びわ湖ホールでのコルンゴルトの≪死の都≫(初日)を観劇して

今日は、びわ湖ホールで阪哲朗さんが指揮するコルンゴルトの≪死の都≫を観てきました。今日と明日の2回公演で、異なるキャストで上演されることとなっています。
キャストにつきましては、お手数ですが、添付写真にてご確認くださいますようお願い申し上げます。

びわ湖ホールは、2014年に、当時の音楽監督であります沼尻竜典さんの指揮によって、このオペラを上演しており、今回はそのプロジェクトの再演でありました。前回は、日本初舞台上演だったとのこと。
なお、私にとっては殆ど初めて接するオペラであり、観劇するのは初めてになります。
演出は前回と同様に栗山昌良さん手掛けたものになりますが、主要なキャストは11年前からは一新されているようです。そんな中でも、マリー/マリエッタ(主人公のパウルの妻・マリーは、既にこの世を去っています。そのマリーに生き写しのマリエッタがパウルの前に現れ、劇は展開される。そして、途中にはマリーの亡霊が現れる。このオペラでは、そのマリーとマリエッタの2役を、1人のソプラノが演じるのであります。)を歌う森谷真理さんに注目していました。この2年ほどの間に、びわ湖ホールでのエヴァ(ニュルンベルクのマイスタージンガー)とロザリンデ(こうもり)を聴いており、カロリー高めで、貫禄に満ちた歌唱を披露してくれていました。ときに絶叫気味になるのは頂けないのですが、その歌いぶりは、ワーグナーの諸役に相応しいものだったと言いたい。本日のコルンゴルトでは、どのような歌を聞かせてくれることだろうかと、強い興味を抱いていました。
また、先月の関西フィルとのベートーヴェンの≪ミサ・ソレムニス≫では、感心させられるところの多かった阪さんの指揮が、今日はどうであろうかという点も、とても気になるところでありました。

ところで、ホールに行く途中、琵琶湖の畔を歩いて行ったのですが、比叡山の山頂付近は雪を被っていました。今日は随分と暖かかった(京都市内の最高気温は19.4℃だったようです)のですが、先週降った雪が、まだ残っていたのですね。このような景色も、良いものであります。

それでは、本日の公演がどうであったのかについて、書いてゆくことに致します。

なんとも奇妙な聴後感に浸ることのできるオペラであります。その奇妙な感覚というのは、我々は途中からずっと、幻影を見せられていたのだ、と気付かされることから来るもの。それはある種、とてもショッキングでもありました。
なるほど、パウルの身に起きたことは幻影の世界でのことなのですが、どこまでが現実に起きた出来事で、どこからが幻影だったのかという線引きが、曖昧なままに劇は進んできました。そのために、最後で現実に引き戻された場面では、観ている側も呆気に取られてしまう。そして、茫然自失となってしまう、といった感覚に襲われる。
そのような感触が、なんとも新鮮でありました。それはまさに、脚本家や作曲家が意図したものに他ならないのですが、まんまと術中に嵌ってしまった、といったところでしょうか。私がこのような感慨に耽ったというのは、取りも直さず、演奏による力でもあったのだと言えるのでしょうが。そのような、このオペラが持っているトリックを、真実味を持って聴衆に提示し得ていた演奏だったと思えます。

