さすらう若人の歌≫の第1曲と最終曲について。なんという虚無感に包まれた音楽だったことでしょうか。寂寥とした音楽世界が広がっていた。その音楽世界の中に引きづり込まれながら、息を飲んで聴き入ったものでした。

最後に、リーガーのピアノについて。
これまでに述べてきた藤村さんの驚異的に素晴らしい歌を、しっかりと支えてくれていました。呼吸の細やかさや、深さのようなものが感じられるピアノだった。実に精妙でもあった。そして、必要に応じて、ドラマティックでもあった。
藤村さんのパートナーとして、誠に相応しいピアニストだと言えましょう。

それにしましても、藤村さん、なんと素晴らしい歌手なのでありましょうか。
藤村さんの「凄み」がはしばしに滲み出ていた、そして、藤村さんの魅力を堪能することのできた、実に見事なリサイタルでありました。