ブラッハー&大阪フィルによる京都公演(金川真弓さんをソリストに迎えてのショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第2番と、≪新世界より≫)を聴いて

今日は、京都コンサートホールでブラッハー&大阪フィルによる演奏会を聴いてきました。演目は、下記の2曲。
●ショスタコーヴィチ ヴァイオリン協奏曲第2番(独奏:金川真弓さん)
●ドヴォルザーク ≪新世界より≫
1993年から99年の6年間、ベルリン・フィルのコンサートマスターを務めていたブラッハー。その後はソリストとして活動していましたが、今は指揮もしているとは知りませんでした。指揮者としての日本でのデビューは、昨年の1月に神奈川フィルの定期演奏会で果たしたようです。
そのようなブラッハーにも注目ですが、本日の演奏会の一番のお目当ては金川真弓さんでした。彼女のヴァイオリンを初めて聴いたのは、5年前の2021年6月、大阪フィル定期演奏会で弾いたブラームスの協奏曲でした。このときは、奇しくも、本日の指揮者でありますブラッハーがヴァイオリン独奏を務めることになっていたのですが、コロナの影響で来日できなくなり(ちょうど、東京オリンピックが1年延期で開催される1ヶ月前、というタイミングでありました)、金川さんが代役で登場したのであります。
その演奏はと言いますと、オケによる長い導入部が終わり、独奏ヴァイオリンが入って来た最初の部分から、私を強く惹き付けたものでした。それはもう、衝撃が走ったといっても良いほどに。気魄に溢れていた。誠に強靭でもあった。
この出だしで、完全に勝負あり。その後は、金川さんの、変幻自在でニュアンス豊かな演奏ぶりに、ただただ聞き入るばかり。
その後、プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第2番と、藤倉大さんのヴァイオリンとフルートのためのダブル協奏曲を聴いてきましたが、いずれにおいても、雄弁にして強靭で、それでいて、敏捷性が高くて繊細で、といった演奏で、私を魅了した。
本日も、ショスタコーヴィチで素晴らしいヴァイオリン独奏を繰り広げてくれることだろうと、大きな期待を抱きながら会場に向かったものでした。
それでは、本日の演奏会をどのように聴いたのかについて、書いてゆくことに致します。

まずは、ショスタコーヴィチから。
金川さん、期待を上回る素晴らしさでした。ショスタコーヴィチならではの、思索的であったり瞑想的であったり、といった雰囲気に不足はなく、かつ、意志の力の強い演奏を展開してくれていた。なんと強靭で、かつ、緊迫感の強い音楽だったことでしょう。
しかも、一本調子なところが微塵もない。音楽が豊かに息づいていて、呼吸や流れがしなやかだったのであります。
そのうえで、リズミカルな動きの、なんと鮮やかだったこと。これは、本日の演奏で気付いたことなのですが、アウフタクトの取り方(次の演奏に入る前の拍の掴み方)が、実に機敏で的確なのであります。それ故に、あのようにキリっとしていて、かつ、シャープで、それでいて機械的にならずに自然な呼吸感を伴った演奏が可能となるのでありましょう。
アウフタクトを的確に取るというのは、金川さんに限らず多くの演奏家が(と言うよりも、全ての演奏家が)心掛けているに違いないことではありますが、金川さんのその呼吸の取り方の確かさや、その結果の動作として現れるアウフタクトでの右手の絶妙な動きや、といったものは、ずば抜けているように思えたのであります。そのことが、音楽が豊かに息づいていて、かつ、呼吸や流れがしなやかである、といったことに繋がってゆくのでありましょう。
更には、カデンツァを始めとして、気魄の籠り方も並々ならぬものだった。そのことが、作品を深くえぐってゆく。
そして、艷やかな響きのなんと美しかったこと。決して甘ったるい響きではなく、キリっとしている。それでいて、音が痩せるようなことはなく、骨太な音が鳴り響いていて、そのうえで、艶やかさを帯びている。そのような美しさを湛えたものだったのであります。また、技巧面での安定感も、間然とするところがなかった。音程もびちっと決まっている。そのようなことも含めての、なんとも見事なヴァイオリン演奏でありました。
そのような金川さんをバックアップするブラッハーによる指揮も、素晴らしかった。作品のツボを押さえながらの、金川さんをサポートしてゆく。
更には、指揮の動きが実に的確で、明瞭。それ故に、オケのメンバーも演奏しやすかったことでしょう。そのうえで、例えば最終楽章の真ん中辺りで、独奏ヴァイオリンが珍しく休みを取っている箇所などでは、激情的な音楽を奏で上げていたものでした。