以上が、本日の公演に接して抱いた印象の概観であります。ここからは、個別の印象について書いてゆきたいと思います。まずは歌手陣について。
圧倒的な存在感を示してくれていたのは、パウルに扮した清水さんでありました。
清水さんは、びわ湖ホール声楽アンサンブルのソロ登録メンバーで、昨年の≪ばらの騎士≫では第1幕に登場するテノール歌手を務めていました。また、一昨年の≪ニュルンベルクのマイスタージンガー≫ではダヴィッドに扮していた。更に言えば、先月に大阪のザ・シンフォニーホールで催された阪さん&関西フィルによるベートーヴェンの≪ミサ・ソレムニス≫でもテノールパートを歌っていました。
それらで聴いてきた清水さんの印象はと言えば、声が美しくて、かつ、実直で伸びやかな歌い口を示してくれる歌手だな、といったもの。好感を持っていました。しかしながら、強い存在感を示していた、といったものでもなかったように感じていました。
そこへゆくと、本日のパウルは、これまでに接してきたものと比べると、役柄の重要性の大きさや、求められる歌唱の幅の多彩さもあってのことなのでしょう、とても印象深いものとなっていた。この歌手の、技術の確かさや、音楽センスの豊かさや、といったものをつぶさに感じ取ることのできる歌唱だったとも言いたい。
まずもって、声にハリがあって、輝かしい。歌い口が滑らかでもある。そのうえで、凛とした佇まいを湛えている。しかも、頗る真摯な歌となっていた。
第2幕での、マリエッタを罵倒する場面などは、鬼気迫る歌唱だったと言いたい。切羽詰まった感情の表出も申し分がなかった。頗る情熱的でもあった。しかも、感情が爆発されている場面でありつつも、美観を損ねるようなことは皆無。歌いぶりから凛々しさが失われるようなことはなく、端正な歌を維持してくれていた。
最終幕となる第3幕では、第2幕までのもの以上に、見事な歌唱を繰り広げてくれていました。パウルは、なるほど、錯綜した性格の持ち主だと言えましょう。その一方で、とても誠実で、倫理観の高い人物だとも言えそう。清水さんによる第3幕での歌唱に接していると、そのような性格が色濃く滲み出ていたように思えたものでした。その一方で、情熱的であり、感性豊かであり、愛情豊かでもある。それゆえに、随所で葛藤する。感傷的にもなる。しかも、清水さんの歌唱を通じて接していると、感情的になりながらも、毅然としていて、凛とした佇まいを滲ませる人物像が浮かび上がってくることとなる。それゆえに、音楽的な美しさが損なわれるようなこともない。
更に驚いたのは、最後の最後で、現実に引き戻されて以降の箇所では、実にリリカルな声と歌を披露してくれていたこと。それまで以上に、端正な歌いぶりとなっていた。その様は、まるでペーター・シュライアーの歌を聞いているようでありました。つい先ほどまで、あれほどまでの興奮状態にあり、情熱的で、感情を爆発させる歌いぶりを示していたというのに。そして、輝かしい声を聞かせてくれていたというのに。その対比の、なんとも鮮やかなこと。幻影の世界と、現実との「狭間」を、クッキリと意識させられた。もっと言えば、先ほどまでの幻影の世界に比べると、現実の世界の方が淡い色彩を帯びたもののようにも感じられた。
聴後の奇妙な感覚も、このような清水さんの歌唱に依るところが大きかった。そんなふうに思えてなりません。

続きましては、マリー/マリエッタを歌った森谷さんについて。
正直言いまして、マリーに扮している時のほうに惹かれました。マリーの場面では、柔らかさや優しさや、洗練味を感じさせてくれる歌を聞かせてくれていました。それに比べると、マリエッタでの歌唱は、馬力に任せすぎた歌唱だったと思えてなりませんでした。
この辺りは、この世を去っていて亡霊として登場するマリーと、生身の人間であるマリエッタとを対比したうえでの歌い口の使い分けだったのかもしれません。更に言えば、かつてパウルが深く愛していたマリー(それゆえに、マリーもまた、パウルを深く愛していたことでしょう)と、突如としてパウルの前に現れたマリエッタとの、心情の相違ゆえの対比でもあったのかもしれません。
とは言うものの、マリエッタでの歌いぶりは、あまりにヒステリックに過ぎたように思えました。このことは、第1幕から感じられたのですが、第2幕に入ると、より一層強く感じられた。例えば、第2幕の幕尻などでは、ドラマティックな感興のかなり強い歌になっていました。切迫感もあって、かつ、広大な世界が拡がってゆくような歌になっていた。聴いていて、胸が張り裂けてくるような歌いぶりでありました。しかしながら、美観を損ねるような歌だったと言いたい。もっと言えば抒情性に乏しい歌だった。細やかに情感を描き上げてゆくといった歌唱だったとも言い難く、一本気な感じがしてならなかった。
端的に言えば、猛女系の歌だったとも言えそう。ドラマティックな音楽づくりには目を瞠るものがあっただけに、勿体ない思いがしてならなかった。
第3幕になると、その傾向は、より顕著になりました。それまで以上にドラマティックなものとなっていた。美観を損ねることを承知したうえで、絶叫していたようにも思えた。「魂の叫び」と書けば、安直な言い方になってしまいそうですが、悲壮感が漂っていて、かつ、パウルを圧倒しようという意志のようなものが籠められていたようにも感じられたものでした。このような絶叫系の歌は、あまり好みではないのですが、その声量の豊かさには度肝を抜かれました。そして、それ相応の説得力を備えている歌だったとも思えた。
聴いていて、サロメに相応しいのではないだろうかと思えてきました。それも、あまり少女としての可憐さを前面に押し出さない、猛女系のサロメを思い描きながら聴いていました。

