尾高忠明さん&大阪フィルによるラフマニノフ・ツィクルスの第2夜(交響曲第2番とピアノ協奏曲第4番)を聴いて

今日は、尾高忠明さん&大阪フィルによるラフマニノフ・ツィクルスの第2夜を聴いてきました。演目は、下記の2曲。
●ピアノ協奏曲第4番(独奏:ゲヴォルギヤン)
●交響曲第2番
京都に引っ越してから大阪フィルの演奏会を頻繁に行くようになりましたが、特定の作曲家のツィクルスを催すことが目につきます。2023年にはメンデルスゾーンのツィクルスを開き、昨年から今年にかけてはベートーヴェンのツィクルスを、そして、今年の6月から11月までの5ヶ月の間には4つの演奏会で構成されているラフマニノフのツィクルスを敢行している。本日は、その第2夜。なお、私は、第1夜には足を運んでおらずに、本日の公演で初めて、当ツィクルスに接することになります。
堅実で、かつ、ケレン味のない音楽づくりが美質だと言えそうな尾高さん。そのために、ツィクルスを通じて、均一性の高いアプローチによって特定の作曲家の作品を網羅的に触れることのできる可能性が高くなると言えそう。ツィクルスに向いている指揮者なのではないでしょうか。
尾高さんとラフマニノフ、あまり接点がないように思えますが、それだけに、どのようなラフマニノフ演奏が展開されるのか、興味を惹かれるところでありました。
なお、演奏される機会の少ないピアノ協奏曲第4番の実演に触れることができるのは、とても貴重なこと。ツィクルスならではだと言えましょう。そこでピアノ独奏を務めるゲヴォルギヤンは、ロシア生まれの女流ピアニスト。2021年のショパン・コンクールでは、当時17歳でファイナリストとなっているようですが、私にとっては名前を聞くのも初めてのピアニスト。そんな未知の演奏家が、どのような演奏を展開してくれるのか。こちらも楽しみでありました。
それでは、本日の演奏会をどのように聴いたのかについて、書いてゆくことに致します。

まずは、前半のピアノ協奏曲から。
何はさておき、ピアノのゲヴォルギヤンが素晴らしかった。高い技巧の持ち主のようで、切れ味鋭く音楽を奏で上げてゆく。しかも、打鍵は強靭。オケはしばしば咆哮するのですが、そんなオケと真っ向から対峙しながら音楽を鳴り響かせてゆく。そのような豪放な演奏ぶりがまた、ラフマニノフの音楽に相応しい。
そのうえで、音楽を全身で受け止めてゆく、といった印象を強く持ったものでした。このことは、多くの演奏家に大なり小なり当てはまることでありましょうが、彼女の場合、その度合いが頗る強いように思えてなりませんでした。そこからは、音楽家としての誠実さや、感受性の豊かさや、更には、その時点で鳴り響いている音楽への反応の機敏さや、といったものを感じ取ることができた。そして、ダイナミックにしてしなやかな演奏を展開してゆくのでありました。
その一方で、繊細な表現も素晴らしかった。音の粒が立っていて、明瞭な音楽づくりの中から、ニュアンスの豊かな音楽が紡ぎ上げられていったのであります。
頑健にして柔軟性を帯びていて、なおかつ、ロマンティシズムに溢れたピアノ演奏だった。そんなふうに言えましょう。
そのようなゲヴォルギヤンに対して、尾高さんもまた、ダイナミックにして雄弁な音楽が奏で上げていった。この作品は、オケのパートが音楽をリードしてゆく、といった趣が強いため、尾高さんによる充実した演奏ぶりが一層際立つこととなってもいた。しかも、最終楽章での演奏ぶりを筆頭に、敏捷性の高いサポートぶりでもあった。もっと言えば、鮮烈でもあった。
それでいて、大袈裟な音楽づくりが為されていた訳ではありません。むしろ、実直な演奏ぶりだったと言いたい。そこがまた、いかにも尾高さんらしい。
聴いていて、ベロフ&マズアによるプロコフィエフのピアノ協奏曲における、マズアによるバックアップぶりを思い出すこともしばしば。そのプロコフィエフでは、マズアが、いつにも増して、バーバリズムに溢れていて、ノリノリで、カラフルな演奏を展開していたのであります。そんなマズアと尾高さんとが、ダブって仕方がありませんでした。
尾高さんとラフマニノフ、かなり相性が良さそう。それだけにメインの交響曲第2番への期待が、ますます高まってきた。そんな思いを抱きながら、休憩時間を過ごしたものでした。
なお、ソリストアンコールとして、まずはチャイコフスキーの≪くるみ割り人形≫から、終曲の「グラン・パ・ド・ドゥ」が演奏されました。終演後のアンコール告知ボードによると、プレトニョフによる編曲のようです。
こちらがまた、テクニックの切れが存分に発揮されていて、かつ、豪壮で、華麗で、見事な演奏となっていました。
そのようなアンコールに対して、聴衆は大いに熱狂して拍手が鳴りやまず(そこには、本編のラフマニノフの協奏曲での演奏への讃嘆の念も含まれていたことでしょう)、2曲目のアンコールとしてビゼーの≪カルメン≫から「アラゴネーズ(第4幕への前奏曲)」が演奏された。こちらは、ヴォロドスという人による編曲のようです。当初は、アンコールは1曲だけの予定だったのかもしれませんが、2曲も披露してくれるとは、サービス精神が旺盛で、かつ、ゲヴォルギヤンも大いに興が乗っていたのでしょうね。
この≪カルメン≫もまた、技巧性の高さが如実に現れていて、かつ、煽情的でもあった。
いやはや、なんとも素敵な、そして、鮮烈な、アンコール2曲でありました。