なお、ソリストアンコールは無し。殆ど弾きっぱなしな協奏曲でありますので、むべなるかな、といったところであります。
さて、ここからはメインの≪新世界より≫について。
前半のショスタコーヴィチでのブラッハーの指揮ぶりから、素晴らしい演奏になるのではないだろうかと期待したのですが、その期待を上回る演奏が繰り広げられました。
前半の弦楽器のプルトの数は6-5-4-3-3だったのですが、後半では8-7-6-5-4に増強されていました。すなわち、フル編成と呼べる規模での演奏となっていた。そのことの効果は絶大で、弦楽器の音の厚みたるや、圧倒的なものがあった。ベルリン・フィルのコンマスだったブラッハーのことであります、ベルリン・フィルでの弦の音づくりといったものを大阪フィルにももたらそうとしたのではなかったのだろうか。そんなふうに想像させられた音が鳴り響いていたのであります。
私がベルリン・フィルを初めて実演で聴いたのは、1998年の秋、アバドと共に来日した際の福岡での公演でした。演目は、パユらがソリストを務めてのモーツァルトのフルートとハーブのための協奏曲と、ブルックナーの交響曲第5番という、とても豪華なもの。ブルックナーの5番だけでも演奏会として成立しそうなものですが、そこにモーツァルトも加えてくれていた。
そのブルックナーでの、ベルリン・フィルの鳴り具合の、なんと凄まじかったこと。音の圧力に圧倒されたものでした。
(アバドの音楽づくりは、ブルックナーにしてはアッケラカンとし過ぎていたように思えもしたのですが。)
本日の≪新世界より≫を聴いていますと、その時の衝撃のようなものが甦ってきた。オケとして音の艷やかさやまろやかさや、といったところでは、ベルリン・フィルに及ぶものではなかったと言えましょう。しかしながら、響きの分厚さや、束になって響き渡ってゆく迫力や、といったものが、福岡でのブルックナーにおける体験を思い出させたのであります。
まずもって、そういった面でのオケの鳴らし方の卓抜さに圧倒されたのですが、それ以外でも、音楽の息遣いの自然さや豊かさ、といった点が素晴らしかった。音楽が生き生きとしていて、かつ、逞しく息づいてもいた。そして、見通しのクッキリとした演奏が展開されていた。とは言うものの、変化に富んだ音楽となっていた。
そういった音楽づくりが、この作品の魅力を見事に描き出してくれることとなっていたのであります。
恣意的な音楽づくり、といったものは皆無でありました。それでいて、第2楽章において顕著だったのですが、アゴーギクの変化をかなり強烈に採っていた。この楽章の中間部で短調に転調した部分(46小節目から)などは、4小節単位での旋律の塊りの中で、テンポを速めては遅くする、といった変化を極端に採っていた。とは言うものの、その息遣いは、とても自然。全く誇張されたものになっていなかった。そこにはしなやかさもあった。ブラッハーが、ここでの音楽を強く感じ切っていた結果なのでありましょう。
また、第1楽章の主題提示部が終わろうとしたところで、フルートがノスタルジックに第1主題を回想する箇所(149小節目から)などでは、旋律線の中にちょっとしたアクセントを与えたりして、音楽に膨らみをもたらしてくれていたりもした。
或いは、第2ヴァイオリンがオケ全体の裏でさざ波を立てるような何気ない動きを強調していたりもした。
今、例示していったのは氷山の一角でありまして、このような表情付けを、随所で施していったブラッハー。そんなこんなが、音楽にコクをもたらしてくれていたのであります。
ベルリン・フィルのコンマスとして、世界の名だたる指揮者たちのもとで、この作品を数多く演奏してきたであろうブラッハー。そのような体験に基づいてのアプローチが、至る所に散りばめられていたのではないでしょうか。更には、「自分だったら、こんなふうに表情付けするのだけれどもな」といった考えも、数多く織り込まれていたことでもありましょう。
そんなこんなを含めて、この交響曲を知り尽くした指揮者による、極めて充実度の高い演奏が展開されていったのだ。そんなふうに言いたい。
なお、第1楽章の主題提示部のリピートは敢行されていました。このような正攻法による充実した音楽づくりが為されている演奏では、リピートの敢行は大歓迎であります。
アンコールは、≪スラヴ舞曲≫の作品72-2。あの、哀愁に満ちた旋律で広く親しまれているナンバー。
≪スラヴ舞曲≫からのアンコールは予想通りでしたが、ブラッハーの音楽づくりであれば、作品46-1のような、元気いっぱいなナンバーの方が相応しかったかな、と思われたものでした。







