ル・ポン国際音楽祭を聴いて
10/5,6,8と、ル・ポン国際音楽祭を聴きに、姫路へ行ってきました。
この音楽祭は、ベルリン・フィルの第1コンサートマスターを務めている樫本大進さんが音楽監督に就いている、室内楽のための音楽祭。2007年に、樫本さんのお母さんの故郷である赤穂市で音楽祭を開催したのをスタートに、以後、姫路と隔年で開催していたところを、2012年より赤穂・姫路での共催となり、今日に至っているようです。2020年は、コロナ禍のために中止、2021年はベルリンからのオンライン開催となったため、赤穂と姫路でナマの演奏を届けるのは3年ぶりのこと。
ちなみに、樫本さんがベルリン・フィルのコンサートマスターに就任したのは2009年のため、それ以前から開催されている音楽祭ということになります。
なお、「ル・ポン」とは、フランス語で「架け橋」のこと。市民が気軽に楽しめて、演奏者と聴衆との距離の近い、親しみを持てる音楽祭、をコンセプトとしており、その思いを込めての命名なのでしょう。
また、そのための方策として、下記の3点の特徴を持たせるべく、企画されているようです。
①樫本さんと親交のある世界的な演奏家に集まってもらう。
②赤穂・姫路ならではの会場で、低料金で開催する。
③音楽祭の運営に多くの市民ボランティアの参加を得て、演奏家と聴衆、市民とのさまざまな交流の機会を創出する。
今年は、赤穂で2回、姫路で4回の演奏会が企画されていますが、姫路での演奏会のうち、野外ステージでの開催が3回になります。姫路城二の丸に設営した特設会場で2回、書写山圓教寺の境内に設営した特設会場が1回。私が聴きに行きましたのは全て、この野外ステージでの公演でありました。姫路城での客席数は538、書写山圓教寺での客席数は570。姫路ならではの会場で、というコンセプトが、如実に現れています。
この音楽祭の瞠目すべき点は、豪華な出演者にあると言えましょう。ルルー(Ob)、メイエ(Cl)、ナカリャコフ(Tp)、ル・サージュ(P)と、名手の名前が綺羅星のように並んでいます。更に言えば、パユ(Fl)も参加しているのですが、日曜・月曜の赤穂での公演に出演しただけのため、私は聴くことができず。
ここでお気付きの方もいらっしゃるかと思いますが、木管五重奏団のレ・ヴァン・フランセのメンバーがずらりと並んでいます。ファゴットも、この五重奏団のメンバーのオダンが参加しています(オダンが使用している楽器は、バソンのようですが)。
また、ヴィオラのグロス、コントラバスのライネは、ベルリン・フィルの首席奏者を務めており、樫本さんとの身近さが窺えます。
これだけの豪華なメンバーが揃いながら、各回のチケット料金は1,000円。良質な演奏を、低料金で、気軽に楽しんでもらおうという気概が、ヒシヒシと伝わってきます。そして、ここでの演奏を聴いてもらうことによって、音楽に親しむ「架け橋」になろう、という使命感のようなものも感じ取れます。
さて、私が体験しました3日間の演奏会の中で、最も強く惹かれたのは、10/6に演奏された≪兵士の物語≫でありました。と言いますのも。
実を言いますと、野外での演奏会ということに対して、聴いていて不満が募ってきました。音が響かないのです。そのため、これだけの名手が集まっているにも関わらず、音の潤いが乏しい。そして、音が散ってしまう。
ライトアップされた姫路城を真横に眺めながら、室内楽のコンサートに触れている。そのムーディな雰囲気は、なんとも魅惑的でありました。幻想的でもありました。しかも、こじんまりとした会場で、すぐ目の前に名手たちが並んでのコンサートを楽しんでいる。その昂揚感は、確かにありました。
しかしながら、肝心の音楽が、クッキリとした像を結ばない。なんとも、もどかしい思いを抱きながら聴いていました。
そのような思いを抱きながら巡り会った≪兵士の物語≫。この演奏を聴きながら思い至ったこと、それは、姫路城の特設の野外会場での演奏会は、名手たちによる紙芝居なのだ、ということ。公園に紙芝居師がやって来て、集まった観衆に紙芝居を見せていることに似ているのではないだろうか、と。(ちなみに、私は、「公園での紙芝居」の世代ではありません。映像や、活字を通じて、どのようなパフォーマンスであったのか、そして、それを観衆がどのように楽しんでいたのかを、見聞きしているだけであります。)
≪兵士の物語≫はまさに、公園での紙芝居を想起させてくれる演目だと言えましょう。脱走した兵士とその兵士の魂を奪う悪魔の冒険を、紙芝居風に描いていった≪兵士の物語≫。原曲では、ナレーションが付いてもいる。しかも、この曲においては、美しく、正確に演奏することは、それほど重要だとは言えそうにない(もちろん、美しく、正確に演奏されるに、越したことはありません)。音が、多少かすれても構わない(もちろん、音がかすれないほうが好ましい)。それよりも、奔放に、そして、良い意味でアクロバティックに演奏すれば、聴衆は大喜び(少なくとも、私は大喜び)。ここでの≪兵士の物語≫の演奏は、まさに、そのような類いのものでありました。しかも、野外という開放感が加わる。身近な空間で演じられているという昂揚感もある。
