鈴木秀美さん&神戸市室内管による演奏会を聴いて

4/23(土)は、鈴木秀美さん&神戸市室内管弦楽団による演奏会を聴いてきました。既に日付は4/24になっていますが、この文章、昨日のうちに書き始めため、「本日」という言葉で綴っていますが、それは4/23であると置き換えて呼んで頂きますようお願い致します。
尚、フェイスブックへの投稿も含めて、これまでの中で最も長い文章になっています。

【本文】
本日は、鈴木秀美さん&神戸市室内管弦楽団の演奏会を聴いてきました。演目は下記の3曲。

●カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ フルート協奏曲 ニ短調 Wq.22(独奏:清水信貴さん)
●ハイドン 交響曲第83番 ≪めんどり≫
●シューベルト 交響曲第1番

我が国の古楽器演奏において、リーダー的な役割を担ってきていると言えそうな鈴木一族。バッハ・コレギウム・ジャパンを主宰している鈴木雅明さんと、そのご子息の鈴木優人さん、そして、鈴木雅明さんの実弟の鈴木秀美さん。鈴木秀美さんは、バロック・チェロの名手であるとともに、指揮者としても広く活躍をされています。
そんな鈴木秀美さんは、昨年、神戸市室内管弦楽団の音楽監督に就任し、今月より、2季目に入ったとのこと。本日は、今シーズン最初の定期演奏会ということでありました。
鈴木一族の実演に接するのは、これが2回目になります。最初に接したのが、今年の1月にびわ湖ホールで開かれた鈴木優人さん&日本センチュリー響による演奏会で、大バッハのブランデンブルク協奏曲第5番とシューベルトの≪ザ・グレート≫という演目でありました。そこで聴くことのできた音楽は、ピリオド系の指揮者ならではの演奏と言えるようなものでありました。以下は、このときの≪ザ・グレート≫について書いた文章を切り抜いたものになります。
「筋肉質で硬質な音楽で、至るところでアタックを付けながら発音させ、隈取りのクッキリとした世界が描かれたものであった。時に、爆裂音が鳴らされもした。それでいて、過度に凶暴な音楽であるとは感じられなかった。エキセントリックな演奏になっていたとも思われなかった。全体的に、輝かしさが前面に押し出されていた。そして、とても逞しかった。そう、覇気に溢れていて、推進力に満ちたものとなっていたのでした。
ただ、ちょっとセカセカとした演奏になっていたように思われました。そして、潤いの少ない演奏でもあった。その辺りが、個人的には疑問が残ってしまいました。もっと、ふくよかさや、まろやかさが欲しかった、というのが正直なところであります。
とは申せ、ユニークな魅力を湛えた≪ザ・グレート≫であったと思います。」
文章としましては、このような書き方をしていますが、正直なところ、聴いている間は疑問に思うことのほうが大きかったように記憶していました。時に鳴らされる爆裂音が、「過度に」凶暴ではなかったにしても、結構凶暴であった。それが、乾いた印象を強調させ、潤いの少なさや、ふくよかさの不足を感じさせ、それが私には不満として残ったものでした。
そのような体験をしていたこともあり、鈴木秀美さんによる演奏はどのようなものになるのだろうかと、期待と不安の混じりあった心境で、ホールに向かったものでした。
しかしながら、実際に聴いてみますと、不安を抱くような必要は全くかったと思わせるほどの素晴らしい演奏でありました。聴いた後の充実感と、清々しさとに満たされて、帰途に就いたものでした。

演奏会場の神戸文化ホールへの入口 本日撮影したものになります

それでは、個々の演奏についての印象について触れてゆくことに致したいと思います。
まずは、C・P・E・バッハのフルート協奏曲から。
C・P・E・バッハは、大バッハの次男。大バッハの息子の中では、末っ子のヨハン・クリスチャン・バッハとともに、最も音楽家として大成した存在であったと言えましょう。但し、現代では、その作品が一般の演奏会で採り上げられることは殆ど無いという状況にあります。(音楽史を辿るような演奏会では、ごく稀に採り上げられることがある、いった具合でしょうか。)
開演する前に、鈴木さんによる5分ほどのプレトークが行われたのですが、そこで鈴木さんがこの作品について使われていた言葉が「疾風怒濤」でありました。実際には、疾風怒濤(シュトゥルム・ウント・ドランク)と呼ばれる時期は、この作品が生み出されたよりはもう少し後のことになると注釈を入れられたうえで、この作品にも疾風怒濤と呼ばれる性格を備えたものになっている、と語っておられたのでした。
なるほど、疾風怒濤と言えるような性格を備えた、激動的で、感情の発露のハッキリとしているような音楽でありました。このことは、鈴木さんの音楽づくりに躍動感があることによって、より強調されていたようにも思えたものでした。
そのような鈴木さんの演奏ぶりに対して、清水さんによるフルート独奏は、ふくよかさを持ったものでありました。木製の楽器を使っていたことにも依るのかもしれませんが、清水さんの響きは、基本的には太くて丸みを帯びていて、暖かみのあるものとなっていた。しかも、ダイナミクスの幅は広く、軽やかにパッセージを奏でたかと思うと、重みのある吹き方も聞かせてくれたりと、表現の幅にも広さがあった。そう、とても雄弁な独奏であり、聞かせ上手な演奏ぶりであったと言えるように思えました。
アンコールは、C・P・E・バッハによる無伴奏フルート作品で、こちらもまた、軽妙さと重厚さとを兼ね備えた演奏でありました。ただ、リズムを崩し過ぎていて、ちょっとやり過ぎの感を覚えたものでした。

