ル・ポン国際音楽祭2026の最終日を聴いて

今日は、ル・ポン国際音楽祭の姫路公演を聴きに行ってきました。
演目と、それぞれの作品での演奏者は、お手数をおかけしますが、添付写真をご参照くださいますようお願い申し上げます。

2022年に初めて足を運んだル・ポン国際音楽祭 赤穂・姫路。以降、毎年通っていまして、これで5年連続となります。
この音楽祭は、ベルリン・フィルの第1コンサートマスターを務めている樫本大進さんによって開始され、自らが音楽監督に就いている、室内楽のための音楽祭。これまでは、10月の上旬に1週間ほどかけて催されていた(9月下旬から10月上旬にかけて、ということもあった)のですが、今年は半月ほど早い開催となり、9/13(日)の赤穂公演で開幕し、本日の姫路公演が最終日となります。

弦楽器奏者の多くや、ピアノのル・サージュ、クラリネットのメイエ、といったところは、この音楽祭の常連となっていますが、今年はホルンにヴラトコヴィチが参加しているところに目を引かれます。
演目には、マイナーな作品が並んでいると言えそうで、全ての曲は聴くのが初めてでありました。とは言うものの、管楽器のための佳作を多く書いているライネッケが採り上げられたり、ハンガリーの代表的な作曲家の一人であり、指揮者のクリストフ・フォン・ドホナーニの祖父でもあるエルネ―・ドホナーニ(ドイツ語名でありますエルンスト・フォン・ドホナーニのほうが、よく通っているかもしれません)の作品が演奏されたりと、なかなかに興味深いプログラムが組まれています。
どのような音楽に出会うことができるのか、とても楽しみでありました。

なお、今年の音楽祭のテーマは「作曲するヴィルトゥオーゾ」とのこと。すなわち、演奏家としても名手として鳴らした作曲家たちの作品でプログラムを構成していったようです。
サン=サーンス(1835-1921)は、卓越したピアニストとして活躍していて、かつ、オルガン奏者も務めていた。クルターグ(1926-)もまた、ピアニスト。ライネッケ(1824-1910)は、ピアニストとして活躍する一方で、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管の指揮者も務めていた。
リース(1784-1838)は初めて聴く名前でありますが、ヴィルトゥオーゾ・ピアニストとして活躍していたそうです。そして、ドホナーニ(1877-1960)もまたピアニストであり、指揮者、教育者としても国際的に活躍していた。
かような経歴を持つ、ヴィルトゥオーゾ・兼・作曲家たちの作品を並べた、本日のプログラムとなっている訳であります。

ところで、この音楽祭での演奏会を聴くために姫路に向かう途中の、恒例となっているのが明石海峡大橋の観光。やはり、何度訪れても圧倒されますし、美しい建築物にときめきます。

