柴田真郁さん&大阪響によるヴェルディの≪運命の力≫(2/9開催)を聴いて
【お知らせ】文章の途中に、修正のための(注)を付けています。
昨日(2/9)は、大阪のザ・シンフォニーホールで、柴田真郁さん&大阪響によるヴェルディの≪運命の力≫を聴いてきました。演奏会形式による上演になります。
キャストは、お手数ですが、添付写真でご確認くださいますよう、よろしくお願いいたします。
最大のお目当ては、指揮者の柴田真郁さんでした。
一昨年の12月に、フェニーチェ堺で開催された藤原歌劇団によるプッチーニの≪ラ・ボエーム≫で初めて柴田さんによる演奏に接したのですが、オペラティックな感興に満ち溢れた演奏に、度肝を抜かれました。作品の生命力をしっかりと放出してくれる演奏を展開してくれた。そして、音楽づくりが誠に的確でありました。音楽が豊かに息づいてもいた。そのうえで、プッチーニの作品で許される範囲で、適度に鮮烈でもあった。
要は、オペラ指揮者として必要な要素を、シッカリと持ち合わせている指揮者だという思いがヒシヒシと感じられたのでありました。
次いで接したのは、昨年2月の、ラヴェルの≪子供と魔法≫他でありました。こちらは、この日と同じく、大阪交響楽団とのオペラ・演奏会形式シリーズでの公演。そのときは、他には、デュカスの≪魔法使いの弟子≫と、ラヴェルの≪マ・メール・ロワ≫の組曲版も演奏されたのでした。その3曲においても柴田さんは、前年の≪ラ・ボエーム≫に優るとも劣らない演奏ぶりを示してくれた。その音楽づくりは、冴えに冴えていたと言いたい。作品のツボをしっかりと押さえながら、手際よく、しかも、生命力豊かに、そして、ニュアンスに富んだ表情づけを施しながら奏で上げられてくれた。
そんな柴田さんによる、ヴェルディのオペラを聴くことができる。これはもう、大きな期待を抱かずにはおれません。きっと、雄渾にして、輝かしくて、生命力に満ちた音楽を奏で上げてくれることだろうと、胸を躍らせながら会場に向かったものでした。
独唱陣も、並河さん、笛田さん、青山さんと、楽しみな歌手が並んでいます。
並河さんは、一昨年のボローニャ歌劇場による大阪公演での≪トスカ≫で、代役でタイトル・ロールを歌ったのを聴き、ドラマティックで、かつ、抒情性の豊かさの感じられる歌に感心させられました。恰幅の良さもあった。しかも、トスカの苦悩や葛藤も、濃やかに表現してくれていた。
笛田さんは、昨年の兵庫芸術文化センターでの佐渡裕さんプロデュースオペラによる≪蝶々夫人≫でステージに立ったピンカートンを聴いたのですが、頗るドラマティックで、声に太さが感じられた。そのうえで、輝かしくて、情熱的だった。燦々と声が降り注いでくる、といった感じでもありました。
青山さんは、一昨年の春のびわ湖オペラでの、≪ニュルンベルクのマイスタージンガー≫でハンス・ザックスを聴いていまして、そこでは、威厳がありつつも、あまり押し付けがましさがなく、暖かみのあるザックスになっていたと感じられたものでした。更には、若々しくて、覇気があった。
そのような3人による、レオノーラとドン・アルヴァーロとドン・カルロ。こちらにも、大きな期待を寄せていました。
それでは、この日の演奏をどのように聴いたのかについて、書いてゆくことに致します。
なお、この日の公演では、休憩は第2幕と3幕の間に、1回取られたのみでした。4幕構成で、正味の演奏時間は2時間半に及ぶオペラの公演で、休憩は1回のみ。これは、とても良いことだと思います。
何度も休憩を挟むと、その分だけ、終演が遅くなってしまいます。休憩回数は最小限に抑えながら進めてゆくことに、個人的には大賛成。
(ヨーロッパの歌劇場でも、休憩は1回のみという歌劇場が多いように思えます。例えば、ヴェルディの≪ラ・トラヴィアータ≫は3幕構成でありますが、第2幕の第1場が終わったところで1回のみの休憩を取る、といった上演が為されることが多い。そのような歌劇場では、≪ファルスタッフ≫でも、第2幕の第1場が終わったところで1回だけの休憩が挟まれる、といった形態が取られています。)
この日の公演を聴いて抱いた思い、それは、≪運命の力≫を思う存分に楽しむことができた、ということでありました。もっと言えば、ヴェルディのオペラに接する幸福感を満喫できた、といったものでありました。
その一番の功労者は、やはり、柴田さんだと言えましょう。まさに、ツボを押さえた音楽づくりが為されていました。豊かに呼吸している音楽が鳴り響いている。しかも、それぞれの場面が、あるべき姿をしながら、描き上げられていたと言いたい。
