トレヴィーノ&大阪フィルによる演奏会(ショスタコーヴィチの交響曲第11番 他)の初日を聴いて

今日は、トレヴィーノ&大阪フィルによる演奏会の初日を聴いてきました。演目は、下記の2曲。
●プロコフィエフ ピアノ協奏曲第3番(独奏:ゲニューシェネ)
●ショスタコーヴィチ 交響曲第11番 ≪1905年≫
1年半ほど前の2024年11月の大阪フィルによる定期演奏会で初めて聴くこととなった、アメリカ生まれの指揮者でありますトレヴィーノ。そこでは、今回と同じくショスタコーヴィチの交響曲をメインに据えた(≪レニングラード≫が採り上げられた)プログラムが組まれ、それはそれは見事な演奏が繰り広げられたものでした。
音楽がベトつくようなことは微塵もなく、折り目正しく、明瞭にして明朗な音楽が奏でられていった。威圧的なところは全くない。それでいて、ひ弱な音楽づくりになるようなことは決してなく、ゆとりを持って音楽を掻き鳴らしながら、生命力に溢れた逞しさが滲み出てくる音楽となっていた。
きっと本日もまた、同様の演奏が展開されることだろう。そう思うと、ワクワクしてなりませんでした。
しかも、今回はプロコフィエフのピアノ協奏曲第3番が添えられています。5曲の魅力的なピアノ協奏曲を残してくれたプロコフィエフでありますが、その中でも私が最も愛しているのが、この第3番。ピアノ独奏を務めるゲニューシェネは、1991年にロシアで生まれた女流ピアニストで、2022年のヴァン・クライバーン国際コンクールで第2位を獲得しているようです。同コンクールで辻井伸行さんが優勝を果たしたのは、2009年のことになります。ゲニューシェネは、名前を聞くのも初めてでありますが、自国の作曲家でありますプロコフィエフをどのように弾くのか、こちらも楽しみでありました。
それでは、本日の演奏会をどのように聴いたのかについて、書いてゆくことに致します。

まずは前半のプロコフィエフからでありますが、なんとも素晴らしかった。ピアノ独奏も、指揮も。
まずもって、ゲニューシェネの硬質にして強靭なピアニズムの何と見事なことだったでしょうか。頗る鋭利な演奏ぶりで、かつ、ダイナミック。そして、いい意味で凶暴。そんな演奏ぶりが、この作品にピッタリでした。敏捷性が高くもあった。そのうえで、随所で見られる強拍が小節や拍の頭からズレてゆく様が、ビシバシと決まってゆく。そんなこんなの、何と痛快だったこと。
とは言うものの、単に力任せな音楽づくりになっていた訳ではありません。整然としていながらも、頑強で鮮烈な音楽が奏で上げられていったのであります。切れ味の鋭さが十分に感じられつつも、これ見よがしにその点を強調するようなこともなかった。すなわち、誇張のない音楽づくりが為されていたのでありました。
しかも、響きに透明感があった。透徹されたピアニズムだったとも言えましょう。凛とした佇まいを示してくれてもいた。それ故に、音楽が品性を失うことはなかった。
であるからこそ、第2楽章を筆頭に、随所でリリカルな美しさを感じ取ることができた。
そのようなピアノ独奏に対して、トレヴィーノによるバックアップもまた、頗る鋭敏なものとなっていた。そして、機敏でもあった。リズム感に優れてもいた。そんなこんなによって、こちらもまた、音楽がビシバシと決まっていった。
ゲニューシェネとトレヴィーノ、音楽における志向が、極めて近かったように思えたものでした。この両者、頗る相性が良いようであります。
そんな両者によって、この作品の魅力を心行くまで味わうことができた。いやはや、秀逸な演奏でありました。
また、ソリストアンコールが、なんともチャーミングでした。
演奏が始まった当初は、例えばオルゴールのように、規則正しくて、かつ、感情を籠めることを排したようにして弾いていった。しかも、そこでの響きの、なんとピュアだったこと。プロコフィエフの協奏曲での演奏以上に、凛としていて、透明感のある響きで敷き詰めていったのであります。それは、まるでクリスタルを思わせるような響きでありました。それだけに、より一層、機械的な性格が強調されたものでした。
ところが、途中から、テンポを揺らしたり、リズムを引きずったり、と、変化に富んだ音楽に様変わりした。更には、まるで、≪ホフマン物語≫のオランピアによるアリアの如く、ゼンマイ仕掛けの人形が、ゼンマイが切れかかったために音楽の進行が不規則になるような素振りを見せるようになった。
そんなこんなが、ユーモアたっぷりに披露されていった。ゲニューシェネの芸の細かさや、音楽性の高さやギュッと詰まっていたアンコールだった。そう思わずにはおれませんでした。
終演後にアンコール曲を知らせる掲示を見ますと、ショスタコーヴィチによる≪人形の踊り≫より「おどけたワルツ」という作品だったようです。なるほど、と思ったとともに、ゲニューシェネの表現力の確かさが痛感されたものでした。

