準・メルクル&京都市交響楽団による演奏会(≪ダフニスとクロエ≫全曲 他)を聴いて

今日は、準・メルクル&京都市交響楽団による演奏会を聴いてきました。演目は、下記の2曲。
●ラフマニノフ ≪パガニーニの主題による狂詩曲≫(独奏:ドヴガン)
●ラヴェル ≪ダフニスとクロエ≫全曲

京都に引っ越して以降、準・メルクルによる実演は、2022年8月の京響との定演と、2023年3月のPACオケ(兵庫芸術文化センター管)との定演と接してきており、これが3回目でありました。
その2回の実演では、明快なタクトさばきを駆使しながら、音楽の鼓動や、運動の性質や、音楽の重量感や圧力やスピード感や、といったものが、十全に伝わってくる演奏が展開してくれていて、強い感銘を受けたものでした。キビキビと律動していて、克明で、彫りの深い音楽が奏で上げられてゆくのであります。そのうえで、音楽の運びが誠に逞しい。
しかも、折り目正しくて、それでいて、うねりも充分。作品が望む通りに音楽は伸縮し、息遣いが自然で、かつ、豊かでもある。そんなこんなによって、端正にして、豊饒な音楽が奏で上げられてゆく。
本日のラフマニノフとラヴェルでも、同様の演奏ぶりに触れることができるのではないだろうかと、大きな期待を寄せながら会場に向かったものでした。

それでは、本日の演奏をどのように聴いたのかについて書いてゆくことに致します。

まずは、前半のラフマニノフからになりますが、なんとも素晴らしい演奏でありました。準・メルクルによる指揮も、ドヴガンによるピアノも、実に見事だった。
ドヴガンはこれまでに名前も知らなかったピアニストですが、かなりのヴィルトゥオジティの持ち主だと言えましょう。難しそうなパッセージを何の滞りもなく弾きこなしてゆく。しかも、テクニックをひけらかすようなところは皆無。卓越したテクニックを、ただただ、作品に生命を吹き込むことだけに捧げてゆく、といった感じ。それ故に、この作品が実に表情豊かに、そして、精彩感を持って描き上げられてゆく。そのうえで、パッショネイトでいて、リリカルでもあった。
(どちらかと言えば、リリカルな要素が強いように思えた。)
しかも、奏で上げられる音楽は、頗る鮮やかものでありました。輪郭がクリアだった。それでいて、ぶっきらぼうになったり、無機質になったり、といったことは微塵も感じられない。音楽が、確かな息遣いを持ちながら鳴り響いていたのであります。音楽が粘り気を帯びたり、ベトついたり、といったようなことも全く無かった。
更には、音の響きがピュアな美しさを湛えていた。とりわけ、弱音でのデリケートな肌触り帯びた美しさは格別でありました。それでいて、粒がクッキリとしてもいた。輪郭のクリアさは、ここから来るものでもあったのでしょう。
そんなこんなによって、クリアであり、自在感に満ちていて、かつ、表情豊かな音楽が鳴り響くこととなっていた。
テクニックと、音楽性とが、高次に融合されていたピアノ演奏だった。そんなふうに言いたくなります。
なお、プログラム冊子に掲載されているプロフィールを見ますと、2007年生まれとなっています。今年、18歳ということになる。それほどまでに若いピアニストによる演奏だとは、到底思えませんでした。ステージに立っていた姿からの印象では、もう少し年がいってるのかなと思えただけに、余計に驚いた次第であります。ステージ上での振舞いも、堂に入ったものだった。
4歳半からピアノを学び始め、モスクワ音楽院付属の中央音楽学校に5歳で入学、とも書かれています。「神童」といった存在だったのでしょう。更に言えば、本日の演奏からは、大器の片鱗を窺えた。これから先が、なんとも楽しみなピアニストであります。
一方の準・メルクルによる音楽づくりもまた、実に鮮やかで切れ味鋭いものでありました。それは、曲の冒頭からしてそうだった。なんとも鮮烈に開始してくれていた。しかも、この曲想が目まぐるしく変化する作品を、表情豊かに演奏してくれていました。
更には、ちょっと細かな話をしますと、メインとなる主題の旋律を、最初の4小節に対して続く4小節の音を弱める、といったデリケートな表情が与えられていたりもしました。この手法は、最初にオケによって提示され、その直後にピアノによって示された。このような表情を与えようしたアイディアは、準・メルクルによるものなのか、ドヴガンによるものなのかは定かではありませんが、実に印象的でありました。
また、有名な第18変奏では、思いっ切りロマンティックに、なおかつ濃厚に、奏で上げていた。プレトークで準・メルクルは、この変奏は、この世で最も美しい旋律の一つだと語っていました。そんな思い入れが、ハッキリと伝わってくる演奏ぶりだったと言えましょう。
全体的に、劇的な要素を前面に出していた準・メルクル。しかも、抒情性にも不足がなかった。精密で、鮮明な演奏ぶりでもあった。このような演奏に接するにつけと、メインの≪ダフニスとクロエ≫がいよいよ楽しみになったものです。

