鈴木優人さん&バッハ・コレギウム・ジャパンによるヘンデルの≪ジュリオ・チェーザレ≫(10/7・西宮公演)を観劇して

昨日(10/7)は、鈴木優人さん&バッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)によるヘンデルの全3幕から成るオペラ、≪ジュリオ・チェーザレ≫を観に、兵庫県立芸術文化センターへ行ってきました。セミ・ステージ形式での上演。
この公演は、この日の西宮を皮切りに、10/11に東京で、10/14には横浜でも上演が予定されています。
なお、ジュリオ・チェーザレは、ジュリアス・シーザーのイタリア語読みになります。
(このオペラは、イタリア語で演じられます。)

登場人物とその立場、配役・声の種類は、下記の通り。
チェーザレ(ローマの将軍):ティム・ミード(カウンターテナー)
クレオパトラ(エジプト女王):森 麻季さん(ソプラノ)
コーネリア(ポンペイウスの妻):マリアンネ・ベアーテ・キーラント(アルト)
クーリオ(チェーザレの副官):加藤 宏隆さん(バス)
セスト(ポンペイウスの息子):松井 亜希さん(ソプラノ)
トロメーオ(クレオパトラの弟にしてエジプト王):アレクサンダー・チャンス(カウンターテナー)
アキッラ(トロメーオ指揮下の将軍):大西 宇宙さん(バス)
ニレーノ(クレオパトラの従者):藤木 大地さん(カウンターテナー)
ヘンデルは、チェーザレ、トロメーオ、ニレーノの3役にはカストラートを充てていました。人道上の理由から虚勢歌手であるカストラートが存在しない現代では、その代わりにカウンターテナーを配役することは原典を尊重する立場に立てば頗る妥当な選択と言え、鈴木さんらしい選択だと思えます。

ところで、私がこれまでにヘンデルのオペラを劇場で観たのは、2017年にザルツブルク音楽祭でバルトリがタイトルロールを歌った≪アリオダンテ≫のみで、今回が2つ目でありました。また、BCJを実演で聴くのは初めてのこと。
我が国では、ヘンデルのオペラが上演される機会は、決して多いとは言えないでしょう。それだけに、貴重な機会となる、今回の公演。しかも、歌手陣が充実している。ヘンデルのオペラは、アリアの占める比重が大きく、≪ジュリオ・チェーザレ≫もまた然り。そこで、まさに「歌の饗宴」の体を成すこととなり、登場する歌手の名技性が生命線になると言えます。それだけに、名手を揃えた配役に、胸が躍ります。個人的には特に、チャンスと、森さん、藤木さん、大西さんに注目していました。
純粋な演奏時間は3時間半超(休憩を含めると、約4時間15分が見込まれていました)と、ワーグナーばりの長丁場になりますが、どのような音楽に巡り会えるだろうかと、ワクワクしながら会場へ向かったものでした。

この日の、ホール前の花壇の様子

この日の公演を鑑賞し終えて抱いたもの、それは、素晴らしい上演に立ち会えたという歓びでありました。
まずもって、鈴木優人さんの生き生きとした音楽づくりが素晴らしかった。音楽の鼓動をしっかりと、そして、逞しく伝えてくれていました。全体的に、頗る克明で、歯切れが良い。そして、活力に満ちていて、ドラマティックな感興も申し分がなかった。
そのうえで、音楽に清々しさが備わっていた。そう、頗る清新な音楽世界が広がっていたのであります。とは言え、過度に冴え冴えとしていた訳ではなく、温もりのある音楽が鳴り響いていた。
しかも、例えば第1幕の幕尻で歌われるコーネリアとセストの母子による二重唱「涙するために」(このオペラの二重唱、と言いますか重唱は、2つしかなく、他は全てレチタティーヴォとアリアで構成されている)では、悲哀や絶望感を見事に描き出されていたように、音楽が一面的にならずに、心情の襞を丁寧に表してゆく。そんなこんなが、音楽に真実味を与えてゆく。
また、最終幕となる第3幕の最終場での冒頭は、4本のホルンが加わり、≪水上の音楽≫を彷彿とさせる祝祭的な音楽となっているのですが、そこでの煌びやかさや躍動感やは、このオペラの大団円を迎える華やいだ雰囲気を大いに盛り上げてくれていた。
この最終場に限らず、最終幕での鈴木さんによる演奏は、それまでの2つの幕に輪をかけて素晴らしかった。ドラマが大きく展開した後に大団円を迎える流れとなっていて、ヘンデルの筆もより一層冴えたものになっていると言えそうで、その息吹が余すところ描き出された演奏になっていました。例えば、第3幕でのトロメーオのアリアでは、ときにレガートをかけることによって、溌剌とした中にも粘り気を伴った激情のようなものが生まれ、それが音楽に多面的な表情を与えてくれていて、実に効果的でした。
とにもかくにも、鈴木さんの音楽センスの確かさや、音楽に対する誠実さが、全編を通じて迸り出ていた演奏ぶりだった。そんなふうに言いたい。
なお、そのような鈴木さんの指揮にシッカリと応え、血の通った音楽を奏で上げてくれていたBCJもまた、見事でありました。演奏ぶりが頗るしなやかで、クリアかつ鋭敏でもあった。合奏は緻密で、しかも柔軟性に富んでいた。個々の技術も、とても高いように思えた。
とりわけ、第1幕のチェーザレによるアリアに施されたホルンによるオブリガートは、圧巻でした。実に力強くて、自在感に満ちていた。ナチュラル・ホルンによる演奏だということも考慮すると、まさに驚異的。なんとも見事でありました。