さて、ここからはメインのショスタコーヴィチについて。
期待を超えた、素晴らしい演奏でありました。それはもう、凄絶な演奏だったと言いたい。
とは言うものの、冒頭などは、様々とした空気が張り詰める、というよりも、暖かみを湛えていました。それは、過剰なまでに弱音を追求するのではなく、ハープをはじめとして、大きめの音によって実在感のある音が響き渡っていたことに依っていたためでありましょう。開始して2,3分が経過してホルンがソロを吹いた後の弦楽器などは、音量としてはメゾ・ピアノくらいで弾いていて、豊潤にして艷やかな音で敷き詰められていた。
そのようなこともあり、必要以上に冷酷な音楽になっていませんでした。それでいて、やはり、第1楽章の性格に相応しい苛烈な雰囲気を湛えた音楽が鳴り響いていたのであります。
緩徐楽章であるこの楽章は、開始してしばらくの間は、音量を絞った上での動きの少ない音楽となっていて、目立った動きと言えばティンパニによる鐘の音を模した音型くらい。そのような音楽も、次第に音量を増しながら、動きが活発になってゆくと、音楽が逞しさを帯びてくる。そして、鋭敏な音楽となってゆく。そのようなニュアンスの変化に作為がなく、息遣いが自然でもあった。その辺りに、トレヴィーノの音楽性の豊かさと、手腕の確かさが滲み出ていたと言いたい。
全曲を通じて、今申し上げたことが当てはまる演奏が展開されていった。すなわち、この作品に織り込まれている性格が「作り物」的に表されるのではなく、率直な形で表されてゆく。しかも、自然な息遣いのもと。
そのような中でも、白眉は第2楽章でのフガートで書かれている箇所と、その直後でありましょう。ここは、1905年の十月革命における「血の日曜日事件」での大虐殺を描いた場面。この日の演奏では、まさに阿鼻叫喚とした音楽になっていました。大音量でオケが鳴り切っていて、壮絶極まりない演奏が繰り広げられていたのであります。荒れ狂うが如き音楽でもあった。それでいて、オケが乱れるようなことはありませんでした。音が濁るようなこともなかった。力の限りを尽くして奏で上げられていたにも拘らず、整然としていて、極めて秩序立った音楽が掻き鳴らされていたのであります。であるが故に、より一層、苛烈な音楽として鳴り響くこととなっていた。この箇所が過ぎてゆくと、突然、音楽は静寂に包まれるのですが、しばらくの間、身体が硬直したままで、身動きが取れませんでした。そんな、凄絶な音楽が奏で上げていたのでありました。
かように、この交響曲は、表題性の非常に強い作品となっています。トレヴィーノによる音楽づくりも、今しがた触れたフガートの場面で顕著だったように、表題性を意識したものだったのは間違いないでしょう。とは言いつつも、表題性を生かしつつ、純音楽的でもあるアプローチが施されていたと言いたい。描き上げ方に誇張がなく、「感じ切った」音楽が、そして、共感に満ちた音楽が、毅然と奏で上げられていた。そんなふうに思えてならなかったのであります。そのような志向が、私にはとても好ましかった。
なお、曲の最後は、鐘が打ち鳴らされ、その余韻がホールにずっと残っていたのですが、鐘の音が完全に消えてもしばらくの間、トレヴィーノは指揮棒を完全に下ろすことはありませんでした。その間、客席はシーンと静まり返ったまま。その後に、盛大な拍手とBravoが送られた。そのような反応が誠に相応しい、見事な演奏でありました。





