フェニーチェ堺で、堺シティオペラによるモーツァルトの≪魔笛≫(指揮は柴田真郁さん)の初日を観劇して

今日は、フェニーチェ堺で、モーツァルトの≪魔笛≫を観てきました。堺シティオペラの第41回定期公演。
ダブルキャストによる上演で、フェニーチェ堺での一般公演は今日・明日の2公演(あとは、堺市内の中学・高校を招待する公演が持たれる)が開催され、本日はその初日になります。
なお、キャストにつきましては、お手数ですが、添付写真をご覧いただきますようお願い致します。

この公演の一番のお目当ては、指揮の柴田さん。柴田さんが指揮するオペラの実演は、2023年の12月の≪ラ・ボエーム≫で初めて触れて以来、そのプッチーニを皮切りとして、ラヴェル、ヴェルディ、更には池辺晋一郎さんと、4人の作曲家の作品を、それぞれ1作ずつ接してきましたが、そのいずれにおいても、卓越した演奏ぶりが示され、生命力豊かで、オペラティックな感興に富んだ演奏が展開されていって、大いに魅了されたものでした。
そんな柴田さんが、モーツァルトのオペラを演奏する。これまでに私が接してきた作品群からは、懸け離れた造りや味わいを持ったオペラなだけに、柴田さんが≪魔笛≫でどのような演奏を繰り広げてくれるのか、興味津々なところでありました。そしてきっと、≪魔笛≫でも私を魅了するのだろうと、期待を寄せてもいたのでありました。
なお、プログラム冊子での記載によると、これまでに柴田さんが堺シティオペラで指揮した作品はイタリア語とフランス語だけで、ドイツ語によるオペラは今回が初めてだ、とのことであります。

歌手陣では、ザラストロに扮する伊藤貴之さんのみ、今年の2月に柴田さん&大阪響によって上演された池辺晋一郎さんの≪耳なし芳一≫で、平家の亡霊の武士を歌っていたのを聴いているだけで、他の独唱者を聴くのは、これが初めてとなるはず。そんな歌手陣が、どのような歌を聞かせてくれるのだろうかと、こちらも楽しみでありました。
ちなみに、約半年前に平家の亡霊の武士を歌った伊藤さんは、そこでは、威厳ある歌いぶりと、コミカルな要素を持たせた性格的な歌いぶりとのが程よく融合された歌唱を繰り広げていました。本日のザラストロでは、ひたすらに威厳のある歌を聞かせてくれるのではと予想しながら、会場に向かったものでした。

それでは、本日の公演をどのように接したのかについて、書いてゆくことに致します。

おしなべて、素晴らしい公演でありました。それは、作品の素晴らしさがストレートに伝わってくる、といったものだったと言いたい。
序曲が終わり、幕が上がってタミーノが大蛇に追われて登場しながらも気絶してしまい、3人の侍女が大蛇を退治すると、黙って横たわっているタミーノの見目麗しさに、3人の侍女が心奪われながら褒めそやす、という、その開幕のシーンから、グイグイと劇の進行に引き込まれていったものでした。もっと言えば、目まぐるしく変転するドラマと、3人の侍女の女心が、心憎いまでにクッキリと表されていて、惚れ惚れしながら聴いていったのでありました。「あぁ、これが、オペラなのだ」という思いが、フツフツと湧き上がってきた、そんな開幕でもありました。
そのような思いを駆り立ててくれたのは、紛れもなく、柴田さんの音楽づくりに依るものでありました。そして、本日の公演を素晴らしいものにしてくれた大半は、柴田さんの功績だったのだ、とも言いたい。
その演奏ぶりは、決して大言壮語しないものとなっていました。全く気負うことがなかった。音楽をがなり立てるようなことも皆無で、ゆとりを持って音楽を鳴らしていた。それ故に、あまり壮麗な≪魔笛≫にはなっていませんでした。音楽が扇情的になるようなことも皆無だった。
プレトークで柴田さんは、≪魔笛≫ついて、「調和」という言葉をキーワードにしながら語っておられましたが、そのことがよく理解できる音楽づくりだったとも言えそう。
それでいて、と言いましょうか、生気に満ちた音楽が鳴り響いていた。しなやかにして、伸びやかな音楽が奏で上げられてもいた。このことは、序曲での演奏ぶりから終始一貫していた。そこに、柴田さんの意志の強さや、自信の強さが感じられたものでした。
更に言えば、モーツァルトが書き上げた浄化し切った音楽を、生命力豊かに、そして、説得力豊かに音にしていってくれていた、と言いたくなるような演奏でもありました。それ故に、聴いていて惚れ惚れとしてくる。その顕著な例が、第2幕のフィナーレの冒頭にも当たる、3人の童子が、短剣で自らの命を絶とうとしていたパミーナを思いとどませる場面でありました。なんと、清浄な音楽であり、演奏だったことでしょう。もともと、このナンバーは、私の大好きな箇所なのでありますが、その直前でのパパゲーノとパパゲーナとのやり取り(一生、日の当たらない暗闇で暮らすことになるくらいなら、この老婆と一緒になったほうがましだと決心するパパゲーノの言葉を受けて、パパゲーナは本来の若い乙女の姿に戻るが、今のパパゲーノにはパパゲーナは相応しくないと、2人は引き裂かれてしまう、という、やるせなくなるやり取り)からの流れもあり、3人の童子が歌い上げる清らかな音楽には、胸が締め付けられるようでありました。
(なお、このナンバーの後半での、弦楽器が下降音型を奏でるシーンは、まるで天上から光が差し込んでくるかのようでありますが、本日の演奏では、惜しむらくは、そのような雰囲気に乏しかった。)
さまざまな色合いを湛えていた柴田さんによる音楽づくりでありましたが、全編を通じて、優雅さが強調されていて、軽やかで、端正でもある、ロココ風な音楽づくりが為されていた。そんなふうにも言えるかもしれません。そのことが、モーツァルトの音楽に、とりわけ、ジングシュピール(歌による劇)に区分けされる、露骨なまでの劇的要素が備わっている訳ではない≪魔笛≫に、相応しかったとも言いたい。
なお、第1幕でのパミーナとパパゲーノによる二重唱、「恋を知るほどのお方なら」の序奏部の2小節目での、クラリネットとホルンがハーモニーを奏でる「合いの手」を、カットしていました。モーツァルトが最初に書き上げた際、この「合いの手」は付いていなかったそうです。ということで、ここの場面では、初稿を採用したのだ、ということになります。柴田さんの「こだわり」を見た思いでありました。

