フロン&京都市交響楽団による演奏会(オール・ドヴォルザーク・プロ)を聴いて

今日は、フロン&京都市交響楽団による演奏会を聴いてきました。演目は、下記の3曲。
●ドヴォルザーク 序曲≪謝肉祭≫
● 〃 ピアノ協奏曲(独奏:阪田知樹さん)
● 〃 交響曲第7番
今月の京響定期は、本日のみの1回公演。その指揮台に登るのは、チェコ生まれの女性指揮者、アレナ・フロン。1992年生まれで、今年34歳になる、まだ新進と呼べそうな指揮者で、これが、日本デビューになるそうです。なお、シカゴ響やコンセルトヘボウ管に登壇した実績のある指揮者だとのこと。
そんなフロンが、お国物のドヴォルザークばかりを並べたプログラムを組んでの本日の演奏会。とは言いましても、メインは、後期の3大交響曲の中でも最も演奏頻度の低い第7番を持ってきている。そして、中プロの協奏曲には、これまた、ドヴォルザークが作曲したチェロのためのものでも、ヴァイオリンのためのものでもなく、最も演奏頻度の低いピアノ協奏曲を持ってきている。そんな、ちょっとばかり「ひねった」オール・ドヴォルザーク・プロが組まれました。ということはすなわち、あまり実演で接する機会の多くない作品に接することができる、ということ。とりわけ、ピアノ協奏曲を聴くことができるのは、とても貴重な機会だと言えましょう。
そのピアノ協奏曲でソリストを務めたのは、阪田知樹さん。阪田さんを初めて実演で聴いたのは、昨年の2月で、そのときはチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を弾いたのですが、力でねじ伏せよう、といった意図が全く感じられなかったものの、力感に不足のない演奏を繰り広げてくれていました。宏壮な音楽が奏で上げられていながらも、丹念にして、精妙な音楽づくりが為されていた、とも思えたものでした。
そんな阪田さんが、どのような演奏を聞かせてくれるのか。フロンの指揮とともに、とても楽しみな演奏会でありました。
それでは、本日の演奏会をどのように聴いたのかについて、書いてゆくことに致します。

まずは、前半の2曲から。
フロン、溌剌とした音楽づくりを信条にしている指揮者のようです。そのことは、前プロの≪謝肉祭≫において、殊更に顕著だったように思えた。
出だしから、とても賑やかで、躍動感に溢れ、活気に満ちた音楽が弾け飛んでいったのであります。こういった性格は、この作品の核心部分だとも言え、堂に入った演奏ぶりとなっていたものでした。総じて、エネルギッシュな演奏でありました。
しかも、指揮をする身振りもまた、元気いっぱいなものとなっていた。長身で、腕も長いのですが、そんな身体を目一杯使いながら、明朗活発にタクトを振ってゆく、といった指揮ぶり。
そんな指揮ぶりだからこその音楽が鳴り響いていった、と思わずにおれませんでした。
演奏会の開幕に相応しい、華やかな雰囲気に包まれた前プロでありました。
その一方で、阪田さんによるピアノは、実にリリカルなもの。大言壮語せずに、ジックリと音楽を語ってゆく、といった演奏ぶりで、それは、昨年に聴いたチャイコフスキーと同様なものでありました。
と書きますと、フロンの指揮と阪田さんのピアノ、水と油のように思われるかもしれませんが、さにあらず。お互いが強く自己主張するのではなく、お互いを尊重して、相手に横槍を入れるようなことなく、むしろ、お互いを補完し合いながら音楽を奏でてゆく、といった共演ぶりになっていたのであります。これは、両者の音楽性の高さと、相手をリスペクトする誠実さとに依るところが大きかったのだ、と思えたものでした。
そのような中でも、とらわけ、阪田さんのノーブルな演奏ぶりに心を奪われたものです。しかも、リズミカルな処理にも、全く過不足が無い。そのために、端正にして、生命力に溢れた音楽が鳴り響くこととなっていた。また、これ見よがしにテクニックをひけらかすようなことは微塵もなく、切れ味鋭い演奏ぶりだったというものからは遠かったものの、正確なテクニックを裏付けとした精確な音楽が奏で上げられていて、その点でも、なんとも見事でありました。
全体において、純音楽的な美しさを湛えたピアノ演奏だった。そんなふうに思わずにおれませんでした。それとともに、改めて阪田さんの音楽性の豊かさを痛感できた演奏でありました。
そんな阪田さんに対してフロンは、作品のツボを押さえながら、感興豊かに音楽を奏で上げていった。この作品が持つ、ロマンティックにして、雄大な性格も、きちっと表してくれていた。立派なサポートぶりでありました。
ソリストアンコールでは、リストの≪忘れられたワルツ≫第1番、という作品が披露されました。
ここでも、リリシズム溢れる演奏であったとともに、可憐にして、敏捷性に富んでいて、かつ、ウィットの滲み出る演奏となっていました。

ここからは、メインの交響曲第7番について。
なるほど、熱演だったと言えそう。前半での演奏からも窺えた、溌剌とした演奏ぶりは、ここでも健在でありました。そのうえで、この作品に織り込まれている「激情」や、熱き血潮の燃え滾る様、といったものもシッカリと表されていた。必要に応じて、扇情的でもあった。
しかしながら、何と言いましょうか、音楽がツギハギのように響いていた、といった印象が拭えませんでした。それは、多くの場面で、フレーズの処理や、旋律の歌わせ方に、必要以上の起伏が込められていて、音楽が「ドッコラショ」と言いながら進んでゆく、といった感じを受けて仕方がなかったのであります。その点が、気になって、気になって、どうしようもなかった。もっと言えば、それがために、音楽の流れが単調になっていたようにも思われた。
また、第3楽章の開始のためのアインザッツが曖昧だったようで、オケの「出」にバラつきが生じていた。似たようなことが、ピアノ協奏曲の第1楽章の出だしでも見受けられた。フロンは、これから音楽が始まる、といった場面での「思い切り」に欠けているのだろう、と思われたものでした。或いは、一定の流れを受け継ぎながら音楽を進める場面においては特に問題が生じることはないものの、何も無いところから「音楽が生まれる」場面での音楽の処し方に問題を抱えているのでは、といった印象を受けたものでした。
そのような中で、第1楽章の結末の部分や、最終楽章の最後の部分などでは、昂揚感の豊かな音楽を奏でてくれていて、聴き応えがありました。とりわけ、最終楽章の最後は、テンポがガクンと落ちてカタルシスを迎える、といった構造になっているのですが、その処理が実に堂に入っていた。
また、京響から豊潤な響きを引き出していた点にも、唸ってしまいました。音楽づくりがダイナミックだったことが、こういった印象を強めてもくれたのであります。
更には、「ドッコラショ」と言いながら進んでゆくといった印象を受けながらも、ドヴォルザークのメロディ・メーカーとしての卓抜さが率直に表される場面の多かった演奏だったとも言いたい。
そんなこんなによって、聴くべきところが多く、かつ、感心させられることも多かったのですが、聴いていて不完全燃焼に陥ってしまった、というのが正直なところでありました。それと共に、フロンという指揮者の実体のようなものを、今一つ掴み切れずに終演してしまった、といったところでもありました。と言いますのも、今一つ、演奏における「ひらめき」といったものが感じられなかったがために。そして、予定調和的にも思えた場面が多かったがために。
もっと聴く機会を持ってみたい指揮者であります。





