クオクマン&京都市交響楽団による演奏会(エルガーの≪エニグマ変奏曲≫ 他)の第2日目を聴いて

今日は、クオクマン&京都市交響楽団による演奏会を聴いてきました。演目は、下記の3曲。
●メンデルスゾーン 序曲≪静かな海と楽しい航海≫
●モーツァルト ヴァイオリン協奏曲第4番(独奏:神尾真由子さん)
●エルガー ≪エニグマ変奏曲≫

クオクマンは、マカオ生まれの指揮者。2025年度から関西フィルのアーティスティック・パートナーを務めており、関西の音楽愛好家には馴染みの存在となりつつあるように思えますが、私は、その演奏に接するのは初めてになります。また、2019年から東京シティ・フィルの首席客演指揮者を務めているようです。
京響とは、2018年に初共演し、今回が5度目の共演とのこと。京響の楽団員から、強い支持を受けている指揮者だと言えそう。そんなクオクマンが、前半にメンデルスゾーンとモーツァルト、後半にはエルガーを持ってくるという、振り幅の大きなプログラムを組んできた、本日の演奏会。初めて聴く指揮者なだけに、どのような演奏を展開してくれることになるのか予想がつかなかったこともあり、好奇心を掻き立てられたものでした。

また、この演奏会を聴きに来た目的のうち、大きな部分を占めていたのが、神尾さんの実演に触れることができる、ということ。
2007年にチャイコフスキーコンクールで優勝を遂げてから、早くも20年近くが経ちます。長い経歴の持ち主であり、我が国のヴァイオリン界を代表する奏者の一人だとも言うことができましょうが、その実演に接したのは、昨年の4月が初めてでありました。そして、そこで演奏されたプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第1番に、いたく心を揺さぶられたものでした。
それは、渾身の力を込めながらの気魄の籠った演奏ぶりで、まさに鬼気迫るものだった。変幻自在な演奏でもあった。それでいて、音楽のフォルムが崩れたり、音楽が混濁したりするようなことはない。なるほど、音が汚くなることや、音がかすれてしまうことを厭わずに、全身でぶつかってゆくような演奏ぶりで、実際に音が汚れたり、ごくたまにかすれたりといったこともあったのですが、そのことが逆に、音楽にピュアな美しさをもたらしてくれていた。そのうえで、音楽への真摯な姿勢といったものが、痛切に感じられたのでありました。
そんな神尾さんが、プロコフィエフとは対極にあると言えそうなモーツァルトの協奏曲を弾く。はたして、どのようなモーツァルト演奏になるのだろうか。とても楽しみでありました。

なお、クオクマンによるプレトークの中で、本日のプログラムの構成に隠されている意図を語ってくれました。
まずもって、前プロのメンデルスゾーンの≪静かな海と楽しい航海≫のメロディが、メインのエルガーの≪エニグマ≫に引用される、という繋がりがある。また、前半の2曲は、共に作曲者が19歳の時に書き上げた作品だという共通点を持っている。
あまり、脈絡の感じられないプログラムだな、という印象を抱いていたのですが、なるほどと頷かされたものでした。