序曲からして、誠に雄渾な演奏が繰り広げられていました。なんとも逞しい生命力に包まれた演奏となっていた。これからオペラが始まるのだ、という胸の高鳴りを覚えるに十分な演奏ぶりでもあった。
しかも、抒情的な側面が示される箇所では、しっとりと音楽を奏でてゆく。その自在感たるや、見事でありました。まさに当意即妙に富んでいる音楽づくり。
それは、劇中での演奏においても変わりありません。なんとも生き生きと、そして、シッカリと呼吸をしながら、音楽は進められてゆく。
そのような演奏ぶりは、何だか、尻上がりに凄みを増していったように思えたものでした。と言いましょうか、柴田さんが奏で上げてゆく音楽の「空気」を吸ってゆくことへの快感が、ドンドンと増していった、といったところだったのかもしれません。
そう、展開されてゆく演奏が纏っている「空気」の、何と自然であったことでありましょうか。作品自身が、それぞれの場面で望んでいる、まさにその表情が、寸分の狂いもなく与えられてゆく演奏だったとも言いたい。それはすなわち、息遣いや音楽の歩みといったものが、絶妙であり、的確だったのであります。
そのうえで、ヴェルディの音楽が随所で見せてくれる「燦然たる輝き」にも、全く不足がなかった。頗る熱量の大きな音楽が鳴り響いていたのであります。とても雄渾でもあった。
その一方で、繊細さが要求される箇所では情緒の豊かな演奏ぶりが示され、歌うべき箇所では朗々と歌い上げられていた。
そんなこんなの、何と自在であったことか。その結果として、真実味の高い劇性が与えられてゆく。更には、聴き手に強い共感を抱かせる音楽となってゆく。そういったことは、すなわち、ヴェルディのオペラの「キモ」であるとも言いたい。
何はともあれ、ヴェルディを聴く醍醐味をトコトン味わうことのできた、破格とも言いたい素晴らしい指揮でありました。
なお、これは非常に細かなことになりますが、第2幕でのレオノーラのアリアの裏で吹かれるクラリネットのソロで、2拍目と3拍目に意識的にアクセントが付けられていたのにはビックリしてしまいました。
(注)ここで話題にしています箇所は、第2幕でのレオノーラによるアリアではなく、アリアが歌われた直後の、レオノーラとメリトーネとのやり取りの箇所(もう少し詳しく書きますと、メリトーネとのやり取りを終えて、レオノーラが独白する箇所)でありました。
ここのクラリネットは、序曲で出てくるメロディを吹いています。それは、下にスコアの写真を添付しますが、序曲での練習番号Cでヴァイオリンが弾いているメロディを、クラリネットが吹いている。
序曲では、練習番号Cの3小節目で、アクセントが2拍目と3拍目に付いています。なんとも奇妙な位置に、アクセントが付けられている。
私が、このアクセントを意識するようになったのは、1981年にムーティがフィラデルフィア管とともに来日した際の演奏会で、アンコールで披露された≪運命の力≫序曲をFMラジオで聴いてからであります。ムーティは、このアクセントを、かなり目立たせていたのです。更に言えば、Cの7小節目での1拍目の裏、2拍目の裏、4拍目と、3ヶ所に付けられているアクセントも強調していた。音楽の常識から外れたと言えそうな箇所でのアクセントを、とても奇異に感じたものでした。しかしながら、スコアを見てみると、ムーティが演奏した通りにアクセントが付いている。ヴェルディは、そのように演奏されることを望んでいたのであります。
そのアクセントは、序曲に留まらずに、第2幕のレオノーラのアリアにも波及していたのか。そのような思いを抱いて、驚いたのであります。
(なお、このオペラの全曲スコアは手元にありませんので、実際に、第2幕のアリアのこの箇所にもアクセントが付いているのかは、確認できていません。ひょっとすると、柴田さんが、序曲でのアクセントを応用したのかもしれません。)
いずれにしましても、柴田さん、このようなところにも注意深く目を配っているのだな、ということが理解できたとともに、大いに感心させられたのでした。
続きましては、歌手陣について書いてゆきたいと思います。
まずは、ドン・アルヴァーロを歌った笛田さんについて触れたいと思います。
何はさておき、頗るドラマティックでありました。野太い歌いぶりでもあった。そのようなこともあって、声の威力が絶大で、そこから放たれるエネルギーたるや、無尽蔵であると言いたくなるほど。そのうえで、燦然たる輝きが放たれてゆく。そんなこんなによって、頗る興奮度の高い歌唱が繰り広げられることとなっていました。
その一方で、ソットヴォーチェでの繊細さや柔らかさも十分。
そんな、表情の幅の広い歌いぶりによって、ドン・アルヴァーロの情熱や、葛藤やが、濃厚に描かれてゆく。