それでは、本日の演奏会をどのように聴いたのかについて、書いてゆくことに致します。

まずは、前半の3曲について。
その中で最も印象に残ったのは、冒頭のサン=サーンスの≪セレナーデ≫でありました。7分ほどの短い音楽でしたが、作品も演奏も、誠に素敵だった。
8分の6拍子なのでしょうか、ゆったりとしたテンポによる3拍子系の音楽が奏で上げられていって、その様は舟唄のようでありました。ゴンドラに乗ってユラユラと揺られてようだった。そのことを裏付けるように、演奏後の聴衆からの拍手を受けて、一旦舞台袖に下がった演奏者達が再びステージに戻る際、ヴィオラ奏者のラ・マルカは、舟を漕ぐような仕草をしていた。
そんな、ゆったりとしていて、心地のよい流れに乗って、穏やかで、優しげな音楽が奏でられていった。
そのような中で、主に旋律を担当していたのはヴィオラ。その、ラ・マルカによるヴィオラの、なんと素敵なことだったでしょう。音がタップリと鳴り響いていて、たおやかな音楽が奏でられていた。朗々たる歌いぶりでもあった。豊かさが感じられるヴィオラでありました。
そこに、ロメイコによるヴァイオリンが、鳥の囁きのような清澄な音を、時折添えていったり、オブリガートを奏でたり、ヴィオラとオクターヴユニゾンを奏でたりする。その様の、なんと清からだったことでしょう。
また、オルガンが旋律を奏でると、凛とした音楽世界が広がる。
オルガンと言いましても、パイプオルガンではありません。こじんまりとしたリードオルガンが使われていた。それ故に、なんとも慎ましやかで古雅な音が鳴り響く。曲が始まって、全体をリードするべく旋律を奏で始めたのがオルガンでありまして、「穏やかで、優しげな音楽」といった性格を決定づけてくれたものでした。
そんなこんなの、実に魅惑的な音楽でありました。しかも、演奏者同士が、我を張り合うようなことは皆無。なんとも平穏な空気に満たされた音楽であり、演奏でありました。
2曲目のクルターグは、ステージ上には2人のチェロ奏しか姿を見せていない。その2人が、旋律とはとても呼べそうにない音を、ロングトーンのようにして訥々と鳴らしてゆく。2人が鳴らす音は実にか弱くて、不協和音のようでありつつも、決して激しくぶつかり合うようなことはない。しかも、ヴィブラートを掛けることが一度もなかったこともあって、音が豊穣になるようなことは全くない。
そんな2人のチェロに対して、ヴァイオリンも2人いたようですが、舞台裏で弾いていて客席からは姿は見えない。そのヴァイオリンパートは、チェロに受け答えするようにして、時おり音を鳴らしてゆく、といった感じ。しかも。その音は、チェロパートと同じく、ロングトーンのようにして、か弱い音を訥々と鳴らしてゆく。
そこからは、不穏な雰囲気でありつつ、清浄な空気が漂うこととなっていた。異空間に迷い込んでしまったようで、ちょっと常軌を逸したような音楽世界が広がってもいた。
プログラムにはチェレスタの表記もありますが、曲が終わる直前に、ほんの3つの音を鳴らすだけだった。しかも、本日の公演では、客席の一番後ろ(3階席の最後方)で弾かれていたよう。そのことがまた、異空間に迷い込んでしまった、という印象を強くしたものでした。
前半の最後に演奏されたライネッケは、時折シューベルトの八重奏曲を想起させられながら、情熱的な音楽が鳴り響いていった。色彩豊かでもあった。
そのような性格を色濃くしていたのは、クラリネットのメイエであり、ホルンのヴラトコヴィチだったと言えましょう。共に、実に強靭であり、かつ、雄弁な音楽を奏で上げていったのであります。
その一方で、ル・サージュによるピアノは、実にエレガントなものとなっていた。
ここでの3人の演奏は、後半の演目での各奏者の演奏ぶりとオーバーラップするところが多かったと思われます。ということで、後半での記述の中で、詳しく触れていきたいと思います。