さて、ソリストアンコールはショパンのワルツ第7番が演奏されました。とても有名な、短調で書かれた、翳の濃いワルツであります。
こちらは、弱音を駆使しながらの、繊細にして、哀愁たっぷりな演奏が繰り広げられていました。しかも、アゴーギクの付け方も激しかく、そのことによって音楽に切迫感を与えていた。そして、こちらもまた音の粒がクリアであり、弱音を主体とした弾き方でありつつも輪郭がぼやけるようなことがなかった。
ドヴガンの音楽性の豊かさがハッキリと窺えた演奏だった。もっと言えば、表現の幅や、演奏者としての引き出しの多さの感じられた演奏だった。
個性的でありつつも、独自の魅力を湛えていた、なんとも素敵なョパン演奏でありました。

ここからは、メインの≪ダフニスとクロエ≫についてであります。
期待に違わぬ素晴らしい演奏でした。ワールドクラスと言いましょうか、世界のどこに持っていっても通用するような演奏だったと思えてなりません。
とても驚いたのは、準・メルクルは、この複雑に込み入っていると言えそうなバレエ音楽の全曲版を、暗譜で指揮していたということ。そのことが力強く物語っていると思えるのですが、作品を完全に手の内に収めている演奏ぶりだったと言いたい。このバレエ音楽の息吹を、頗る自然に、かつ、雄弁に、表出してくれていたように思えました。
しかも、フランス音楽に不可欠な風情や空気感といったものにも、全く不足がなかった。音が空間を漂うような、そんな重心の高さが、ごく自然に醸し出されていたのは、流石だと言いたい。音をフワッと宙に放り出すような感覚の表出も、堂に入っていた。「フランス音楽は、こうでなくては」、という感慨を随所で抱きながら、聴き進めていったものでした。
似たようなことを、2年半前に聴いた準・メルクル&京響によるベルリオーズの≪幻想≫でも体験しています。
かつて京響のシェフを務めたこともある指揮者が、一昨年に京響とフランス音楽を主体にした演奏会を催しています。その際のプレトークで「京響はフランス音楽と相性が良いと思っていたが、実際にリハーサルに入ってみると、思い描いていたものと違っていた」といったようなことを語っていました。なるほど、そのときの演奏は、私には居心地の悪いものとなっていました。フランス音楽の味わいが生きてこない演奏だったと思えた。そのとき、準・メルクルとの≪幻想交響曲≫では、あれほどまでに見事なフランス音楽を奏で上げてくれたのに、どうしたのだろう、などといった思いが頭をもたげたものでもありました。
そこへゆくと、本日の準・メルクルは、京響からシッカリとフランスの響を引き出してくれていた。指揮者によって、こんなにもオケの響きや、もっと言えば体質といったようなものが変わるのか、という顕著な例だと言えましょう。そして、準・メルクルの実力をまざまざと見せつけられた、といったところでもありました。
そのような、フランスの息吹タップリな音楽づくりだったことに加えて、劇的な要素も申し分ありませんでした。オペラの分野でも精力的な活動を続けてきた準・メルクルの、劇音楽での相性の良さが痛感された次第であります。全編を通じて、音楽が逞しく呼吸してもいた。とても豊饒な音楽が奏で上げられていたとも言いたい。
更には、前半のラフマニノフと同様に、頗る鮮烈でもあった。それでいて、大袈裟になるようなことはない。聴き手を威圧するようなことや、凶暴に過ぎる、といったこともない。シッカリと地に足を着けながら、作品が本来的に備えている生命力を、十全な形で放出しつゆく、といった演奏ぶりだったと言いたい。
なおかつ、この指揮者ならではの、リリシズムの溢れた演奏となっていました。色彩感に不足はなかった一方で、清潔感が漂っていた。音楽のフォルムが、とても端正でもあった。仕上げが入念でもあった。そのようなこともあって、繊細にして、精妙な音楽が、至る所で鳴り響くこととなっていた。この辺りは、準・メルクルの大きな美点であると言えそう。
なるほど、いくつかのパートで、ソロが弱かったと感じられたことはありました。そのような中でも、フルートや、コール・アングレなど、素敵なソロを披露してくれたパートもあり、その点でも、京響の実力の高さを痛感させられた次第であります。何よりも、オケ全体の響きのまろやかさには、耳を奪われました。それは、準・メルクルが引き出した響きでもあった訳なのですが。
メルクル&京響、頗る相性が良いように思えます。これから先の共演が、待ち遠しい。

前半のラフマニノフも含めて、京都に引っ越して以降に接した演奏会の中でも指折りの、深い感銘を受けた演奏会となりました。