話を歌手陣のほうに移しましょう。歌手陣で特に惹かれたのは、トロメーオを歌ったチャンスと、クレオパトラの森さん。
先にも書きましたように、ヘンデルはトロメーオという役にカストラートを割り当てています。ということは、この役に、高音のハリや輝かしさと、男性によって歌われることから生まれる力強さを求めていたのでしょう。そこへゆくと、この日のチャンスによる歌は、カウンターテナーによって歌われるメリットが、明瞭な形で出ていたように思えました。すなわち、とても強靭で輝かしい歌になっていた。そのうえで、この「暴君」が持つ邪悪な性格や、ドロドロとした執拗さや、憎々しさや、退廃感や、といったものクッキリと描き出されていた。しかも、コロラトゥーラの技術にも申し分がなかった。
第3幕でのアリアなどは、この日の総決算とばかりに、力強くも、表情豊かに歌い上げてくれていた。
理想的なトロメーオ役だったと言えましょう。
森さんによる歌は、実に印象的でありました。また、考え抜かれた歌だったとも思えた。と言いますのも。
クレオパトラは当初、クレオパトラに仕える侍女のリディアだと偽ってチェーザレの前に現れます。しかしながら、第2幕の半ばで、トロメーオがチェーザレを暗殺するために兵を挙げた報せを受けて、自分こそがエジプト女王のクレオパトラだと正体を明かす。その、リディアを名乗っていたときと歌いぶりと、クレオパトラだと明かした後の歌いぶりに、意図的な変化を付けていたように思えたのであります。
リディアとして振舞っていた間の森さんは、≪ホフマン物語≫のオランピアに通じるような可憐な雰囲気や軽妙さを備えた歌を聞かせてくれていた。あるいは、スザンナやデスピーナのような、スーブレット系を思わせる歌いぶりを見せていた。女王然とした威厳のようなものが、ほとんど感じられなかったのであります。第2幕冒頭での、チェーザレを庭園に招いて天上の音楽さながらの優美な調べでもてなすシーンなども、実に甘くて愛らしかった。
ところが、クレオパトラだと明かした後は、毅然とした歌いぶりに変貌したのであります。なんとも興味深い歌い分けでありました。第2幕で、チェーザレが「決闘だ」と歌い上げたアリアの直後でのクレオパトラのアリアなどは、悲嘆に暮れた心情を、抒情性を交えて歌っていた。
そのような森さんによるクレオパトラ、最大の聴きものは第3幕での長大なアリアでありました。このアリアは、カヴァティーナ&カバレッタ形式を先取りしたものなのではないだろうか、などと見なせるように思います。すわわち、前半でゆったりとした抒情的なアリアを歌い(ここの部分は、ちょっと短くはありますが)、後半は急速なテンポで軽快かつ華やかに歌い上げる。その間に挟まれたクレオパトラとチェーザレによるレチタティーヴォでのやり取りは、シェーナに相当する。カヴァティーナ&カバレッタ形式は、19世紀前半のイタリアオペラ界で一気に花開き、ヘンデルの時代にはそのような概念は存在していなかったはずなのですが、このアリアには、その萌芽が見出せるような気がするのです。
この日の森さんはとりわけ、カバレッタ部分が唖然とするほどに素敵でした。まるで、モーツァルトの≪エクスルターテ・ジュビラーテ≫かのように、軽快で喜びに満ちていて、音楽が生き生きと弾け飛んでいた。コロラトゥーラのテクニックにも間然するところがなく、華麗に音を転がしていた。そんなこんなが、とてもキュート。カヴァティーナ部分では、音を押すような歌いぶりが散見され(このことは、第3幕の最初のアリアにも感じられた)、その点は私の好みには反するのですが、カバレッタ部分での素晴らしさが帳消しにしてくれて、更にお釣りがきた、といった感じでした。

