広上淳一さん&京都市交響楽団による演奏会(第27回 京都の秋 音楽祭 開会記念コンサート)を聴いて
今日は、広上淳一さん&京都市交響楽団による演奏会を聴いてきました。演目は、下記の2曲。
●モーツァルト ピアノ協奏曲第23番(独奏:津田裕也さん)
●マーラー 交響曲第5番
本日開幕した「第27回 京都の秋 音楽祭」は、11月下旬までの2ヶ月半にわたって、20を超える演奏会が企画されています。この演奏会は、その開会を記念したもの。
指揮をするのは、昨年の春まで京響の音楽監督を務めていた広上さん。退任後も京響の指揮台には何度か上がっているようですが、私が聴くのは退任後初めて。一方、ピアノ独奏を務める津田さんを聴くのは、全くの初めてになります。
はたして、どのような音楽に巡り会うことができまるのだろうかと、楽しみにしながら会場へと向かいました。
それでは、演奏を聴いての印象について、書いてゆくことに致しましょう。ますは、前半のモーツァルトから。
ピアニストの津田さんは、リリシストだと言えましょう。繊細にして、儚げな音楽を奏で上げてくれていました。音楽を沈思するようなタイプの音楽家だとも思えた。
それだけに、白眉は第2楽章でありました。消え入らんばかりの弱音を駆使しながら、ガラス細工のような音楽を奏でながら、音楽の中へと深く沈み込むような演奏ぶりでありました。しかも、悲しみに打ちひしがれていながらも、光明が差し込むような音楽でもあった。音楽が悲色に染め上げていながらも、澄み切っていて、透き通るような音楽でもあった。
そのような音楽世界は、第1楽章のカデンツァで早くも出現していたのでありました。オケとの合わせの箇所では、やや型にはまっていたと言いましょうか、窮屈そうにも思える演奏ぶりだったのですが、カデンツァでは、津田さん自身の音楽表現を遺憾なく飛翔させていたのであります。その時点で、第2楽章への期待が高まり、実際に何とも魅力的な第2楽章を聞かせてくれたのでした。
その一方で、第3楽章での覇気に満ちた音楽づくりや、疾走感の表出や、といったものにも不足はなかった。
広上さんによるバックアップは、その第3楽章に最も感心させられました。溌剌とした音楽づくりが、曲想に見事にマッチしていた。その一方で、その前の2つの楽章では、音楽に軽みを持たせようといった意図が窺えたのは良いにしましても、音楽が鳴り切っていないようなもどかしさを感じたものでした。モーツァルトならではの愉悦感や、哀愁や、はにかみや、といった味わいも希薄に思えた。すなわち、モーツァルトを聴く幸せを、オケから味わうことが叶わなかった。モーツァルトを演奏することの難しさを痛感させられたものでした。
モーツァルトでの指揮には落胆させられた広上さんでしたが、メインのマーラーでは、大いに共感させられる演奏を繰り広げてくれました。
それはもう、大熱演のマーラーの5番だったと言えましょう。広上さんのこの曲への並々ならぬ愛情や、執着や、といったものが滲み出ていた演奏でありました。
演奏時間は正確には測っていませんが、75分ほど掛かっていたのではないでしょうか。少なくとも70分は超えていたはず。この演奏時間が示すように、誠に濃密な演奏でありました。しかも、音楽が弛緩するようなことはなかった。オゴーギクを存分に効かせながら、息遣いの豊かな音楽を奏で上げていた。
時に、音楽を急き立ててゆく。基本的には、ジックリと、そして切々と音楽を掻き鳴らしてゆくのですが、そこにじっと立ち止まるのではなく、前に突き進むべきところでは、決然と音楽を煽る。そのギアチェンジが実に自然。テンポの揺れ動きが曲想に密接にリンクしていて、説得力豊かであるとともに、息詰まる興奮を喚起させる演奏が繰り広げられることとなっていたのであります。とりわけ、第2楽章が秀逸でありました。耽美的でありつつも、嵐のよう音楽が展開されていた。
激情的でありつつも耽美的であり、開放的でありつつも凝縮度の高かった、本日のマーラーの5番での広上さんの演奏。
広上さんは、陽性で、賑々しい音楽を奏でる指揮者だという印象を私は持っているのですが、そのような性格を見せつつも、締めるところはシッカリと締めていた、本日の演奏。そして、目鼻立ちのクッキリとした音楽を掻き鳴らしていた。音楽をシッカリと抉ってもいた。
これまで接してきた広上さんの演奏の中でも、間違いなく私にとってはベストな演奏でありました。
見事な、そして、頗る魅力的なマーラーの5番の演奏に出会えて、幸福感いっぱいに会場を後にしたものでした。