さて、ここからは歌手陣について。
最初に触れたいのは、パパゲーノを歌った畑さん。
パパゲーノという、野生児としての逞しさや、屈託の無さや、朗らかさや、といったものが自然と滲み出るような歌いぶりでありました。
しかも、朗々としていて、歌いぶりが伸びやかだった。更には、声の押し出しが強くて、歌に勢いがあった。それでいて、全く乱暴ではない。そう、野放図に勢いがある、といった形になっていなかったのであります。身振りや、演技や、発言やは、ヤンチャなところがあり、十分に喜劇的で、客席からはしばしば笑いが起きていたのですが、悪ふざけに過ぎる、といったところは微塵もなかった。その辺りの塩梅も、とても良かった。畑さんのセンスや、人柄にも依るのでありましょう。
ちなみに、パパゲーノ一人がおしゃべりを繰り返し、それをタミーノが黙らせようとたしなめる場面で、通常は、「俺は鳥刺し」の旋律を口ずさむのですが、今日は、第1幕でタミーノが吹くフルートの旋律や、《ヘンゼルとグレーテル》からの一節を歌っていたりしていました。その様が、愛嬌タップリであり、お茶目でもあり、印象的でありました。
続いて触れるのは、ザラストロに扮した伊藤さんについて。予想通りに、と言いましょうか、威厳に満ちた歌いぶりでありました。とりわけ、第2幕での「村の鎮守の神様の」に似たアリアは、ジックリと聞かせてくれるものとなっていた。
但し、最終場で、ザラストロが舞台上方に立ち、周囲を圧するかのようにステージ上に君臨する(そんな感じの演出にもなっていた)場面では、今一つ圧倒的な存在感を備えたものとなっていなかったのが、不思議でありました。この場面は、朗々と歌い込んでゆく必要があり、内向的であったり、内省的であったり、といった表現が求められる訳ではありません。その辺りの加減にも依ったのかな、と思われました。
また、ザラストロという役は、随所で、超絶的に低い低音が出てくるのですが、それらが十分に響き切っていなかったのが残念でありました。
3人の侍女が、途轍もなく素晴らしく、かつ、存在感抜群だったのには、驚かされました。2つ目の組では、第1の侍女に、日本オペラ界を代表するソプラノ歌手の一人と呼べそうな並河寿美さんを配役しています。柴田さんは、あまり出番の多くない、普段は脇役だと看做されがちな3人の侍女を、重要視しているのでありましょうか。それは、クレンペラーが正規録音した≪魔笛≫で、3人の侍女に、シュワルツコップ、ルートヴィヒ、ヘフゲンを配したことが思い出されるものとなってもいる。
その3人の侍女による歌はと言いますと、実に生き生きとしたものになっていて、歌に逞しさが宿っていました。そして、立体的でもあると感じられた。それ故に、冒頭の大蛇を退治した後の場面や、タミーノ、パパゲーノとの第1幕での五重唱(フムフムの五重唱)、同じメンバーによる第2幕での五重唱、そういった箇所のいずれもが、頗る色合い豊かなものとなっていた。
本日の公演のMVPとまでは言わないものの、「優秀選手賞」は送りたくなる、素敵な素敵な、そして、実に立派な、3人の侍女でありました。
また、桝さんによる弁者は、タップリとした歌いぶりで、ジックリと諭すようにして歌い込んでゆく、といった、この役に求められている性格を見事に表してくれていた歌でありました。
と、ここまでは、感心させられた歌手について採り上げてきましたが、ここからは、「お小言」も挟みながらになります。
まずは、超難役の夜の女王から。
端山さんによる夜の女王は、ややもすると絶叫に傾きかけてしまうことが気掛かりでありました。特に、第1幕でのアリアでは、その感が強かった。
