鈴木優人さん&関西フィルによる演奏会(ブルックナーの交響曲第7番)を聴いて
今日は、鈴木優人さん&関西フィルによる演奏会を聴いてきました。演目は、ブルックナーの交響曲第7番の1曲のみ。
ブルックナーの交響曲の中でも、8番や5番ではなく、第7番を1曲のみで演奏会に乗せるというのは珍しいと言えましょうが、ある種の潔さのようなものが感じられもします。
鈴木優人さんによる演奏は、ケレン味の無さに特徴があるように思います。そのうえで、感受性の豊かさが、率直な形で滲み出てくるような音楽づくりを施してゆく。その一方で、ロマン派以降の作品に対しては、狂おしいほどのロマンティシズムが内側から噴き出してくる、といった感興には乏しいのではないだろうか、といった印象を持っていました。
しかしながら、2023年の10月、関西フィルの首席客演指揮者就任披露の演奏会で演奏された、ストラヴィンスキーの≪プルチネルラ≫全曲版やブラームスの交響曲第1番では、作品が宿している生命力を十全に解き放っていると感じられた演奏を繰り広げてくれたものでした。音楽がうねりながら突き進んでゆく。そして、豊饒な音楽が掻き鳴らされていた。しかも、なんとも清廉な演奏となっていた。
また、ちょうど1年前の2024年3月には、日本センチュリー響を指揮した演奏会でサン=サーンスの≪オルガン付き≫をメインに据えたプログラムを聴いたのですが、そこでもロマンティックな感興に溢れた演奏を繰り広げてくれていた。激するべきところでは、思いっきり熱くて、激しい音楽を奏で上げてくれてもいた。そのうえで、尊いまでの清潔感が漂ってもいた。
本日の演奏会のチラシには「鈴木優人の清廉な第7番」というキャッチコピーが載せられています。ブルックナーの交響曲の中でも、清廉な音楽世界の広がる作品だという点では最右翼に属すると言えそうな第7番で、鈴木さんがどのような演奏を聞かせてくれるのでしょうか。率直でケレン味の無い音楽づくりを基調としながら、感興豊かで、流麗で、豊饒な演奏を繰り広げてくれそうな予感もしていました。
そんなこんなに思いを巡らせながら、会場に向かったものでした。
なお、演奏が始まる直前に、鈴木さんによるプレトークがありました。開演時刻である14時を少し過ぎてからのプレトーク。急遽組まれたプレトークだったようです。
その内容は、鈴木さんの人柄が滲み出ていたと言えそうな、実直にして、分かりやすいものでありました。語られた内容の大筋は、下記の通り。
まず、この演奏会のスポンサー企業への謝意が述べられました。そのうえで、スポンサーの中の一社である森下仁丹株式会社から、来場者に喉飴のプレゼントが用意されていて、終演後にホール出口で配られることが紹介されました。
続いて、この演奏会は、当初、関西フィルの桂冠名誉指揮者だった飯守泰次郎さんが指揮することで進められていたことが披露されました。しかしながら、飯守さんは一昨年の夏に逝去され、その直後に首席客演指揮者に就任された鈴木さんが指揮することになったと説明されたのでした。飯守さんは、毎年のように、関西フィルにとって当該年度の最後の定期演奏会となる3月に登壇されていて、今年は得意のブルックナーを披露することになっていたのです。
このことが説明された以降は、飯守さんが関西フィルと度々ブルックナーを演奏してきたことから、このオケにはブルックナーに対する「信条」のようなものが備わっていること、本日の演奏を通じて、鈴木さんも飯守さんと対話をしているような感慨を持てる、といったこと、そしてきっと、飯守さんも天国で本日のブルックナーを聴いてくれることだろう、といったことが述べられました。
更には、鈴木さんがまだ音大生だった頃、飯守さんが率いていたオケの特待生のようなポジションに就くことができ、生涯で初めてプロのオケを指揮する機会に恵まれた等の、飯守さんとの思い出の一端が紹介されたりもしたのでした。
そして、ブルックナーを演奏するに当たっては、鈴木さんがオルガニストであることを生かした音楽づくりをしたい、といった決意のようなものが披露されたのでした。
このような多岐にわたる内容を、長々と時間を費やすことなく簡潔に、しかも、素っ気なくなるようなことの一切ない、心の籠もった語り口でトークされた鈴木さん。最近、プレトークをされる指揮者が多くなったように感じられますが、その中でも、抜群に聞き応えのあったプレトークでありました。
それでは、本日の演奏をどんなふうに聴いたのかについて、書いてゆくことにしたいと思います。
率直に言いまして、想像していたものとは随分と掛け離れた演奏内容でありました。
