フルトヴェングラーによるベートーヴェン交響曲全集について

2022年3月9日

こちらは、2014年の12月に、フルトヴェングラー関連のフェイスブック・グループに投稿したものの再掲になります。フルトヴェングラーによるベートーヴェンの交響曲全集を私がどのように聴いたのか、紹介させて頂きます。

<以下は、グループ投稿の再掲>
12/14,15,16の3日間で、EMI盤のベートーヴェン交響曲全集を聴き直しました。盤は’97年発売の日本盤(TOCE-9508-12)であります。

誰もが認める、マエストロの代表盤ですので、録音データを書き記すまでもないと思いますが、念のために。

1番 VPO ’52/11/24,27,28
2番 VPO ’48/10/3 ロンドン ロイヤル・アルバートH(ライヴ)
3番 VPO ’52/11/26,27
4番 VPO ’52/12/1-3
5番 VPO ’54/2/28,3/1
6番 VPO ’52/11/24,25
7番 VPO ’50/1/18,19
8番 ストックホルムpo ’48/11/13(ライヴ)
9番 バイロイト祝祭o ’51/7/29(ライヴ)

こうやって、手打ちをして気が付いたのですが、’52/11/24~12/3の10日間で1,3,4,6番の4曲を集中して録音した訳なのですね。また、2,8はオケこそ違いますが、僅か1か月余りしか隔たりのない記録というのも、興味深いデータであります。
先日の投稿の折に、これらの演奏たちを初めて聴いたとき(それは35年ほど前のことですが)の印象は「不遜にも、フルトヴェングラーって、そんなたいしたことないじゃない」であったと告白致しましたが、今回改めて聴き直すと、それが如何に厚顔無恥なことであったかと、恥じ入るばかりであります。いやはや、偉大なる演奏であります。

マエストロの魅力、それは、音楽に対する情熱の凄まじさ(気迫)と、その結果として現れる即興性に溢れた表現にある、と私は考えております。しかも、それが単に「一人よがり」な音楽表現などではなく、作品の核心に肉薄して、作品の本質(本来のあるべき姿)を見事なまでに炙り出すところに、畏敬の念を抱く次第であります。
私は、どちらかというと「スコアに忠実な」演奏を好み、そういった演奏に敬意を表すのでありますが、マエストロの場合は、必ずしも「スコアに忠実」であるとは言い切れません。しかし、マエストロの偉大なところは、必ずしもスコア通りではないのですが、作曲家が欲していたであろう音楽世界、作曲家が作品に託したであろう思いを、現実の「音」として究極の状態で「再現」してくれているところにある、と感じております。演奏行為とは何ぞや、ということを考察するに当たって、マエストロの紡ぎだす音楽は、何とも示唆に富んだものであります。

前置きが長くなりました。本題に入りたいと思います。本全集に対して感じたことでありますが、マエストロの様々な演奏と比較すると、随分と端正な演奏である、というのが正直なところであります。すなわち、即興性をあまり前面に出さずに、客観的な表現を重視している場面が多い。音楽に熱中し過ぎることなく、作品像を丹念に描き出そうとしている。特に、セッション録音である6作品に、その傾向が強いと感じました。中には7番の最終楽章のように、ライヴさながらに燃え上がった演奏も含まれていますが(この演奏が、セッション録音の中では、一番古い、すなわち最も若いときのものである、ということも関係しているのかもしれません)。
では、つまらない演奏であったかというと、さにあらず。例えば≪エロイカ≫。確かに、ウラニアのそれと比較すると、昂揚感では’52年盤は見劣りがします。しかし、雄渾でスケールの大きな演奏であることに間違いはなく、葬送行進曲の荘重かつ厳粛な雰囲気は、むしろ’52年盤のほうに軍配を上げたくなるような立派な演奏でありました。
また、これは全9曲を通じて言えることなのですが、毅然とした美しさに満ち溢れている。それは単に、音色が美しいというだけではなく、ベートーヴェンという偉大なる作曲家が、しっかと屹立していることを実感させてくれるような美しさに満ち溢れている。いやはや、感嘆すべき全集である、というのが改めて聴き直しての感想であります。

本全集を聴き終った後に、7,8番についてはBPOとの’53/4/14のライヴも聴いてみました。やはり、即興性は’53年ライヴ盤のほうが強い。それはそれで、誠に魅力的な演奏ではありますが、EMIの全集の存在価値が下がることは一向にない、と感じております。むしろ、懐の深さと言いますか、異なった外観を呈しながらも、いずれの形でも作品の本質を見事なまでに表出できるところに、マエストロの魅力と偉大さがある、と感じた次第であります。