それでは、本日の演奏会をどのように聴いたのかについて、書いてゆくことに致します。

まずは、前半の2曲から。
クオクマンは、筋骨隆々とした音楽を志向する指揮者だと言えそうだな、というのが第一印象でありました。指揮の動きが鋭角的だということもあり、ショルティタイプだとも言えそう。
前プロのメンデルスゾーンでは、そのような特徴を明瞭に窺えたものでした。音楽の歩みが直線的で、贅肉を削ぎ落としたような音楽が鳴り響いていました。そして、とても逞しくもあった。
演奏が始まった当初は、そのような音楽づくりに惹きつけられたものでした。しかしながら、聴き進んでゆくと、何と言いましょうか、余情に乏しい音楽のように思えてきた。メンデルスゾーンの音楽は、何も優美一辺倒であるべきだ、などと言うつもりはないのですが、メンデルスゾーンの作品に備わっていて欲しい優美さやまろやかさに欠けていたように思えた点にも不満を覚えた。もっと、音楽に膨らみがあっても良かったのでは、とも感じられた。
とは言うものの、クオクマンはオペラでの活動も盛んなようでして、そこからくるドラマティックな感興を醸成する力量や、音楽を華やかに仕立て上げる資質や、といったものを備えているようにも思われました。その結果として、演奏会の前プロに相応しい華やかさ、更には、勢いの良さや、といったものが前面に出た音楽が鳴り響くこととなっていて、聴いていてウキウキとした気分にさせられたものでした。
さて、問題は、モーツァルトであります。神尾さんのソロは、あまりに妖艶に過ぎて、そして、情念的に過ぎていて、モーツァルトからは遠い演奏だったと思えてならなかった。
なるほど、実に堂々とした演奏ぶりで、迷いの全くない音楽づくりが示されていました。音楽に思いっ切り起伏を付けていて、激情的な演奏を繰り広げてくれていった。しかも、表情付けは極めて濃厚。そこに、頗る艷やかな響きが加わる。そして、じっくりと音楽を歌い込んでいく。
そんなこんなは、まさに、模範的なヴァイオリン演奏だったと言えそう。神尾さんが、卓越したヴァイオリニストであることが、演奏の端々に刻まれていました。今、ここで挙げていったことは、神尾さんの美質であると言えましょう。
基本的には、粘着力の強い音楽が奏で上げられていった。その一方で、曲想に応じて、音楽を小気味良く奏で上げてゆく。この辺りも、正統的な音楽表現だと言えましょうし、神尾さんの演奏家としての嗅覚の鋭さや、音楽への誠実さの表れだとも言いたい。
しかしながら、神尾色が濃くなればなるほどに、モーツァルトから離れてゆく。純真な音楽、といったものから離れていくのであります。その様が、やるせなくなってきて、もっと言えば、気の毒にも思えてきた。
最終楽章などは、度々挟まれるカデンツァを、思索的に演奏していたのが印象的でありましたが、それも、モーツァルトを感じさせるものではなかった。或いは、第2楽章での弱音を主体にしながら(と言うよりも、声を潜めて音楽を奏でてゆきながら)、静謐な音楽を志向してゆこう、といった演奏ぶりも、モーツァルトならではの屈託のなさから遠い、あまりに神妙な音楽になっていたと思えてならなかった。
なお、これは余談になりますが、神尾さんは、真っ赤な靴を履いていました。このことに気付いたのは、終演後。ステージ上から舞台袖へと歩いて下がってゆく後姿を見ていて、気が付いた次第。その赤は、実に鮮やかなものだった。そして、妖艶な雰囲気を引き立てることとなっていた。神尾さんの音楽への志向と相通じるものが、その赤い靴に見出せたように思えたものでした。
また、これも余談になりますが、演奏終了後、クオクマンは一旦ステージから舞台袖に下がると、それ以降はステージに現れることはありませんでした。そのため、神尾さんのみがステージ上に現れることに。ここで邪推なのですが、クオクマンは、神尾さんの演奏ぶりに納得していなかったのではないだろうか。
そんなふうに想像させられたほどに、神尾さんの音楽づくりと、クオクマンによるサポートぶりとは、水に油だったように思えたものでした。そう、神尾さんの妖艶な音楽づくりに寄り添うような演奏にはなっていなかった。それよりももっと、キビキビとした演奏が展開されていた、とも思えたのでした。
ソリストアンコールは、パガニーニの≪24のカプリース≫から第5曲目。
本編のモーツァルトとは異なり、神尾さんの表現を、作品がシッカリと受け止めてくれていた、といった印象を持ったものでした。

ここからは、メインの≪エニグマ≫についてとなりますが、あまりショルティタイプの指揮者だな、といった印象を受けませんでした。メンデルスゾーンでは、作品が作品なだけに、そのような傾向が色濃く感じられたのでしょうか。
とは言うものの、例えばティンパニが活躍する第7変奏の「トロイト」や、第11変奏の「B.G.N」やでは、直線的な音楽づくりが前面に押し出されていた。その辺りも含めて、全体にキビキビとした演奏ぶりが示されてもいました。
とは言いつつ、全体的に、メンデルスゾーンに比べると丸みを帯びていて、かつ、音楽をタップリと歌い込み、ある種の豊麗さの窺える演奏となっていました。それ故に、エルガーならではのノビルメンテな雰囲気も滲み出てくる演奏となっていた。
その一方で、チェロのソロで始まる第12変奏の「ロマンス(※※※)」で顕著だったように、物憂げな雰囲気にも不足はなかった。それは、冒頭の主題の提示においても然り。
また、この作品のクライマックスの一つとなっている第9変奏の「ニムロッド」では、キビキビとした音楽づくりを封印して、滑らかにして、雄大で、殊更に感動的な音楽に仕上げてゆこう、といった意識の強く感じ取れる音楽づくりが為されていた。
(この変奏は、アンコールとして演奏される機会も多く、かつ、東日本大震災といった大災害が起きた直後に開かれる演奏会の冒頭で、人々を悼むために奏でられることも多い。)
更には、最終変奏の、エルガー自身の肖像でもある「E.D.U」では、ドラマティックにして逞しい音楽が奏で上げられていた。
かように、起伏に富み、表情豊かな演奏が繰り広げられていったのですが、何か、今一つ心を打つ演奏にはなり切れていなかった。それは、演奏ぶりが、予定調和的に過ぎていたからでありましょうか。なるほど、キビキビとしていて、生気にも不足はなかったものの、作品の根底から音楽が躍動していて、豊かに息づいている、といったふうには思えなかったのであります。