まずもって、前半2つの楽章のテンポがかなり遅かった。特に、第1楽章の冒頭部分などは、通常の2倍近くの時間を掛けながら演奏しているのでないだろうか、と思えるほどのテンポが採られていた。演奏の開始時刻を手元の時計でシッカリと確認していた訳ではなく、第1楽章が終わったところからざっくりとした計測を始めたのですが、トータルで70分以上かかっていたのではないでしょうか。
それでいて、泰然としたブルックナー、といった風情ではありませんでした。感情の激しさをぶつけてゆくよう演奏ぶりでした。遅いテンポを基調としながらも、一つのメロディーラインの中でもアゴーギクの変化をクッキリと付けてゆく。とりわけ、鈴木さんのタクトがその傾向が強かった。それに対して、関西フィルは、多少中和させながら、鈴木さんが示すテンポの変化を、そこまで鮮明にさせない方法が採られていたように見受けられた。それ故に、テンポの変化が過度に恣意的になるようなことがなく、それでいて、音楽が適度にうねってくる。一昨年の3月に、飯守さんと関西フィルによるチャイコフスキーを聴いたときにも、似たような印象を持ったものでした。飯守さんのタクトが、かなり前のめりになっても、その通りに付いてゆこうとせずに、常套的なテンポを保持するような態度で演奏を繰り広げることが多かったのであります。この辺りは、関西フィルの体質や伝統や、といったものになっているのかもしれません。
ただ、本日の鈴木さんによるブルックナーは、かなり表現意欲の強いものになり過ぎていたように思えます。先ほど触れたアゴーギクの変化に加えて、一つのメロディーの中で特定の音を強調したり、旋律線を膨らませたり、といった表情付けを細かく施してゆく。それは時に、ちょっとばかり見得を切ったような状況を生み出すことになる。その見得の切り方は、決して大仰なものではないのですが。
「感情の激しさをぶつけてゆくよう演奏ぶり」と書きましたのも、そのような音楽づくり故のことであります。
そんなこんなによって、あまり、自然体なブルックナーだったとは思えなかった。頭で考え過ぎたブルックナーになっていたように感じられた。この点については、個人的にはあまり良しとしないところであります。
しかしながら、そのような音楽づくりであったが故に、遅めのテンポを基調としていながらも、テンポや(と言うよりも、音楽の「歩み」と言ったほうが相応しいかもしれない)、表情や、といったものが変化に富んだものとなっていて、まどろっこしさはあまり感じられずに、「次はどんな仕掛けを施してくるのだろうか」といった興味を抱きながら聴き進むことができたのでありました。とは言うものの、その仕掛けも、あまり野放図なものになっていなかったのは、鈴木さんらしいところだと言えましょう。
更に言えば、あまり流麗なブルックナー演奏でもなかったと言えそう。ここのところは、当初の予想からは大きく外れたものとなっていました。音楽の流れを滑らかにしてゆくというよりも、それぞれの場面での音楽づくりを大事にしながら演奏を進めてゆく、といったものだったように感じられたのであります。それ故に、ブルックナーらしい階段状に積み上げられてゆく音楽、といった要素が感じられもした。
かように、ブルックナー演奏としては個性的でありつつも、その一方でブルックナーらしさを感じ取ることのできる、ユニークな味わいを持っていた演奏だったと言いたい。
ちなみに、プレトークでオルガン的な音楽づくりを目指すように言われていましたが、そのような要素がとりわけ色濃く出ていたように思えませんでした。なるほど、壮麗さは一定程度感じられました。弦楽器のプルト数は7-6-5-4.5-3.5と、関西フィルとしてはかなり多め(各パート、エキストラ奏者を大勢迎えていたようです)だったのも、このことに寄与していたのでしょう。しかしながら、オケの響きがマイルドに溶け合っていたり、均一性のある響きの敷き詰められたものとなっていたり、といったブルックナー演奏だったとは感じられなかったのであります。
また、ワーグナーチューバが、音の出が丁寧ではなく、そのうえ、響きも濁り気味だったのがかなり気になりました。ちなみに、4人のワーグナーチューバ奏者は、全員がエキストラだったようです。終演後に鈴木さんが真っ先に立たせたのがワーグナーチューバだったのですが、鈴木さんは本日のワーグナーチューバに大満足だったのでしょうか。ちょっと、疑問であります。
これまでに、私が出会ってきた鈴木優人さんとは、ひと味違う演奏ぶりだった。そんなふうに言えそうでした。チラシに書かれていた「清廉な第7番」という謳い文句からも、ちょっと遠かったブルックナー演奏だったようにも思えたものでした。
しかしながら、興味深く聴くことができたのも事実であります。鈴木さんの新たな一面を知ることができた演奏会にもなりました。
このような思いを抱くことができるのも、演奏会通いを続ける妙味の一つだと言いたくなります。
終演後に頂いた喉飴は、こちらになります。