ラトル&ロンドン響の京都公演を聴いて
昨日(9/30)は、ラトル&ロンドン響の京都公演を聴いてきました。演目は、下記の4曲。
●ベルリオーズ 序曲≪海賊≫
●ドビュッシー 劇音楽≪リア王≫から「ファンファーレ」「リア王の眠り」
●ラヴェル ≪ラ・ヴァルス≫
●ブルックナー 交響曲第7番
前半にフランス音楽を3作並べ、メインにブルックナーを据えるという、個性的なプログラム。プログラム冊子には、「個人的に大好きなフランスの作品はぜひ入れたかった」というラトルの言葉が掲載されており、ラトルの強い要望によってプログラミングされたことが窺えます。
今シーズンでロンドン響の音楽監督を退任し、来季からはバイエルン放送響のシェフを務めることになっているラトル。ラトル&ロンドン響のコンビでの最後の来日と言われています。
(ちなみに、ラトルはロンドン響の終身名誉指揮者となることが決まっているとのこと。「これからもずっと一緒に音楽を作っていかれることに、ワクワクしています」と、ラトルは語っているようです。)
全8回の公演が組まれている今回の来日ですが、その初日になります。
注目度の高い演奏会だと言えましょう。そのような演奏会で、どんな演奏に出会うことができるのだろうかと、胸を躍らせながら会場に向かったものでした。
ところで、ロンドン響は、頗る機能性が高いオーケストラであると思っています。技巧的に、とても巧い。緻密な合奏力を有していて、かつ、ソロでは巧みな技巧を披露してくれます。そのうえで、響きはニュートラル。そのために、オーケストラ固有の色で音楽を染め上げるというよりも、指揮者の要求や、作品の個性といったものに対して、柔軟に、かつ、高い次元で、応えてゆく。そう、フレキシビリティの非常に高いオーケストラであると考えています。適応能力が高くもある。しかも、沸点が高いと言いましょうか、他のオーケストラであれば燃え上がってもおかしくないほどに音楽が熱量を持っていたとしても、ロンドン響は、ガンガンに燃え上がらずに、冷静に音楽を奏で上げてゆくことが多い。
(このような特質を持っているロンドン響は、日本のオーケストラが目標にするのに、とても適しているように考えております。)
さて、この日の演奏も、前述したロンドン響の美質が、はっきりと現れたものであったと言えましょう。そのために、前半のフランス音楽と後半のブルックナーとの間に、齟齬が全く感じられなかった。前半は前半、後半は後半、と、気分を切り替えて聴けば、なんら違和感のないプログラムだった。そして、双方を存分に、かつ、高い次元で楽しむことができた演奏会でありました。若干の欲張りな不満はありましたが。
それでは、個々について、もう少し詳しく触れたいと思います。まずは、前半から。
ここでの3作の演奏に対して、曲が終わるごとに拍手を受け付けてはいたものの、ラトルは舞台袖に引っ込むことはせずに、舞台上に立ったままでありました。そのために、作品ごとに気分が入れ替わることなく(聴き手に一呼吸を入れさせることによる「ダレ」を生じさせることなく)、3作の間で生まれる急・緩・急のコントラスト(或いは、動・静・動のコントラスト)が明確に現れていた。面白い工夫であり、とても素晴らしい対応方法であったと思います。
前半での演奏に共通した特徴はと言えば、明快で、颯爽としたもの。音楽がベトつくようなことは全くありませんでした。フランス、フランスした雰囲気はあまり感じられず、純音楽的に整然としていて、澄み切った音楽となってもいた。この辺りは、ラトルの感性と、ロンドン響の体質の双方に依るのでしょう。
ベルリオーズでは生気に溢れた演奏が繰り広げられていました。そう、全体にキビキビとしていて、音楽が小気味よく躍動していた。直線的な演奏であったとも言えそう。そのうえで、ラトルらしい俊敏さが現れてもいた。序曲≪海賊≫は、演奏会用序曲だということもあり、開幕の音楽に相応しいワクワク感を備えていますが、そのような性格が明確に現れていた演奏でありました。
