鈴木秀美さん&神戸市室内管の演奏会を聴いて
昨日(10/1)は、鈴木秀美さん&神戸市室内管の演奏会を聴いてきました。演目は、下記の3曲になります。
●モーツァルト 交響曲第34番
●ショパン ピアノ協奏曲第2番(フォルテピアノ独奏:川口成彦さん)
●メンデルスゾーン ≪イタリア≫
バロック・チェロの名手であるとともに、指揮者としても広く活躍をされている鈴木秀美さんは、昨年、神戸市室内管弦楽団の音楽監督に就任し、2季目に入っています。
このコンビの実演は、今年の4月に、ハイドンとシューベルトの交響曲を中心に据えたプログラムの演奏会を聴いていますが、そこでのテーマは「疾風怒濤」。テーマの通り、激動的で、感情の発露のハッキリとしている演奏が繰り広げられていました。速めのテンポで突進しながら、更に、クライマックスでの追い込みが凄まじく、オーケストラの面々が必死になって喰らいついていかなければならないほどの煽りっぷりを見せていたものでした。終演後の鈴木さんのトークで、「まるで運動会のような演奏でしたよね」という発言が飛び出したほど。演奏が終了した際には、あまりの凄まじさに苦笑いを浮かべていたメンバーがいたりして、その表情が強烈な印象として残っています。
鈴木秀美さん、かなりの激情家なのだな、と認識した演奏会でありました。そして、聴いた後の充実感と、清々しさとに満たされて、帰路に就いたものでした。
そのような体験をしているだけに、この日の演奏会もまた、大いに楽しませてくれることであろうと、期待を寄せながら会場へと向かったのでした。
この日の演奏会のテーマは「秋のシンフォニー」。プログラム冊子に掲載されている、鈴木さんご本人が綴った演奏会のコンセプトとして、次のようなことが書かれています。
まずは、オペラの序曲のようなスピード感を持っている爽やかなモーツァルトの交響曲第34番を冒頭に据え(しかも、この曲は、演奏頻度がかなり低い)、続いて、憂いに満ちたショパンのピアノ協奏曲第2番を演奏した後に、絵画的な色彩に満ちた≪イタリア≫をメインに置きます。なお、≪イタリア≫に対して、個人的な想像の中の話しですが、と注釈を添えた上で、まず実りの「秋」の歓びから始まり、冷たく色褪せ、過ぎし時に思いを馳せる「冬」、温んで清水が流れ出す「春」と続き、第4楽章は熱狂的舞踏の「夏」ですが、その最後には、またもうすぐやってくる冬の雰囲気が顔を覗かせます、と記しておられます。
また、ショパンのピアノ協奏曲第2番では、1820年に製造されたグレーバーというウィーン式アクションを持ったフォルテピアノが使用され、独奏を務めるのが第1回ショパン国際ピリオド楽器コンクールで第2位を獲得した川口成彦だというのも、注目点の一つ。鈴木さんによるプレトークでも、この点をかなり入念に説明されていました。特に、楽器自体の音量が非常に小さいため、普通のピアノで弾かれる協奏曲の既成概念で聴くと、意表を衝かれてしまうだろうことと、そのために却って、それぞれの聴衆の中にピアノ協奏曲に対する新しい概念が生まれるであろうことを、強調されていました。
さて、それでは、演奏を聴いての印象についてであります。
4月の演奏会とは、随分と趣を異にしていました。すなわち、疾風怒濤とした演奏ぶりが、影を潜めていたのであります。4月の演奏会は、「疾風怒濤」というテーマを据えていたために、意識的に、そのような演奏ぶりに徹していたのでしょうか。
そして、鈴木さんは、かなり篤実な性格をされているように思います。そのうえで、茶目っ気があって、ウィットに溢れているようにも思える。しかも、団員と音楽を共有しようという意識が強い。それも、押しつけがましい態度を取るようなことをせずに。
この日の演奏は、そのような鈴木さんの人間性が前面に押し出されていたように感じられたものでした。
モーツァルトの34番は、ハ長調で書かれた作品ということをかなり意識してのことなのでありましょう、ドッシリと構えた壮麗な演奏が繰り広げられていました。その一方で、句読点を明確にしながら、音を打ち込むような音楽づくりをされていた。最終楽章では、音楽を開放し、爽快感を押し立てていた。そこには、毅然としていつつも、茶目っ気が感じられもした。
全体的に、楷書風な表現だったのですが、要所要所で音楽の流れを滑らかに持っていき、しなやかさが与えられてもいた。
そんなこんなによって、清々しさや、潔さの感じられる演奏でありました。
ショパンは、フォルテピアノを用いていたこともあって、繊細にして、可憐で優美で、古雅な雰囲気で敷き詰められた演奏でありました。そして、頗るインティメートな演奏であった。
川口さんの独奏は、音量の小ささからくる儚げな雰囲気は確かにあったものの、そのことを除いては、かなり雄弁だったように思えました。充分に激情的であり、ロマンティックでもあった。そのうえで、フォルテピアノならではの優美で古雅で、チャーミングな性格を湛えていた。
愛らしくて、かつ、誠実さの滲み出ていた演奏でありました。
前半の2曲を終えて、後半のメンデルスゾーンでは、疾駆する演奏に出会えそうな予感がしたのですが、その予感は覆されました。メンデルスゾーンも、テンポはさして速くありませんでした。第1楽章のコーダ部では、いきなりのギアチェンジがなされて、テンポを急に速くする、という手法が採られていたりしたのですが。そのために、このコーダ部では、爽快感がググっと増したものでした。
それでも、全体的に言えば、覇気に満ちていて、清新な演奏でありました。この「清新さ」は、モダン楽器を使用しながらも(ホルンとトランペットは、古楽器を使っていましたが)、ピリオド奏法を主体とした演奏であったことに大きく起因していたと言えましょう。ピリオド系の演奏でよく使われる「作品に溜まっている塵を払い落としたような演奏ぶり」という表現が、ここでも当てはまる演奏でありました。
なお、演奏会全体を通じて対向配置が採られていたのですが、モーツァルトでもメンデルスゾーンでも、1stと2ndの掛け合いだったり、一方が旋律を奏で一方がオブリガートを奏でたり、といった箇所が多いため、とても効果的でありました。室内オケだと、音の分離が明瞭なため、対向配置の効果が鮮明に感じられます。
あと、≪イタリア≫の第2楽章の旋律をオーボエ・ファゴット・ヴィオラがユニゾンで奏でるにあたって、ヴィオラが完全にノン・ヴィブラートで弾いていたことによって、響きが鄙びていながらも、力強くて中性的で、といったユニークな世界が出現していました。あの響きを、何に喩えたら良いのでしょうか。何となくバクパイプに似ていたような。
アンコールは、バッハのカンタータ第107番からコラール。メンデルスゾーンは、バッハのリバイバルに大きな貢献があったため、鈴木さんは、メンデルスゾーンの後には、よく、バッハをアンコールで演奏されるそうです。
この演奏会全体から感じられたこと、それは、鈴木さんの音楽に対する誠実さでありました。音楽が宿している生命力を、過不足なく解放してゆこうという意志の強さが感じられもしました。しかも、その裏側には、シッカリとした音楽への情熱が秘められている。
その先に、清々しくて潔い音楽が、現れることになる。
鈴木さん&神戸市室内管は、今後も精力的な活動を繰り広げられるようです。来年の年末には、ハイドンの≪天地創造≫を演奏することが発表されてもいます。
このコンビの活動に、目が離せません。