それにしましても、メイエの、アクロバティックなまでの技巧の冴えの、なんと見事だったこと。フランスのクラリネット奏者らしく、音が薄くて鋭さがあったことも、ここでは適していた。これが、ドイツ流のまろやかなクラリネットであれば、違和感を覚えたことでしょう。また、ロメイコの奔放なヴァイオリンも眩惑ものでありました。しかも、彼女もまた、高い技巧の持ち主であった。そのような2人に対して、ル・サージュは、ちょっと首を突き出して弾いている姿もあって、ニヒルな雰囲気を醸し出しながら飄々と弾いているようでいて、リズミカルなピアノ演奏になっていて、音楽は随所で弾んでいて、おどけた雰囲気も生まれていた。
なんとも痛快な演奏でありました。≪兵士の物語≫は、このような演奏が似合います。そして、このような環境で演じられることの「面白み」が、とことん伝わってきました。
公園での紙芝居に似た環境での演奏会。ちょっと見方を変えれば、ピクニックで、サンドイッチなどの軽食をつまむのにも似ている演奏会。逆を言えば、金ピカな重箱に、カロリーの高い食材を詰めた豪華弁当は、不釣り合いであるように思える環境。
野外ステージの場合は、生真面目な作品よりも、ちょっぴり悪戯っぽかったり、おどけていたり、ウィットが効いていたり、といった作品のほうがお似合いなような気がします。(或いは、そのような作品を中心に据えながら、その合間に、生真面目な作品を置いてゆく。)
そのような観点から、10/5に演奏されたミヨーとイベールの木管三重奏曲と、マルティヌーのセレナーデも、私を魅了しました。ミヨーとイベールでは、瀟洒な気分に包まれていた。フランス人奏者3人が集まってのフランス音楽ということで、息遣いが自然で、軽妙かつ流暢な演奏ぶりであり、表情豊かで、エレガントで、オシャレな感覚に満ちていました。また、マルティヌーでは、遊び心があって、ウィットの効いた演奏が披露されていて、大いに楽しめました。
また、姫路城から書写山圓教寺に舞台を変えての10/8の演奏会では、ドヴォルザークの≪弦楽のための2つのワルツ≫に最も惹かれました。この曲では、紙芝居師を想起させられたというよりも、シュランメル音楽の楽隊が思い起こされた。ウィーンのホイリゲで、親しげに聴衆に語り掛けてくるような、雰囲気豊かで、楽しさに満ちた音楽であり、演奏だったのであります。更に言えば、コントラバスが入っていたことによって、音の厚みが増強され、野外でのハンデが弱まっていたようにも感じられたものでした。
コントラバスが加わることによって、音の厚みが増強されたという点では、この次に演奏されたブルッフと、姫路城でのプロコフィエフ、フンメルについても、同様に感じられました。音楽の肉付きが良くなり、演奏の「実在感」が増したようにも思えたものです。
この日の演奏で印象的だったことにもう1点触れると、グラズノフでのメイエ。野外であるにも関わらず、果敢にピアニッシモで表情付けをしようとしていたことに、拍手を送りたい。これが屋内ホールであれば、鳥肌ものの演奏になっていたように思えます。また、ヴィブラートを随所でかけていたのも、フランスのクラリネット奏者らしくて、印象的でありました。
なお、冒頭のモーツァルトの弦楽五重奏曲の第1楽章と最終楽章では、上空を飛んでいたカラスが、2度、大きな声で「カァ~、カァ~」と鳴いてしまっていたというハプニング付き。これには、ステージ上の演奏者も、楽器を弾きながら空を見上げて苦笑い。盛大な雑音で、本来なら忌むべきところでありますが、なんだか微笑ましくもありました。
縷々書いてきましたが、不満なところは幾つかありながらも、流石と思わせる演奏にも出会うことができた3日間でありました。
室内楽を愛する名手たちが揃っての、コミュニケーションの素晴らしさを間近に見ることができたのも、嬉しかった。例えば、10/5の冒頭に演奏されたモーツァルトのオーボエ四重奏曲では、第1楽章の再現部に入る直前で、ルルーが濃厚かつタップリとした吹きかたをしたことに対して、樫本さんのニヤニヤしていた表情を見るにつけ、「あぁ、室内楽を楽しみながら演っているのだなぁ」という感慨を抱き、見ているこちらも幸せな気分に浸れたものでした。
10/9は、姫路で唯一の屋内ホールでの演奏会が開かれますが、他の用事が入っているために聴きに行けず。
来年も、この音楽祭は開催されるはずです。その折には、是非とも屋内ホールでの演奏会も聴いてみたいものです。