しかしながら、第2幕でのアリアでは、それほど強い絶叫にはなっていなかった。時に、鈴を鳴らすような、凛とした響きを湛えることもあった。更には、技巧性の極めて高いコロラトゥーラを、あまり音程を外さずに歌っていた。こちらのアリア、かなり歌い込んでいるのでしょう。或いは、より重点を置いてさらったのかもしれません。そのように感じさせられた歌で、第2幕でのアリアでは、「健闘していたな」というふうにも受け止めたものでした。
続きましては、その娘の役となるパミーナを歌った古瀬さんについて。
声がくぐもっていた感じだったのが、とても気になりました。そのため、声量が十分とは言えない(と言いましょうか、音楽の核となる部分が聴き手にまで届かない、といった感じ)歌唱になっていたのが残念でありました。
更に言えば、音量が増してきて、かつ、強い感情表現が求められてくると、音を押すことが多かった。それが耳障りでもありました。そして、音を押すことが度を越してゆくと、絶叫に近くなる、といった塩梅。
但し、タミーノが話しかけてくれない(それは、タミーノが受けている試練なのですが)ことに悲嘆して歌われる第2幕でのアリアは、弱音を効かせながら、悲哀に満ちた表現が為されていて、心に染み入りました。また、このアリアの冒頭では、楽譜に反して音を切って歌っており、それが、悲痛な嘆息として聞こえることになっていて、ハッとさせられたものでした。
続きましては、タミーノに扮した西影さんについて。この方、プログラム冊子に掲載されているプロフィールによると、名古屋大学の医学部を卒業し、更には、神戸大学の大学院で博士課程を修了されているという、異色の経歴の歌手のようです。
そんな西影さんですが、このオペラが開幕して早々に登場するシーンから気になったのが、ドイツ語の発音に問題があるのでは、と思えた点。特に、カタカナ読みをしているような発音だと言いたくなるものではないものの、ディクションに違和感を覚える、といったものになっていた。
また、凛とした声質で、伸びやかさもそれなりに感じられたのですが、何と言いましょうか、歌のフォルムが真っ直ぐでなかった、といった感じ。何だか、タミーノが、ひねくれ者のように思われた。気品があるようにも感じられなかった。凛々しくない訳ではないのですが、そういった印象を受けてしまった。そんなこんなの感触が、なんとも奇妙な歌でありました。
坂東さんによるモノスタートスは、威勢が良かったのは好ましかったのですが、第2幕でのアリアでは、ちょっと雑な歌いぶりだな、と思われたのが残念でありました。
かように、出来栄えに多少なりのデコボコのある独唱陣ではありましたが、総じて、歌いぶりからは誠実さが窺え、作品を歪めるような歌は皆無だったと言いたい。その点で、Braviを捧げるべき独唱陣でありました。

最後に、松本さんによる演出について。
簡素ではあったものの、重厚感のある舞台装置を設えて、このオペラの音楽世界を損なうことのないものにして構成されたものとなっていて、好ましかった。また、第1幕では、タミーノが吹くフルートに合わせて、踊る動物も出てきたりと、メルヘンオペラとしての性格も、最小限表現されていたと言えそう。
とは言え、重厚感のある舞台だった、という印象が強い。しかも、決して押し付けがましさのない範囲で。それは、≪魔笛≫の崇高な理念(それは、柴田さんがプログラム冊子でも強調されていたように、フリーメイソンの理念でもある)を描き上げてゆこう、という思いからでもあったのでしょう。
観ていて、邪魔になってしまう演出(それは、得てして、読み替えによる演出だったりします)もあり、そのような演出に出くわすと閉口してしまう私でありますが、本日は、安心して≪魔笛≫の世界に身を置くことのできる演出でありました。

終演後のカーテンコール、写真撮影可でありました。
フェニーチェ堺でのオペラ観劇は昨年の5月以来、1年ちょっとぶりになりますが、前回までは終演後の写真撮影は不可だったように記憶しています。
終演後の写真撮影がOKな公演が増えてきていること、良いことでありますよね。