続くドビュッシーの≪リア王≫は、未完に終わった劇音楽。ドビュッシーが書き残したのはほんの断片で、それをロジェ=デュカスが補筆完成させた作品になります。演奏時間は5分弱ほど。ラトルは、この作品に特別な愛着を抱いているようでして、30年以上も前の1989年にバーミンガム市響と録音したドビュッシー集を、≪映像≫≪遊戯≫≪リア王≫の3曲で構成させています。バーミンガム市響とのドビュッシー録音は、この1枚のみ。
この日の演奏は、荘厳かつ玄妙な音楽世界を、明快な線で描き上げながらも、ふわりとした感触が残るものとなっていました。ここで、聴衆の気持ちを落ち着かせよう、もっと言えば、浄化させよう、という意図が汲み取れもした。
そして、前半の白眉だった≪ラ・ヴァルス≫に流れ込みます。≪リア王≫との間に、しっかりとインターバルを採っていたものの、ラトルが舞台上から退かなかったために、「流れ込んだ」という印象を受けたものでした。
ここでの演奏の、なんとも鮮烈で精妙であったこと。と言いつつも、出だしの、雲間に霞んでいるかのごとき混沌とした有様が描かれている箇所では、やや遅めのテンポで朧げな雰囲気がシッカリと描かれていました。音楽は蠢動していつつも、意志を持って動き出す前の「静けさ」のようなものが、明確に描かれていたのであります。そして、ここでは、ロンドン響のソロイスティックな表現力の高さが、明瞭に現れていた。
音楽が本格的に動き出すと、音楽は小気味よく躍動してゆく。強奏部では、オーケストラが存分に鳴っているのですが、整然としていて、無理に咆哮するようなことはない。過度に興奮させるような演奏ぶりではないものの、随所で楔を打ち込み、かつ、畳みかけてゆく。そういった際のロンドン響のヴィルトォジティの高さは、目を見張るものがあります。しかも、なかなか完全燃焼しない。冷静さが保たれている。それは、このオーケストラならではだと言えましょう。しかしながら、最後のワルツの崩壊へと向かってゆく中での盛り上がりの、なんと凄まじかったこと。全く混乱しておらずに、キビキビとしていて、かつ、スッキリとしているのに、凄絶な音楽となっている。ラトルとロンドン響の美質が如実に現れていた≪ラ・ヴァルス≫でありました。
前半を終えて、メインのブルックナーもまた、澄み切った演奏になるのだろう。そう予想したのですが、その通りのブルックナーでありました。
実にスッキリとしていたブルックナー演奏でありました。肌触りの滑らかなブルックナーでもありました。更に言えば、流暢なブルックナー演奏であったとも言えそう。
それでいて、サラサラと流れていた訳ではありません。先を急ぐようなことはなく、たっぷりと音楽を鳴り響かせていた。アゴーギクの変化が大きく、かつ、自然であり、歌わせるべき箇所では、決して粘ることはないもののジックリと歌わせていた。音楽を開放させるべき箇所では、清々しいまでに伸びやかで晴れやかであった。全体的に、響きの純度が高くて、歩みには淀みがなくて、清澄な世界が開けていた。
ところで、テンポは概して遅めのように思えたのですが、演奏時間は63分ほど。感覚的なテンポと、物理的な時間が示すテンポとは、必ずしも一致しないことを痛感した次第であります。なるほど、アゴーギクの変化が大きい演奏であったのは確かで、速めのテンポを採っていた箇所では、かなり速かったのでしょう。もっとも、聴いていて、そんなふうには感じられなかったのですが。1990年頃に、バーミンガム市響と同曲を録音していますが、そこでは70分超をかけていました。それでいて、サラサラと流れていて、瑞々しさが感じられた。そこへゆくと、この日の演奏は、清澄でありつつも、一定のコクが感じられました。風格の豊かさも感じられたものでした。ラトルの成熟した結果なのでありましょう。
決して肥満体なブルックナーではない、スッキリとしたブルックナー演奏。大熱演と言うのとは違った、爽やかな演奏。充実感も高かった。重厚感とは違うのですが、オーケストラがたっぷりと鳴っている様は、美麗でもありました。第2楽章は、沈鬱としたといった風情ではなかったものの、充分に憂愁の色が感じられました。なかなか素敵なブルックナーだったと言えましょう。それでいて、個人的は、整い過ぎていたようにも思えたものでした。
この日の演奏会で最も惹かれた演奏、それは≪ラ・ヴァルス≫だったというのが、正直なところであります。
なお、メインがブルックナーということで、アンコールは無しでありました。