この2人の歌手陣にも触れていきましょう。まずはアキッラを歌った大西さん。
相変わらず威勢が良い。声と歌いぶりに、ハリがあって、かつ、輝かしい。
しかも、蠱惑的な色合いも出してくれていた。今夏の佐渡裕さんプロデュースによる≪ドン・ジョヴァンニ≫でタイトルロールを歌った大西さん。この日のアキッラでは、コーネリアを口説き落そうとするシーンが主にレチタティーヴォで度々出てきますが、そこでの歌い回しは、まさにドン・ジョヴァンニを思わせるような蕩けるほどに甘いものでありました。
アキッラは悪役ではありますが、トロメーオに裏切られて改心し、最終的にはチェーザレ方に加担する。最初のうちは非道な振る舞いが目立つものの、一概に憎まれ役とは言い切れません。意外と、真っすぐな心根を持った人物だとも言えそう。そのようなアキッラを好演した。そんなふうに言いたくなりました。
チェーザレ役のミードは、チャンスに比べると柔らかさに優った歌いぶりでありました。そのような中で、第2幕での「小鳥のアリア」が、実に軽やかで、しかも適度に力強くもあり、大いに惹かれた次第。このアリアに散りばめられたコロラトゥーラの技術も見事でした。また、第3幕でのアリアも、毅然としていて、かつ、ここでもコロラトゥーラでの軽快さは聴きものでした。
コーネリアに扮したキーラントは、実に深々としていて、清冽でもあった。しかも、情趣深くて、歌いぶりが端正でもあって、素敵でした。この役は、ずっと悲嘆にくれてばかりなのですが、最後の最後で息子のセストがトロメーオを殺害して復讐を果たしてようやく、歌に明るさが差し込む。その表情の変化も鮮やか。≪ドン・ジョヴァンニ≫のドンナ・エルヴィーラ辺りを聴いてみたいものです。
ここで、ようやくですが、藤木さんによるニレーノに触れたいと思います。実に面白かった。そう、素晴らしかったという表現よりも、面白かったという言葉が相応しいように思えます。
声や歌いぶりは、先日のびわ湖ホールでのガラ・コンサートで感じたように、中性的な性格を帯びている。そのこともあって、ニレーノの出で立ちは、男性なのか女性なのか判別できないようなものでした。
しかも、実にユーモラスに振舞う。その芸達者ぶりたるや、見事でありました。
そこで感じられたのは、ひょっとしたら、ニレーノを妖精のように見立てているのかもしれない、ということ。ちょっと道化っぽさもあったのですが、それよりも妖精と見た方が相応しいように思えたのでした。すなわち、現実味の薄い描かれ方がされていた。コーネリアとセストの復讐を導く役割を演じてゆくかと思えば、非道なアキッラに対して「わが友よ」などと呼びかけもして、立場が曖昧であったりもする。
とにかく、その立ち居振る舞いから、ステージ上での存在感は群を抜いていて、ニレーノの言動には常にスポットライトが煌々と照らされていたような錯覚に陥ったものでした。
最後に、セストを歌った松井さんについて。全体的に、線の細さが感じられて、残念でありました。声が通らない、あるいは伸びてこない、といった嫌いもあった。そのような中で、第2幕の幕尻のアリアは、毅然としていて素晴らしかった。

縷々書いてきましたが、ヘンデルのオペラの魅力を堪能できた、素晴らしい公演でした。
このような体験ができるからこそ、音楽会通いはやめられないのであります。