さて、ここからはメインの交響曲第2番について。その演奏はと言いますと、休憩中の予感が的中して、並外れて素晴らしいものとなっていました。
音楽が随所でうねっていて、甘美であり、扇情的でもあった。それ故に、頗る情感の豊かな音楽が奏で上げられていった。その様は、まさにラフマニノフにピッタリ。
それでいて、前半の協奏曲での演奏と同様に、大袈裟な表現は皆無でありました。ラフマニノフが楽譜に記した音符や指示を、忠実に再現してゆけば、あとは作品自身が魅力を明らかにしてくれるのだ。そのような意志の貫かれた演奏だったと言いたい。
(ちなみに、第1楽章の主題提示部のリピートがカットされていたのは、そのような尾高さんの方向性とは異にするものだと思え、ちょっと意外でありました。)
第1楽章の序奏部は、ゆったりとしたテンポで開始され、音楽の滔々と流れていた。貫禄豊かであり、堂々たる佇まいが示されてもいた。それでいて、音楽が停滞するようなことはなかった。それは、音楽の流れに応じて巧妙にアゴーギクの変化が施されていて、息遣いが豊かであったが故だとも言いたい。更には、彫琢が深くもあった。要は、作品への一体感が強くて、感じ切った音楽がストレートに奏で上げられていたのであります。
この序奏部を聴いた時点で、これは途轍もなく素晴らしい演奏になるぞ、と期待を膨らませたのですが、その思いは、演奏が終わるまで覆されることはなかった。
この交響曲は、大学オケに所属していた際に演奏したことがあり、そのこともあって、思いれの強い作品となっています。作品が、どのように構成されていて、どこにどのような仕掛けが施されているのかも、よく知っているつもりであります。
そのような作品に対して、尾高さんによる演奏は、次のようなものになっていたと思えてなりませんでした。鳴り響いている音が、あるべきところに収まっていて、こうあって欲しいといった表情を湛えていて、こうあって欲しいといった強度を備えていた。
例えば、第1楽章の展開部の真ん中辺りでヴィオラによって奏でられる刻みは、衝撃的なまでに強調されていて、そのために目鼻立ちのクッキリとした音楽が立ち昇ってくることとなっていた。或いは、第3楽章で、旋律の裏で頻繁に奏でられる3連符は、音楽が前進してゆくための推進力となるよう、大仰にならない範囲で際立たせていた。
かように、この作品に施されている仕掛けを明らかにし、そのことによって演奏がどのように性格付けされてゆくのかを熟知している演奏を繰り広げていた。そんなふうに言いたい。それ故に、音楽に血肉が与えられてゆき、生気に富んだ音楽が鳴り響くこととなっていったのでありました。
更には、第3楽章での甘美な演奏ぶりの、なんと魅惑的だったことでしょう。しかも、ムードに流されるようなことはなく、毅然としていた。充分に感傷的で、情緒的でありつつ、骨太でもあった。そして、タップリと歌い上げられてゆく旋律は、艷やかにして、芯のシッカリとしたものとなっていた。その裏には、尾高さんの深い共感が横たわっていたのだ。そんなにも言えそう。この楽章は、ヘタをすると、単なる「お涙頂戴」的な音楽になりかねない恐れがあると思われるのですが、そのような演奏からは懸け離れた、構成感の高さや、充実度の高さの際立っていた演奏となっていた。さすがは尾高さんだと言えましょう。
聴いている間じゅう、なんと素晴らしい作品なんだろう、ということを反芻し、溜息をつきながら、かつ、大いに興奮しながらの鑑賞でありました。
まさに、この作品の魅力を存分に味わうことのできた、なんとも素晴らしい演奏でありました。