続いてはハイドンの≪めんどり≫について触れたいのですが、これが、本日の演奏の白眉であったと思います。いやはや、いやはや、実に実に素晴らしい演奏でありました。
≪めんどり≫は、≪くま≫と共に、パリ・セットの中でもとりわけ大好きな曲なのですが、この曲の魅力を最大限に提示してくれた演奏であったと言いたい。聴いている間、「あぁ、なんて素敵な曲なのだろう」と心の中で呟いていたものでした。
ここで想起した言葉が、「疾風怒濤」であります。そう、鈴木さんが、ここで展開された演奏は、凄まじいまでの推進力を備えた音楽だったのでありました。そして、素直な感情が赤裸々にぶつけられた演奏であったとも言いたい。
本日の≪めんどり≫の演奏につきましては、書きたいことが山のようにあるのですが、まずもって、演奏スタイルについて触れることに致しましょう。
そのスタイルはと言いますと、徹頭徹尾「古楽器的」なものでした。使用していた楽器は、ホルンはバルブのないナチュラルホルンで、紛れもなく古楽器を使用していましたが、それ以外には、古楽器を使用していたようには思えません。チェロがエンドピンを使わずに、股に挟んで楽器を固定しながら弾いていたのですが、後半のシューベルトの演奏前にチェロをじっくりと見ていますとエンドピンは付いているようでして、ただ単に伸ばしていなかっただけなのでしょう。ヴァイオリンとヴィオラも、殆どの奏者が顎当ての付いて楽器を使用していた(2人のみ、顎当てなしの楽器を使っていたよう)。フルートは、木製ではありましたが、モダン楽器用のキーが付いていたようです。かように、使用している楽器の大半はモダン楽器のようでしたが、演奏スタイルはと言いますと、まさに「古楽器的」でありました。例えば。
ヴァイオリンは対向配置されていました。そのために、1stと2nd の掛け合いが鮮やかに聞き取れることに。弦楽器の奏法はノンヴィブラート(ときおり、こそこそとヴィブラートを掛けている奏者もいましたが)。そして、リピートは見事なまでに全て実行。そう、両端の急速楽章においては展開部・再現部も含めて繰り返しが行われていたのでした。第3楽章については、ダ・カーポされた後も繰り返しが行われていた。トリルは、上から回転させられていた。
そして何よりも、発音が明瞭であり、かつ、各フレーズの頭を強調しながら、目鼻立ちのクッキリとした音楽づくりが為されていたのが、誠に古楽器的。
発音が明瞭と書きましたが、弦楽器奏者の弾き方を見ていて特徴的と思えたのが、弓の飛ばし方が独特であったように感じられたことでありました。シッカリと弦に弓を噛ませながら、軽やかに飛ばしてゆく。そのために、音の輪郭がクッキリとしていつつ、気持ちが良いほどに軽妙な音が奏で上げられてゆく。何と言いましょうか、音型が円弧を描きながら、鮮やかに飛翔してゆくように感じられる場面が、至る所にあった。バロック・チェロの名手である鈴木さんの指示や指導の賜物なのかな、などと想像したものでした。
そのような演奏スタイルによって奏で上げられた音楽は、先に書きましたように「疾風怒濤」と呼びたくなるほどに、躍動感に溢れていて、激情的であったのでした。そのような演奏ぶりが、古典派の作品には珍しい短調で書かれたこの交響曲に対して、誠に似つかわしいものでありました。
ちなみに、この交響曲が作曲されたのは1785年のこと。疾風怒濤(シュトゥルム・ウント・ドランク)期とは、1760年代から80年代あたりの時期を指すことが多いため、疾風怒濤期の真っただ中に生み出された作品であると言えましょう。
特筆すべきは、推進力に満ち、躍動感に溢れていた演奏であったと同時に、ふくよかさも充分に感じられた点であります。音楽の表情が多彩を極めていた。それは、万華鏡のようであったとも言えそう。聴いていて、目が眩むほどでありました。例えば。
基本的には、音楽はキビキビと進められていました。そして、先にも書きましたように、発音が明瞭で、かつ、各フレーズの頭を確かな意志でもって重点を置きながら強調させながら音楽を綴ってゆく、という進められ方をしていたのですが、突如としレガートに掛けながらフレーズを紡ぎ上げたりもする。或いは、フレーズの真ん中あたりに膨らみを持たせるような息遣いで奏で上げたりもする。そのような表現が、音楽に精妙さを与えてくれ、単に激しいだけではない「優しさ」をもたらしてくれていた。
更には、第2楽章の24小節目からの4小節間はsempre piu piano と指示されていて、28小節目で突然ffで打ち鳴らされる(それは、交響曲第94番の≪驚愕≫の第2楽章の上をゆくような「ビックリ度」を持った音楽になっている)のですが、鈴木さんはsempre piu pianoではなくディクレッシェンドをしていきながら殆ど聞こえないほどの音量に絞った後に、大音量でffを鳴り響かせた。そのことで、ハイドンが仕掛けた悪戯が、絶大な効果を発揮することになっていたりした。ハイドンは、篤実でありながら、ユーモア精神も豊かな作曲家であったと考えるのですが、その面がシッカリと表されていた場面であったと言えましょう。
めんどりのニックネームの由来となった第1楽章の第2主題も、音型をクッキリと刻みながら、まろやかで暖かみのある演奏ぶりとなっていた。
これまでに述べてきたような演奏ぶりによって、鈴木優人さんによる≪ザ・グレート≫を聴いたときに感じられた、潤いの少なさや、ふくよかさの不足といったようなものは、微塵も感じられない演奏となっていました。キビキビとしていながらも、セカセカとした感じの全くない演奏でもあった。
キビキビと言えば、最終楽章の最後の場面の追い込みがまた、凄まじいものがありました。この点においては、シューベルトの1番での最後の場面のほうが更に壮絶だったのですが、≪めんどり≫の最後も、オーケストラの面々が必死になって喰らいついていかなければならないほどの煽りっぷり。しかも、それがリピートされたのですから(1回目よりもリピートした後のほうが、更に煽り方が激しかった)、スリリングな昂揚感たるや、絶大なものがありました。コントラバス奏者が、「いやはや、大変だったけれども、達成感があるな」といったような表情を浮かべていたのが印象的でありました。
そんなこんなを含めて、素直な感情が赤裸々にぶつけられた演奏であった。そんなふうに思えてなりません。
いやはや、いやはや、ほんっとに素晴らしい演奏でありました。