それでは、ここからは後半の2曲について。
後半の冒頭に置かれたリースという作曲家の手によるピアノ五重奏曲は、トントラバスが入るという、変わった編成の作品。しかしながら、この編成によるピアノ五重奏曲には、シューベルトの≪ます≫がある。なるほど、聴いていると、時折、≪ます≫に似た響きがしてきたものでした。特に、コントラバスが小節の頭を「ズーン」と弾いて、他の楽器群が音楽を奏でていく、といったシーンでは≪ます≫が強烈に思い起こされた。と言うよりも、そのようなシーンに出くわして、「そうか、この編成は≪ます≫と同じだったな」と気付いた次第。
また、この作品は3つの楽章から成り立っていますが、第2楽章から第3楽章へは切れ目なく続いていった。その第3楽章に入ってすぐのところでピアノによって弾かれる、ほんの些細なフレーズが、どこかシューベルトの歌曲のピアノ伴奏を想起させられもした。なお、この作品が書き上げられたのは1815年とのこと。シューベルトのピアノ五重奏曲≪ます≫よりも、4年ほど早く作曲されていたことになります。
ところで、前半のライネッケでも、シューベルトの八重奏曲が思い起こされました。本日のプログラムは、シューベルトへとオマージュといった要素も含まれているのかもしれません。
(おそらく、私の思い過ごしなのでしょうが。)
なお、リースという作曲家はヴィルトゥオーゾ・ピアニストだったということもあって、ピアノの活躍の目立つ作品となっていました。とは言うものの。ル・サージュは、無闇矢鱈と華麗に奏で上げるようなことはしない。かなりエレガントな音楽づくりが為されていたのであります。これは、ライネッケの三重奏曲においても感じられたこと。
ライネッケの作品、随分と情熱的な箇所が目立ったのですが、バリバリと弾き飛ばすようなことは皆無で、整然とした演奏ぶりを基調としながら、律動感にも不足のない演奏を展開していました。そのことがそのまま、後半のリースにも当て嵌まる演奏ぶりでありました。
このようなピアノ演奏によって支えられての演奏は、安定感が抜群で、かつ、コクの深いものとなります。
しかも、ル・サージュのピアノは色彩感も十分。それ故に、聴き手にとっては、感覚的な歓びにも不足はない。
この点についても、ル・サージュの演奏に触れる度に感じ取ることができる。いやはや、なんとも素晴らしいピアニストであります。
そのようなル・サージュに対して、弦楽器群もまた、充実した演奏を繰り広げてくれていました。とりわけ、前半のサン=サーンスで感心させられたヴィオラのラ・マルカには惚れ惚れとさせられました。室内楽作品でのヴィオラに頻繁に現れる分散和音や、刻みや、といった動きが、クッキリと浮かび上がってきて、音楽に豊かさをもたらしてくれていた。また、ヴァイオリンと掛け合いを演じる場面では、堂々と掛け合っていた。しかも、朗々としていて、力強くもあった。
ヴィオラなどの中声部が充実していると、音楽に活気や、深みや、奥行き感や、といったものを生み出してくれますが、まさにそのような音楽が鳴り響いていたのであります。
さて、最後に演奏されたドホナーニのピアノ六重奏曲に移りたいと思います。
本日のプログラムの中では、最も編成が大きく、かつ、ピアノに弦楽器に管楽器にと、多彩な楽器構成による作品ということで、大トリに置かれたのでありましょう。しかも、これが、今年のル・ポンの大トリということにもなる。
ここでの演奏で最も感じ入ったこと、それは演奏者たちが「音楽する歓び」といったものをストレートな形で発露していた点でありました。お互いを聞き合って、仲間たちに寄り添い、時に仲間たちを挑発し、仲間たちと共に高め合い、歓びを分かち合う、といった姿勢がハッキリと感じ取れたのであります。それは取りも直さず、室内楽の核心を成すところであり、室内楽の醍醐味だと言えましょう。演奏者たちからすると、この醍醐味を味わうために室内楽をやっているのだ、というところも大きいことでしょう。
ル・ポンでの演奏は、このことに裏打ちされたものが大半だと思えるのですが、ドホナーニでの演奏において、殊更に強く感じられたものでした。ル・ポンの原点を見た、或いは、ル・ポンの理想形を見た、といった感を抱きもしたものでした。
このことを、とりわけ強く感じ取ることができたのは、ヴィオラのベルトーの演奏態度でありました。この女流のヴィオラ奏者は、樫本さんと室内楽を演ることに大きな歓びを抱いていたに違いありません。顔の表情や、身振りや、といった外見上での反応のみならず、演奏上でのヴァイオリンとの渡り合いの、真摯にして雄弁で機敏であったこと。そんなベルトーに対して、樫本さんも真摯に応えていって、しばしば、より一層凝縮度を増したり、激情的になったりしていた。
そう、ドホナーニでの樫本さんは、随分と激情的だったのであります。樫本さんの演奏は、端正さが強く、時に大人し過ぎるのではないだろうか、と思わせるところがあるように思えます。もちろん、そのような傾向ばかりではなく、ここぞというところで感情の昂りを見せてくれるのですが、端正な面が勝っているように思われる。
そこへゆくと、本日のドホナーニでは熱烈な演奏ぶりが露わとなることが多かったように思われたものでした。
とは言うものの、音楽が粗くなるようなことは毛頭ない。音楽のフォルムが崩れたり、美観を損ねたり、といったことも微塵もない。
そのうえで、ホットな演奏が展開されていて、そのことが演奏者全体に波及していたのでもありました。白熱の、そして、凝縮度の高い演奏が繰り広げられていった。
そう、クラリネットのメイエも、ホルンのヴラトコヴィチも、情熱的で、かつ、積極的な演奏を繰り広げていたのであります。
メイエは、フランス系のクラリネットに特有の、強靭にして、鋭さを持っていて、それでいてしなやかさも備えた演奏ぶりを示していった。時に、ヴィブラートを施してゆくのには閉口してしまうのですが、雄弁にして自在なクラリネット演奏だったと言いたい。そんなこんなが、先にも書いた積極的な音楽に繋がっていったのでもありました。
また、ヴラトコヴィチによるホルンは、まさに雄弁な演奏ぶりでありました。
音を恣意的に割ることも多かったのですが、そのことによって美観を損ねるようなことはない。それよりも、音楽を鋭く、そして深くえぐってゆくことに寄与していた。音楽に力強さを与えてくれることになってもいた。
また、そのような面だけでなく、全体的に芯のシッカリとした音楽世界を醸成させてくれてもいた。
ヴラトコヴィチが、この演奏において占めていた役割や功績は、計り知れなく大きかったと言いたい。
さて、ドホナーニでの演奏でピアノを弾いていたバックスでありますが、ル・サージュに比べると、音の柔らかさよりも強靭さが目立っていたように思われます。それ故に、強固にしてストレートな音楽づくりとなっていた。その演奏ぶりは、ドホナーニでの共演者たちとの方向性に適ったものだったとも言えそう。
なお、この作品は4つの楽章から成っていて、最終楽章は、ジャズ風の味わいを前面に出しながら、時折、ワルツも顔を出すといった、ユニークな造りをしていました。そして、オシャレでもあった。そんな味わいを、演奏者たちは存分に楽しんでいた(と言いつつも、悪ふざけは全くなかった)ようで、それがまた、大トリに相応しかったようにも思えたものでした。
なお、アンコールは無し。
知らない作品ばかりの並んでいた演奏会でしたが、室内楽の愉しさに満ちていた、満足度の高い演奏会でありました。