声の魅力に溢れていて、かつ、性格表現も細やかな、見事な歌唱でありました。
続きましては、レオノーラを歌った並河さん。
こちらもまた、ドラマティックな表現から、デリケートな歌いぶりまで、当意即妙な歌を繰り広げてくれていました。しかも、頗る清らかでもあった。とりわけ、レオノーラにとっての一番の聞かせどころであります、アリア「神よ、平和を与えたまえ」などは、格調高い歌となっていた。
もう、これ以上なにも望むことはない、と言いたくなるほどに、素晴らしい歌唱でありました。
ドン・カルロに扮した青山さんも、素晴らしかった。覇気がありつつ、朗々としていて、ノーブルな歌となっていた。かつ、スタイリッシュでもあった。声の威力も十分。
そのようなこともあって、第4幕でのドン・アルヴァーロとドン・カルロによる二重唱は、まさに火を噴くような、熱い音楽となっていた。このナンバーは、個人的には、ヴェルディが書いたテノールとバリトンのための二重唱の最高峰だと目しているのですが、その醍醐味を心行くまで味わうことのできた、頗るスリリングで、興奮度の高い音楽が繰り広げられることとなっていました。
山下さんによるプレチオシルラもまた、素晴らしかった。プレチオシルラは、ある種、蓮っぽさの感じさせられる役となっており、第2幕での山下さんの歌いぶりは、そのような性格がシッカリと表されていました。その一方で、第3幕では、思いのほか、端正な味わいが感じられたのが、ちょっと意外であり、興味深くもあった。
晴さんによるメリトーネは、頗る性格的な歌唱でありました。メリトーネに相応しいブッフォ的な性格も、的確に表現されていて、このオペラにおけるアクセントとしての役割を存分に果たしてくれていたと思えます。
更に言えば、水口さんによるトラブーコや、西尾さんによる軍医といったところも、きっちりと脇を固めてくれていた歌いぶりだったと思えます。このような役の歌がシッカリとしていると、公演自体が引き締まります。
残念だったのは、片桐さんによるグァルディアーノ神父。この役に必要な威厳や、レオノーラをはじめとした周囲を包み込む暖かさや、慈愛や、といったもの浅かったように思えたのでした。なおかつ、この役には、バッソ・プロフォンドとしての深々とした声が必要になってくると考えますが、その点にも不足が感じられた。総じて、歌唱としての「腰」がふらついているような、不安定さが漂っていた。この日の公演での、数少ない不満の一つが、この、グァルディアーノ神父でありました。
なお、この日の公演での不満を、もう一つ挙げます。それは、第3幕の途中に挟まれるバレエシーンが、短くカットされていたと思われた点。
なるほど、演奏会形式のため、バレエが踊られる訳ではありませんので、そのためのカットだったのかもしれません。しかしながら、ここの場面は、指揮者とオーケストラにとっての「聞かせどころ」の一つだと思えるだけに、とても残念でした。特に、柴田さんの音楽づくりが極めて魅力的だっただけに、その喪失感は大きかった。
2018年のゴールデンウィークに、ドレスデンのゼンパーオーパーで≪運命の力≫を観てきたのですが、そこでの演奏が、とても印象的でした。そこでの演奏を紹介したフェイスブックでの投稿には、次のように書いています。
さてさて、第3幕では、プルチオシルラの場面でバレエ音楽が挟まれるのですが、これが凄かった。
あのシュターツカペレ・ドレスデンが、ヴェルディのバレエを真面目に奏でているということに対して、何とも言えない可笑しみが湧いてきました。しかしながら、イタリアオペラを演るということも、ここのオケにとっては、ごく日常的な仕事。であるが故に、全てが誠に自然。しかも、頗る美しい。気品に満ちている。ヴェルディの音楽がこのように響くのは、ここのオーケストラだけでありましょうね。
そのドレスデンでのバレエシーンに肉薄するような演奏を、この日、聴くことができるかもしれない、と思っていたのですが。いやはや、残念でありました。
なお、第3幕でのドン・アルヴァーロによるアリア、「天使のようなレオノーラ」の導入部に、クラリネットによる長い長いソロがあるのですが、実に素晴らしかった。音が柔らかくて、まろやかでありました。弱音が澄み切ってもいた。
(1ヶ所だけ、弱音を支えきれなくなってリードミスをしていましたが、そのようなことはもう、お構いなしであります。)
終演後に、クラリネット奏者は立たせてもらっていましたが、当然のことと言えましょう。
縷々書いてきましたが、ヴェルディのオペラの神髄に触れることのできた、充実度の高い公演でありました。このようなヴェルディ演奏に、国内でも接することができるということは、なんとも有難いことであります。