≪めんどり≫について、かなり長く語ってしまいました。シューベルトについては、手短に書いていきたいと思います。
演奏の特徴は、≪めんどり≫で書いたことがそのまま当てはまろうかと思います。推進力があって、躍動感に満ちた演奏でありました。ただ、第1楽章の主部などは、テンポはさほど速いとは言えずに、ハイドンほどには颯爽としていなかった。それよりももう少し、堂々とした演奏となっていました。楽器編成も、≪めんどり≫からクラリネットとトランペットとティンパニが加わったことによって、音に壮麗さと輝かしさが加味されたものとなっていました。とりわけ、トランペットが輝かしかった。ちなみに、トランペットはバルブの付いていないナチュラル・トランペットが使用されていました。
とは言いましても、弦楽器の弓の飛ばし方に由来すると思われる、音の輪郭がクッキリとしていつつも気持ちが良いほどに軽妙な音は、ここでも健在。そのうえで、ここでもまた、突如としレガートに掛けたり、フレーズの真ん中あたりを膨らませたりと、表情を絶妙に変化させたりもする。それらが、実にチャーミングなのでありました。
そして、≪めんどり≫のとき以上に、最終楽章の最後での追い込みに凄まじいものがあった。第1ヴァイオリンのトップサイドの奏者は、興奮して半分立ち上がったくらい。同じく第1ヴァイオリンの2プルの表の奏者(彼女は、演奏中の表情が実に豊かで、しばしば楽しそうに、あるいは幸せそうに、微笑みながら弾いていました)は、演奏が終了した際にはあまりの凄まじさに苦笑いを浮かべていました。
鈴木さん、かなりの激情家なのですね。
シューベルトの1番が終わった後、アンコールで演奏する≪ロザムンデ≫の間奏曲を紹介する際に鈴木さんがマイクを持ち、「秋の運動会のような演奏でした」と表現されていましたが、まさにそのような演奏。オーケストラの奏者が指揮者に触発されて、お互いが競い合うようにして(基本的には、オーケストラ団員が指揮者に必死になって喰らいついていたと言うべきなのでしょうが、競い合っているようでもありました)音楽を奏で上げてゆくという姿が、ここにはあった。これは、実に尊いことであると思います。オーケストラの面々の多くも、団員冥利に尽きた、という感慨を持ったのではないでしょうか。
アンコールの≪ロザムンデ≫は、鈴木さんが、紛争で苦しい毎日を送っている異邦の地の人々への「祈り」を込めて演奏しますとコメントが添えられての演奏でありました。そのような意図もあって、センツァ・エスプレッシーヴォ(感情を押し殺したような演奏ぶり)を主体とした演奏。なるほど、演奏意図がそうなので、このような演奏ぶりになったのでしょうが、この音楽は、もっと幸福感に満ちたものであって欲しいと思ったのが正直なところでありました。リリックな音楽であり、感傷的な音楽であるとも言えそうですが、儚さ一本やり、という音楽ではないと思えますので。

ということで、アンコールの≪ロザムンデ≫に僅かばかりの不満がありはしましたが、総じて、実に素晴らしい演奏会でありました。
前段部分の最後に書いたことの繰り返しになりますが、聴いた後の充実感と、清々しさとに満たされて、帰途に就いたものでした。