この、主役の2人以外では、フランクを歌った黒田さんと、ブリギッタの八木さんに惹かれました。
黒田さんは、バリトンらしい艶やかな声の持ち主で、朗々たる歌いぶりを示してくれていました。決して力で押し切るようなことはなかったものの、押し出しの強さがあった。また、落ち着き払った佇まい、といったものも感じられました。
八木さんは、深々とした歌唱を繰り広げてくれていました。そして、こちらもまた、落ち着いた佇まいを感じさせてくれた。忠実な家政婦としてのブリギッタに相応しい誠実さが漂ってもいた。
また、ユリエッテをはじめとした踊り子や劇団の仲間たちも、生彩感に満ちていた。アンサンブルも天晴だったと言いたい。
そんな中、晴さんによるフリッツには、「ピエロの歌」という聞かせどころがあるのですが、今一つでありました。晴さん、ひょっとすると、喉のコンディションを崩しているのかもしれません。声を保持するのに苦労していたようで、歌い口が平板になっていました。と言うよりも、声の表情が一本調子だった。晴さんは、先日の≪運命の力≫でのメリトーネでブッフォ的な役回りをシッカリと演じ切った見事な歌を聞かせてくれたように、性格的な役で本領を発揮するタイプだと思われるだけに、かなり意外な歌いぶりでありました。ピエロに欲しい哀愁にも不足していたように思えた。
と、歌手陣について書いてきましたが、清水さんによるパウルがあまりに素晴らしかっただけに、私にとっては、歌から受ける感銘の頗る大きな公演となりました。

それでは、指揮の阪さんはどうだったのか。ここからは、そのことについて書いてゆきたいと思います。
正直なところ、コルンゴルトならではの陶酔感が今一つだったように感じられました。
なるほど、ツボを押さえた音楽づくりだったと思え、それなりに生彩感を備えていました。とりわけ、3拍子で進められてゆく場面では、律動感を帯びていた。しかしながら、後期ロマン派の延長上に位置する音楽だと言えそうなこのオペラが持っているはずの煌びやかさが、今一つ浮かび上がってこなかった。しなやかさにも不足しているように思えた。この辺りは、これまでに接してきた阪さんが指揮するオペラにおいて、共通して感じられたことであります。そのようなこともあって、このオペラの抒情的な面が弱められているように思えた。また、官能的な要素も弱められているように思えた。
聴き進んでいく中で、第2幕の冒頭の前奏曲で気が付いたのですが、阪さんの指揮の動きがギックシャックギックシャック、といった感じになっているように見えた。それゆえに、奏で上げられる音楽も、滑らかさや流麗さに乏しくなるのでしょうか。
とは言え、マリーの亡霊からの一言があった後の、前奏曲の後半では、音楽に勢いがあり、疾駆感を伴っていた。聴いていると、≪ばらの騎士≫の冒頭部分や、第3幕の前奏曲に似た音楽世界を持っているように感じられたものでした。
更には、第2幕でのパウルとフランクによる口論の場面では、緊迫感の強い音楽が奏で上げられていて、大いに惹きつけられたものでした。
第3幕の前奏曲でもまた、ギックシャックギックシャックといった音が聞こえてくるような歩みとなっていました。
この前奏曲で気が付いたこと。ここの音楽は3拍子で書かれていますが、その拍節の感じ方が弾み過ぎていたように見受けられた。3拍目を、しゃくり上げているとも表現できそう。3拍子の部分が躍動していると感じられたのは、そのためだったのかもしれません。その一方で、音楽の流れに滑らかさが不足しているように感じられた所以も、この辺りにあったのだろうかとも思えたものでした。
とは言え、第3幕での前奏曲以降では、オペラティックな感興に満ちた音楽が奏で上げられていきました。それは、森谷さんによる歌いぶりに依るところも大きかったのでしょうが、阪さんによる音楽づくりも頗るドラマティックだった。そして、鮮烈な音楽が鳴り響いていった。この辺りは見事であり、その後にもたらされるカタルシスを、より強烈なものにしてくれていたように思えます。
ということで、阪さんによる指揮は、色々と不満なところもありましたが、「終わり良ければ全て良し」的な思いに至ることのできたものだったと言いたい。

縷々書いてきましたが、このユニークなオペラの魅力をジックリと味わうことのできるものだった。そんなふうに言いたい公演でありました。